もっと何か込み上げるものがこう、ちょっとくらいはあるんじゃないかと思っていたけど、全然そんなことはなかった。
終業式。一年間分の成績が書かれた通信簿。事実上のクラスの解散。
中学校の頃は全然、これっぽっちも悲しくなかった。
高校なら違うんだろうかとも想像してみたものの、結局変わったことなんてひとつもなく。
また明日、くらいな気楽さで、一年生期間は幕を閉じた。
春休みを終えれば次は二年生。クラスも授業内容も一転する、新たな日々が待っている。

「……みんな元気だなぁ」

クラスメイトの面々はお別れ会という名の馬鹿騒ぎを今頃教室で始めているだろう。
先生にも強引に許可を貰っているので、ギリギリ問題が起きないレベルで面白可笑しく楽しむに違いない。

青海も勿論誘われた。
曲がりなりにもクラス委員長、労いの意味も含めて、参加しないか、と。
けれど彼女は断った。理由はいくつかあるけれど、本当のものはたったひとつだ。

「帰ろっか」

言葉に、頷きが返ってくる。
控えめに手を握ったら、きゅっと力の入る感覚を知った。


彼女が行かない最大の理由は、そのお別れ会に、蓮華が誘われなかったから。










『あの日』から、蓮華は少しずつ、ぎこちないながらも喋るようになり。
微かに、笑ったり、困ったり、そんな感情も垣間見せるようになった。

ゆっくりとではあるが、青海も彼から話を聞き出すことができた。
その時も彼は泣いてしまい、彼女も一緒に泣いた。
けれど涙腺がとても緩くなっていることを、二人とも嫌だとは感じなかった。

悲しかったら泣けばいい。
ずっと、蓮華はそんな当たり前なことさえ忘れていて。
それを取り戻せたのが、青海にとっては何より嬉しかったのだ。

共感とか同調とか、あるいは依存とか。そういう気持ちがないといえば嘘になる。
でも、守りたかったから。大事だと思ったから。自分が抱いた意思を、青海は信じていた。

休日には二人でどこかに出かける。
場所は決まっていなくて、公園だったり喫茶店だったり映画館だったり、特に目的もない。
ただ、色々なことをして、色々な世界を見て、そこで彼がどんな風にいられるんだろうか、と。
その中で、笑ってくれるのなら嬉しいな、と青海は考える。

例えばベンチで鳩に囲まれてどうしよう、って呟いたり。
例えばコーヒーを飲んで苦さに顔をしかめたり。
例えばホラー映画のワンシーンでぎゅっと腕を掴まれたり。

今まで欠片も見せなかったものを、こんなにも無防備に教えてくれる。
自分の前で。自分だけに向けて。……誰も知らない、蓮華の姿。

どこか嬉しく、そしてどこか誇らしかった。

拙いながらも精一杯、彼はしっかり応えるから。
ちゃんと向き合えているのだと、心底感じられる。

「…………はやかわ、さん」
「ん、何?」

今日は早川家で夕食作りだ。
彼の腕前は……正直予想以上で、ちょっと負けている気さえする。
女としてそれはまずい、と変に競争意識を燃やす青海だった。

「……ううん。なんか、なまえ、よびたくなったから」
「そ、そうなの?」
「………………」

くいくい。
微かな力で服の裾を引っ張られる。上目遣い。沈んだ表情。
―――― こういう時の彼はとても弱々しい。
不意に、寂しくなるんだそうだ。きっと反動なのだろう。"慣れ"るまでの辛抱だと思う。

でも、だからといって無視できるほど淡白な性格もしておらず。
青海は包丁を置いて、そっと、彼の小さな手を握る。
昔、母がそうしてくれたように。あの瞬間の、あったかい感覚を思い出しながら。

どれだけの効果があったのかは謎だが、果たして蓮華は落ち着いてくれた。
そんな姿はあまりにも子供らしく、少し……いや、結構、複雑な気持ち。


『あの日』のことを思い出すと、青海は恥ずかしくなる。
だって、あんなに泣いたのはいつ以来だろうか。しかも、思いっきり抱きしめたりなんかして。
妙に意識してしまう自分がいる。……不思議だ。

ちらりと彼に視線を向ける。
下手すれば小学生に見られそうな容姿。
幼い顔。まだぎこちない言葉。自分よりもよっぽど寂しがり屋で、怖がりで。

そんな蓮華が凄く凄く愛しい。

だけど、恋愛経験のない青海にははっきりと言えないことなんだけど。
「愛しい」と「愛してる」はきっと違うものなのだ。
少なくとも今、こうして感じている気持ちは、例えるなら、母が子に抱くものに近いとと思うから。

最終的に、青海が蓮華に向ける感情は、どちらだろうか。
それを理解できる日は来るのだろうか。
……まだ、わからないことが互いに多過ぎる。

「…………緑里くん」
「……うん」

ただ、ひとつだけ確かなことがある。


「今度は、泊まってかない?」


―――― 一緒にいたい。
少しでも長くそばにいて、そして、二人で変わっていきたいのだ。
世界は全然優しくないから寄ってたかって自分達を責めるけど、そんな現実に負けないように。
今はきっと立ち向かえないけど、いつかちゃんと大丈夫だって言えるように。


そのために越えねばならない壁に二人が対峙するのは、遠い話ではなかった。



backindex