……きっと気づかれない。 それは確信に近かった。 彼は後ろを振り向かないだろう。そもそも普通振り向く必然性はない。 事実だけを言うならば、青海は蓮華を追いかけていた。 もう少しはっきり言うならば、ストーキング中。 できる限り怪しまれないように、そして追いつかないようにゆっくりとペダルを漕ぎつつ。 脳裏に浮かべるのは緑里家への道筋。 分かれ道はもうすぐだ。そこまではいつも通る場所。 「……晴れて良かったぁ」 もし雨が降っていたら物凄く困っただろう。 今日は長期戦のつもりでここまで来ているのだから。 風は暖かく、陽射しは決して暑くない。 けれど、こんなにも清々しい春の空気の中にいても、彼女の気持ちは曇っている。 ずっと引っ掛かっているのだ。 ひとつの問い。小さな声。薄く歪んだ表情。 その全ては単純な答えを導き出した。 ……絶対何かある。 もともと何もないとは思っていなかったが、先日のことで予測は立った。 蓮華はおそらく、自分のものに近い傷を持っている。 それがわかった以上、青海はじっとなんてしていられなかった。 無断で後を付ける。そんな己の行動はあまりよろしくないことを理解している。 でも、他の方法はもう思いつかない。手詰まりなのだ。 担任に訊いた。誤魔化された。 彼と繋がりのある友達を探した。見つからなかった。 無論、本人に訊ねるのは論外。たかだか一生徒にできることなんて、ほとんどないんだと実感させられた。 だから、正解のしっぽを掴めるのはこの方法だけ。 ようやく見えたのだ。逃がすつもりはない。 「………………」 玄関まで辿り着いた。 小さな背中がドアの向こうに消えるまで、遠くから見守る。 完全に扉が閉まったのを確認してから、適当な位置に陣取った。 ここからは長期戦。 納得いくまでは梃子でも動かないつもり。 幸いにも人通りは皆無に等しく、怪しまれることはなかった。 あらかじめ持参した本を読みつつ、彼の家からも視線は外さない。 三冊目に突入したところで陽が落ち始めた。青海は本を閉じ、首を回す。同じ姿勢で居続けたからちょっとだるい。 ふぅ、と溜め息をつき、気合いを入れ直して散漫になってきた注意力を戻す。 一時間。 二時間。 三時間。 十時を過ぎた。 ……誰も、本当に誰も、帰ってくる気配は欠片たりともなかった。 蓮華を最後に、あの家は人を入れていない。 電気はもう消えている。寝てしまったのだろうか。 小学生みたいな早寝だ、と思い、苦笑。しかしそれも心なしか引き攣った笑みになってしまった。 「…………どうして」 どうして。両親は。他に家にはいない? ひとり。ひとり。……ひとり? たったひとりで、ずっといるの? ―――― 震えが来た。 彼はいったいどれだけの時間そうして生きてきたのか。 青海には想像もつかなかった。想像なんて、できなかった。 「……ううん」 いや、もしかしたら、今日はたまたま両親の帰りが遅いだけなのかもしれない。 そうだ、きっとそうだ。いつもは違うんだ。いつもは、ひとりじゃないんだ。 次の日、もう一度青海は同じように彼の家を見つめ続けた。 ……蓮華以外、あの家に入る人間はやはりいなかった。 掴んだ右手は相変わらず見た目通りに小さくて、力を込めれば折れてしまいそう。 子供のそれを握るように、青海は蓮華を引き連れる。 時刻は三時過ぎ。授業はもうなく、用事のない人間は皆帰路についている。 談笑しながら校舎を離れていく生徒達。その中を二人は駆け足で追い抜いて進む。 自転車置き場に辿り着き、蓮華を後ろに乗せて漕ぎ出す。強く、強く。 分かれ道。互いの帰り道を分かつ場所。 そこを左に。ひたすら行くと、ひとつの家が見えた。 表札には『早川』と書いてある。……青海の家。 自転車を仕舞い迷わず鍵を差し込み、開け、また手を引いて玄関、廊下を通り過ぎ、 「…………ここ」 そこは彼女の部屋だ。 何の飾り気もないドア。ノブを回す。押す。室内に入る。 机と箪笥と青海の胸の高さくらいある鏡、押し入れ。部屋を構築する物はそれが全て。 少女が住むところにしては、非常識なほど寂しい。 良く言えば落ち着いた、悪く言えば彩りのない光景。 蓮華は変わらず無表情で、周りに視線を巡らせることもせず、ぼんやりと立っていた。 どうして連れてこられたのかもわからない。そもそも、彼女は何も伝えずにただ彼を引っ張ってきた。 「座って。飲み物持ってくるから」 しばらくして、二人分の麦茶を携えた青海が彼の横に座る。 その時、机の上に立て掛けてあったフォトスタンドを手に取って。 とん、とそれを蓮華の前に置く。 一枚の写真。写っているのは、ラフな服装の男性と三歳くらいの女の子だ。 広い空を背景に、笑顔がふたつ並んでいる。 向日葵のような幼い笑みと、柔らかい慈愛の笑み。 「これが私。これが、お父さん」 「………………」 「随分と昔の話。私はよく覚えてないけど、霧ノ埼の東の方に、ピクニックに行ったらしいの」 ぼんやりとある記憶。 家族三人でお弁当を食べた。おいしかった。 一面の緑、草原を走り回った。楽しかった。 それはまだ、全てが変わってしまう前のこと。 未来なんて知らなかった、知らなくてもよかった頃のこと。 「……ちょっと、話そっか。つまんない話。聞いてくれる?」 彼が答えるより先に、青海は語り始めた。 少しずつ、ひとつずつ、自分の過去を。現状を。変わってしまったものを。欠けてしまったものを。 「知ってる? 男の子は母親を好きになって、女の子は父親を好きになるんだって」 「………………」 「私もそうだった。どっち、って訊かれたらお父さんの方が好きって答えてた」 ―――― なのに、どうしてなんだろうね。 零れたそんな言葉には本人もびっくりするほど、何か大事なものが足りなかった。 失ったものは二度と戻らないのか。 過ちは絶対に取り返せないのか。 「緑里くん、君は怖くないの? 私は怖いよ。ずっと、ずっと怖いの」 「………………」 「ひとりはいや。ひとりでいたくない。嫌われてもいい。離れないでほしい。……もう、さみしいおもいをしたくない」 思い出が胸を締めつける。心を震わせる。 勝手に涙が出てきた。止まらなくなった。ぽろぽろ溢れた。 ……生きているのも、怖かった。 「ねぇ、緑里くん、なんで? なんでそんな顔でいられるの? 怖くないの? 寂しくないの? ひとりはだめだよ。こわいよ。さみしいよ。ね、嘘でしょ? 本当は、知ってるんでしょ? ひとりでいることが、どんなに悲しいか。辛いか。苦しいか」 見てられない。 自分は何も知らないと、何もわからないと、抵抗も諦念もない表情をする彼のことを。 手を伸ばす。背に回す。抱きしめる。 華奢で、ちょっとだけあったかくて、壊れそうな身体。 彼はされるがままで動かない。揺らがない。……伝わらない。 だから、 「もう、ひとりでいないでよ……っ!!」 泣きながら、さらに強く、壊れるくらい抱きしめる腕に力を入れて、青海は声を上げる。 無様に、情けないほど鼻水も流して、自分と、蓮華のために、言葉にもならない声を張り上げる。 顔を埋めた小さな胸は、ほっとするほどあたたかかった。 だから余計に感情が溢れる。鼓動が聞こえて、ぼやけた視界の向こうには蓮華がいて。 なのにどうして届かないのか。どうして、ただひとこと、たったひとこと、 「さみしいって、言ってくれないの…………?」 ……蓮華は、さみしいという言葉の意味を知っていた。 でも、何が"さみしい"ことなのか、ずっと、わからなかった。わからなかった、はずだった。 目の前で青海が泣いている。さみしいからと、泣いている。 背中まで回ったその腕が力いっぱい身体を締めつけていた。少し息が苦しくて、痛くて、だけど不思議と安心できた。 そして、それは―――― 長らく、感じていなかった、気持ちだった。 くすぐるような感覚が、頬を流れる。 蓮華は初め、その熱い何かがどういうものか、気づかなかった。 伝う雫はぽたりと、青海の頭に落ちて弾ける。 青海は上を、呆然とした蓮華を見た。 「…………緑里くん、泣いてるの?」 ……さみしいと、泣くの? 泣くのは、さみしいから? なら―――――― あとはもう、止まらなかった。 一粒が二粒に。二粒が倍になり、無数になる。 こぼれた涙は忘れていたものを呼び覚まし、思い出が心を震わせて、蓮華は喉元に詰まるものを、抑えられなかった。 「ぅ、ぁ」 最初は拙くて。 「あ、ああ」 けれど、少しずつ大きく。 「あああ、」 最後には、全てを吐き出すように力強く。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 声を弱めることもせず、言葉を選ぶこともせず、ただ子供のように、幼子のように、感情をぶちまけた。 宙を彷徨っていた手は青海の腰を抱き、胸に顔を埋め、ひたすら泣き続けた。 彼女はそんな彼のことを、今度はそっと抱きしめる。抱きしめて、一緒に声を張り上げた。 ひとりはいやで、ひとりはこわくて、ひとりはさみしくて、ひとりはかなしくて。 こうして二人でいれば、さみしさはあったかさに変わっていくのだと信じて。 涙が枯れてもいいから、もう、ひとりでもへいきだなんて、思わないでほしい。 back|next |