「…………明日?」
「そうよ」
「唐突過ぎない?」
「仕方ないじゃない。いきなりな話なのは向こうもわかってるわよ」

深紗子が持ってきたのは、海の家のバイトだった。
従業員が一人、夏風邪を患ってしまい、困っているのだという。
今が一番忙しい時期、人が欠けるのは痛い。
どうにか臨時で一日と半分、働ける誰かを紹介してくれないだろうか、と。

無論仕事で深紗子は行けるはずもなく。
しかも要望は明日からで、早急な返事が求められていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、青海というわけだ。

「でも、私、バイトなんてしたことないよ?」
「大丈夫。何も代わりになってくれ、って言ってるんじゃないんだから」
「それならいいんだけど……」
「あら、まだ引っ掛かることでもあるの?」
「うーん……ねぇ、お母さん。もう一人、連れて行ってもいいかな?」
「……そうね、人手は多い方がいいだろうし。いいんじゃないかしら? 蓮華くん料理できるものね」
「お、お母さん! 別に私蓮華くんだなんてひとことも……っ」
「違うの?」
「違わないけど。……電話してくる」
「はいはい」

ぷいっ、とむくれながら受話器に向かった娘を見て、少し遊びが過ぎたかと反省。
数分後受話器を置き、ほっとした顔をする青海に訊ねる。

「大丈夫だって?」
「うん。明日の朝、家の前に来て、って言っておいた」
「あ、そうそう。青海、水着買ってらっしゃい」
「え? 何で?」
「一日目は暇なんてないでしょうけど、二日目は午前中だけでいいらしいから。少しくらい海で泳ぎたいでしょう?」
「……そういえば、水着なんて学校のしか持ってないなぁ」
「だからよ。蓮華くんにも伝えておきなさい」
「はーい」

再び青海は電話を始める。
話が終わるや否や、玄関の方に行き、

「ちょっと出かけてくるー」
「どこに?」

わかっていても、深紗子は一応訊いた。

「水着買いに」
「楽しんでらっしゃーい」
「………………」


案の定、返事はなかった。これだからからかうのは止められないと、苦笑する深紗子だった。










デパートで何故か青海が蓮華の水着を選んだり、試着して似合うかどうか見てもらったが無反応だったり。
そんな感じで軽くごたごたしつつも、どうにか買い物を済ませて翌日。

「青海ちゃん、蓮華くん、それじゃあ、お願いできるかな?」
「あの…………」
「ん?」
「蓮華くんは、調理場の方に回していただけませんか?」
「どうしてだい?」
「彼は、えっと……接客とか、そういうのが苦手なので」
「そうか、わかった。蓮華くん、料理の方、頼めるかい?」
「……はい」

少し早めに着いた二人は、海の家の主人に会って話を聞いた。
事前に連絡は通っていたらしく、快く受け入れられ、仕事着を用意される。
そこでの交渉。あくまで青海の言葉は蓮華を気遣うものだった。

エプロンをつけた蓮華が駆けていく。
少し心配でもあるが、料理の腕前に関しては全く問題ない。
自分も頑張らなくちゃ、と青海は気合いを入れ直した。


そして、仕事の時間が始まった。


「青海ちゃん、これお願いー!」
「はーい!」

海の家での仕事は大きく分けてみっつある。
ひとつは場所の提供。荷物を置いたり着替えたり、休憩したりする客は多い。
そういったニーズに応えるため、ここでは更衣室や座敷を用意している。
もうひとつはビーチパラソルなどの貸し出し。砂浜にビニールシートを敷く人が主な利用客だ。
他にも浮き輪やビーチボール、ゴムボートも貸し出しを行っている。
最後に食べ物の販売。一品料理から酒のつまみにドリンク各種と、割と範囲は広い。

その中で二人が担当するのは調理物関連だ。
蓮華が作り、青海が運ぶ。コックとウェイトレスだと思えばいい。

「お待たせしましたー!」
「次こっちお願いー!」
「わかりましたー!」

夏真っ盛りの今は稼ぎ時。客の出入りが激しい分、ひっきりなしに動くことを要求される。
席を埋め尽くす人々の注文全てに答え終わる頃には、青海の額を大量の汗が濡らしていた。

一段落し、少し裏に入って冷たい麦茶を口に含んでから、裏方の様子を見てみる。
厨房の中で、蓮華は真剣な面持ちを保ちながら皿を洗っているところだった。
特に心配するような状況でもないらしく、ほっと息をつく。
何しろ誘って連れてきたのは自分なのだから、店の側にも蓮華にも、迷惑が掛かってしまっては申し訳が立たない。

「頑張ってるみたいだね……」

……もうひと頑張りしなくちゃ。

汗を拭って、青海は表へと向かった。
食堂内が落ち着いたのは、それから二時間ほどしてのことだった。










夕食に有り難く同席し、泊まる部屋に案内される。
しかしそこで、二人はひとつの事実に気づいた。

「へや、ちがう……」

青海と蓮華の部屋は別々だった。
確かに、常識的に考えれば、男女同室という訳にもいかないだろう。
無論蓮華は女の子と一緒にいると危ない性格では微塵もなく、完全に確実に安全なのだが、そんなことは青海以外知らない。
泊まらせる側からすれば、当然の処置だ。

「ちょっと汚いけど我慢してほしいな」
「あ、はい、大丈夫です」
「よかった。風呂はもう沸いてるから冷めないうちにどうぞ」
「……ありがとうございます」

明日のおおまかな予定を聞き、連絡事項はそこで終わる。
それじゃ、と去っていく背中を見送ろうとして、青海は何となく横に視線を移し、

―――― 蓮華がほんの少しだけ、青海以外の誰も気づかないほど微かに、寂しそうな表情をしていた。

「あの、ま、待ってください」
「ん? どうしたの?」
「えっと、ええと…………私と、蓮華くん……同じ部屋でいいですか……?」
「え? あー、うーん……青海ちゃんが平気なら、いいけど……本当にいいの?」
「はい」
「……蓮華くんは?」
「…………おねがい、します」
「はぁ……わかった。布団は自分で運んで。それならいいよ」
「すみません。我が儘言って」
「気にしてないよ。何か、事情とかもあるんだろうし」

今度こそ、おやすみ、という言葉と共に足音が消えていく。
姿が見えなくなると同時に、青海の裾が引っ張られる。
隣で立ち尽くす蓮華は、疑問の色を目に浮かべていた。

「どうして?」
「……蓮華くん、ひとりじゃいや、って顔してたよ?」
「………………」
「先に言うけど気にしないで。私がそうしたいって思ったんだから」
「……うん。ありがとう、はやかわさん」

感謝の気持ちが欲しかったわけじゃない。
ただ、そんな顔をしてほしくなかった。できれば、笑っていてほしかった。

それから風呂に入って、パジャマに着替えて布団を運んで。
電気を落とすと、修学旅行の夜を思い出す。
みんな何故だか気恥ずかしい話ばかり始めるのだけど、青海はいつも早々に寝てしまっていた。
あの頃はまだ恋なんて知らなくて、人を好きになる意味も知らなくて。

「ねぇ、まだ起きてる?」
「……うん」
「あのね、蓮華くん。……明日さ、仕事は午前中に終わるでしょ?」
「たしか」
「そしたらさ、水着持ってきたよね。それ着て、海に出よう? 陽が落ちるまで遊ぼう?」
「………………はやかわさんは、そうしたいの?」
「うん。蓮華くんと、一緒に行きたいの」
「……わかった。いく」
「約束ね?」
「やくそく」

少しだけ腕を伸ばして、小指を絡める。
ほんの些細な繋がりだけれど、肌のあたたかさが伝わってくる。

「指切ったっ。……じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」


目を閉じる前に一瞬だけ見た、彼の顔は。
気のせいでないのなら、穏やかで、そして安らかだった。



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