緑里家に葉書が来た。 先日野菜を送ってくれた親戚からだ。 そこにはただ簡潔に、三日後に行く、という旨が記されていた。 書かれたのは一昨日。つまり、訪問するのは明日だ。 「………………」 どうしよう、と蓮華は戸惑った。 向こうが自分達のことをどれだけ知っているかはわからないが、どちらにしたって両親不在であるのに変わりはない。 見当外れだと呆れられたりしないだろうか。 無駄足になったりはしないだろうか。 「…………うん」 それは考えても仕方ないことだった。 とりあえず、掃除をして、明日のために食材を買ってこようと蓮華は決めた。 そもそも、緑里家にはほとんど人が訪れない。 電気水道ガスに新聞、あとは中学校まで家庭訪問の時に先生が。そのくらいだ。 稀にセールスがやってくるけれど、大人がいないとわかるとすぐに帰っていく。 そのせいで、余計に蓮華は世界から切り離されていた。 今もそれは変わらない。でも、例えば青海が頻繁に会いに来るようになった。 いつも一人っきりの家の中が少しだけ活気を得る。 音がなくても、自分以外の誰かがいる、という時間は有り難いものなんだと気づいた。 なら、今日の来客はどうだろう。 毎年世話になってる人達だけど。 ……あんしんしたり、するのかな。 青海といるとほっとする。寂しくなくなる。 胸の奥が、ちょっと、あったかくなる。 それは誰に対しても抱く気持ちなのか、まだ蓮華にはわからなかった。 あるいは、今日わかるのかもしれないと思う。 「……きた」 玄関のチャイムが鳴る。 ドアを開けると、優しそうな表情の老人が二人立っていた。 確か、母方の祖父母の弟夫妻。農家を営んでいて、それなりに忙しいらしい。 挨拶もそこそこに、リビングへと案内する。 途中、いくつか言葉を交わしたけれど、全て他愛ない内容。 テーブルに座り麦茶を出してからは、腰を据えての話になる。 送ってもらった野菜のこと、いきなりの訪問でびっくりしたんじゃないか、という謝罪。そして、 「そういえば、お父さんとお母さんは?」 「………………きょうは、かえってこないです」 「いそがしいのかい?」 「……はい」 嘘をつく痛みが顔に出ないか、蓮華は怖かった。 この家で前に何が起こったかを二人は知らないようで。 だから、蓮華にとってどれほど残酷な問いかもわからずに訊いてくる。 今日は、ではなく、今日も、なのだ。 忘れてしまいそうなくらい長い間、親の顔を見ていない。 それが悲しいことであるのを、青海との関わりの中で学んでいる。 この二人が行方を知っていれば、なんて淡い期待も抱いたが、望みはない。 「……全く、仕事にかまけるのもいいが、もう少し子供のことを考えてやるべきじゃないのかねぇ」 そんな蓮華の心情など露ほども気づかず、老爺が呟く。 心配してくれているのがわかり、けれど複雑な気持ちになった。 「まあしかし、蓮華くんに会えただけでも嬉しいわい。前に会ったのは三歳くらいの時じゃったかのう。覚えとるか?」 「…………ごめんなさい」 「ははは、気にするな。覚えてなくて当然じゃ。あの頃は可愛かったが、今は少し凛々しくなったな」 「……そう、ですか?」 「うむ。のう婆さんや」 「そうですねぇ。昔よりずっと、大人っぽく育ってますね」 楽しそうに二人は話す。 蓮華が知らない時のことを。母親のことを。父親のことを。 そして彼らは疑わない。ずっと、昔と同じように蓮華達家族は続いているのだと。 ―――― さみしかった。 目の前にいるのに、理解されない。 本当のことなんて何も知らず、本当だったことばかり語られて。 そこに蓮華はいない。ひとりぼっちで、苦しんで、青海と出会って、毎日が楽しいと言える蓮華はいない。 青海じゃないと…………駄目なのだ。 ためらいなんて微塵もなかった。 即座の返答。それはそのまま、迷いのなさを表している。 唐突な問いだった。 会話の流れも雰囲気も顧みない、ただ訊くべきことを訊くだけの問いだった。 「…………お父さんのこと、まだ好き?」 そんな、青海の言葉。 深紗子は「ええ」と答える。 十年以上も経つのに、その想いは揺らいでいない。 離れていても。顔を合わせることすらなくとも。 変わらない、愛しているという気持ち。 青海にもある、気持ち。 もしかしたらもう、そんなものはなくなっているのかもしれないと考えていた。 でも、全くの杞憂だった。疑った自分を恥じるくらいに。 青海は"あれから"の父の居場所を知らない。 現在何をして、どうやって生きているのかも。 母なら知っているのかもしれないが、何となく、訊けずに過ごしてきた。 ……今でも青海は、自分が悪いのだと思っている。 父が離れていってしまったのは、あの日取り返しのつかない過ちをしてしまったからだ、と。 だから、幸せだった三人の日常は戻ってこなくなった。 そして母にも、辛い日々を送らせてしまった、と。 もし、家族の絆というものが、大切な何かを想う気持ちが変わらずにあるのなら。 一度途切れてしまっても、また繋がるのだろうか。 自分と、父と、母と、三人でこの家に暮らす未来を、信じてもいいのだろうか。 ―――― 子供だった自分のしたこと、それが罪なら購いたい。 「…………ねぇ、青海」 「え、な、なに? お母さん」 不意に、真剣な表情で声を掛けられる。 続くのは、問いだった。 青海と同じようで、違う問い。 「あなたは…………蓮華くんのこと、好き?」 「好きだよ」 「ううん、違う。その"好き"じゃなくて」 「………………わかんない」 「何が、わからないの?」 「……この気持ちが"好き"なのか、わかんない」 そして青海の答えは、深紗子が望んだものだった。 「いつか……いつかわかる時が来るわ。あなたにもね」 「お母さん……?」 「さ、もう寝なさい。肌が荒れるわよ」 「お、おやすみなさい!」 足音が遠ざかっていく。 閉まるドアを見つめながら、深紗子は溜め息をついた。 「…………ごめんね」 それはもう何度目かも知らぬ謝罪の言葉。 立ち上がり、小物入れから一枚の紙を取り出してテーブルに置く。 まだ書く気は欠片もない。ただ、今は見るだけ。 夫の欄に名の書かれた、離婚届を。 back|next |