彼には縋るものがない。 そんなのは、ずっと昔になくなってしまった。 彼には大切なものがない。 何が大切なのかもわからないのだから。 だから今日も、過去の夢を見る。 それは朝目覚めれば忘れてしまうような、浅いものだけれど。 少しだけ、残っている。きっと、いつかの日、いつかの瞬間、自分にとってかけがえのない何かだったのだということを。 はっきりと言ってしまえば、緑里蓮華は生まれた時から他人より劣っていた。 その基準は例えば初めて歩けるようになった日や本が読めるようになった日であり、どれも彼は遅かった。 誕生の瞬間も。彼は、泣かなかったという。 勿論それでは呼吸も儘ならない。医師の手により事なきを得たが、一ヶ月後に体調が悪化した。 危ういところでどうにか峠を越し、一命を取り留める。 幸い後遺症の類も残らず、蓮華の両親は涙を流して喜んだ。 彼は覚えていない。 自分が生きていることは、ある意味それ自体が奇跡であるのだという事実を。 二歳になりたての頃、幼く可愛い声を最初に聞いたのは父親の方だった。 「おとうさん」と呼ばれ、まず幻聴ではないかと疑い、もう一度呼ばれ、無邪気な笑顔を目にして、 「もう一度、もう一度だけ言ってみてくれ」 抱き上げた小さな身体は、とても、とても軽かった。 ―――― おそらく一番、蓮華が愛おしまれていた時期だった。 三歳になって、彼は保育園に入れられた。 両親は共に帰りが遅く、迎えに来れるのは六時を過ぎてから。 朝、預けられてから夕方になるまで、他の子供達と一緒に遊んだり、昼食を摂ったり、布団を敷いて寝たり。 それなりに充実した時間があった。幼い彼は、笑顔を絶やさなかった。 日々は過ぎていく。 少しずつ成長しながら、蓮華は四歳になり、五歳になった。 そして、その瞬間は訪れる。 諸々の事情が重なって、保育園には預けず、両親は彼を家に置いた。 そうすれば迎えに行く手間も掛からない。彼がどうにかできる最低限の食事を用意し、二人は出かけた。 たったひとり。無邪気な子供。 世界には知らないことがいっぱいだ。見渡せば面白いものがたくさんある。 へんなかたちのなにか。しかくいもの。まるいもの。さんかくのもの。ぐにゃぐにゃしてるもの。 おもいもの。かるいもの。おおきいもの。ちいさいもの。ちゅうくらいのもの。 いいにおいのするもの。くさいもの。やわらかいもの。かたいもの。 全部、全部触ってみたい。いじってみたい。 純粋な欲求に従って、蓮華はそれこそ幼子が遊ぶように手を伸ばした。 何が危ないのかもわからずに。 何が大事なのかもわからずに。 自分の行動が、どういった結果を招くのかもわからずに。 その日、緑里家には無数の破砕音が響き渡った。 隣の住人は怪しく思ったが、それ以上気にすることはなかった。 子供に罪はない。幼さという無知故に。 ならば、いったい何が悪かったというのだろう。 夜遅く、もうすぐ日付が変わろうとする頃。 先に帰ってきたのは母だった。鍵を開け、点けっ放しの電気に苦笑し、居間に踏み込んで、 ……そこには凄惨な光景があった。 割れた花瓶。飛び散った破片。汚れた床。荒れた部屋。破けたカーテン。 水ではない何かで濡れたマットの上で、蓮華は静かに眠っていた。 手は汚く、少し傷がついている。足裏も、あまりその状態で歩いてほしくない色をしていた。 彼女の視線は、最後にひとつのものに移る。 倒れるように床に落ちていたそれを拾い上げてみると、正面が割れている。 中にあるのは写真。小物入れの上に立ててあった、大切な瞬間を切り取った一枚。 ……ぐちゃぐちゃだった。端は破け、別の色が付き、とても見れたものではなかった。 壊れたものは戻らない。砕けたものは直らない。破けたものは、還らない。 痛いほどに、大人はそんな世界の事実を知っている。 「ただいま」 父も帰ってきた。 そして同じように、部屋の中を見て絶句する。 同じように、失われたものが何であるかを理解する。 ―――― 行き場のない怒りの矛先は誰に向かうか。 そんなのは、一人しかいない。 安らかに、穏やかに眠る息子を親は起こし。 強く、激しく睨んで、死んでしまえと言わんばかりに睨んで、 「蓮華。あんた、いらない」 言葉と共に蓮華が見たのは、その場にはあまりにもそぐわない……笑顔だった。 笑顔のまま為す術もなく持ち上げられ、狭い部屋に放り込まれる。扉を閉められる。 そこは唯一、家の中で外から鍵を掛けられる場所。 がちゃりと施錠の音がして、部屋は密室と化した。 状況を理解するまでそれから五分は使った。 閉じ込められた。開かない。出られない。暗い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。 必死に叩いた。叫んだ。出して。出して。出して! 泣いて、泣いて、泣き続けて……涙も枯れて。声も枯れて。 お腹が空いてきた頃に、かちゃり、扉は開いた。 外には誰もいなかった。 テーブルの上には簡素な食事。他には何もない。 部屋は綺麗に片づいて、まだ少しだけ落ちていない汚れだけがさっきまでの惨状の名残だった。 ごはんをたべた。 つめたくてそんなにおいしくなかった。 ……それ以来、蓮華は両親の姿を一度も見ていない。 もしひとつ、間違いを挙げるとするなら。 蓮華はそもそも、生まれてくるべきではなかったのだろう。 親として子供の一生を背負っていくのに、彼の両親はまだ若過ぎた。 若過ぎたが故に、本当は何が一番大切なのかがわからない。 小さな子供が大怪我を追う可能性もあったはずだ。なのに彼らはまず自らの息子を弾劾したのだから。 ただ、完全に見捨ててしまうほど馬鹿でもなかったのは幸か不幸か。 顔も合わせない代わりに、最低限蓮華が生きていくのに必要なことは全てやった。 家も追い出さない。彼が一人でできるようになるまで食事は用意する。小遣い程度の金も送る。学校にもちゃんと行かせる。 けれど、行事の類には一度も行かず、家庭訪問も受けない。その頑なさに担任の教師も諦めざるを得なかった。 入学を機に、蓮華は言葉を忘れたかのようにぴたりと口を噤んだ。 無論教師は彼に何らかの事情があるのだとすぐ気づいたが、本人から聞き出すことはできなかった。 いじめられもした。殴られもした。 優しくされたりもした。怪訝な目で見られたりもした。 他人から向けられるその全てに、彼は何も返さなかった。 ……応えることを、止めたのだ。 一年が経ち、二年が経ち、三年が経ち、 ―――― いつしか蓮華は、自分の気持ちさえわからなくなっていた。 たいせつなもの。ひつようなもの。なくしたもの。おとしたもの。 それが何だったのかも、どこに行ったのかも、そもそもどうしてこんなことになっているのかも。 誰も蓮華を救わなかった。 救えないから、救うつもりもないから、目を背けた。 誰も蓮華を求めなかった。 孤独の時間が長過ぎて、必要とされないのはどんなに苦しいかも忘れてしまった。 だからきっと、 彼の手を引くのは、自分勝手でおせっかいな、そんな少女なのだろう。 back|next |