青海の行動は、傍から見ればただのおせっかいなのだろう。 他人からすれば、余計な世話なのだろう。 あるクラスメイトはこう言った。 「早川さん、物好きだね」と。 苦笑のような微妙な顔で。 彼女は、そうかもね、と微笑で返した。 ある友達はこう言った。 「止めておいた方がいいよ、きっと向こうも放っておいてほしいんだよ」と。 気遣いと心配と不安をない交ぜにした顔で。 彼女は、どうだろうね、と疑問を返した。 ある他人はこう言った。 「そんなことして何になるの? 別にいいじゃん、無視すれば」と。 相手を下に見る嘲笑の顔で。 彼女は、私のためになるから、と強く返した。 ……それらは全て、青海が蓮華に関わることを否定するものだった。 皆は知らない。 緑里蓮華がどんな人間なのかを。 青海も知らない。 その無表情の下にあるものが何かを。 それなのに、何も知らないくせに。 理由も意思も視界に入れず、蓮華自身をも否定する。 彼は傷ついているのか。傷つくことさえも知らないのか。 孤独の痛みを感じないのか。ひとりぼっちの寂しさを理解していないのか。 わからないわからないわからない。そんなの彼しか知らないことだ。 ―――― だったら本人から聞き出すしかない。 そして、聞き出すために必要なことは、たったひとつだけ。 見極めなければならない。 蓮華の言葉は、気持ちは、初めから存在しないのか、それとも失くしたものなのかを。 ……連れ出すんだ。あの小さな手を引いて、狭い世界から連れ出すんだ。 ただ見ていることを、もう青海はできなかった。 最初の動機は、そりゃあ割と安易な思考からだったかもしれない。 けれど、少しばかり付き合って、少しばかり蓮華のことを知ってきて。 その上でこのまま見過ごす、素通りするような真似は、自分の中の"たいせつなもの"が許さない。 自分が自分であるためにも、青海は蓮華の中に踏み込む。 早川青海。高校一年生。出席番号は三十一番。 大きな怪我や病気もなく、いたって健康な人生を送っている。 性格は他人からすれば有り難い、皆が嫌がることを率先してこなすタイプだ。 クラス委員長という肩書きもその性格が理由で得たものであり、委員長職自体にこだわりや何かの思い入れはない。 周りに対してはまず自分が折れる。 我が儘を言われれば反論もするけれど、例えばお願いをされると「わかった」と言ってしまう。 厄介事もよく引き受けるし、そもそも委員長の仕事は面倒ばかり。 それを苦に思わないわけではない。面倒だと思わないわけでもない。 「誰もやりたくないのなら私が」。 そんな、自己犠牲の精神が彼女の行動原理の全てだ。 迷子の子供がいれば一緒に親を探すだろうし、 信号で立ち止まる老人を見つければ手を繋いで導くだろう。 無論、だいたい相手は喜ぶ。ありがとう、と言ってくれる。 しかし時々それを望まない者もいて、その場合彼女は他人から拒絶の言葉を得る。 では、拒絶されたらどうするか。壁を張られたらどうするか。 ……彼女はさらに踏み込むのだ。頑なに、頑なに、自らの力を貸そうとする。 『献身的』の裏側は『自己中心的』。 事実、穿った見方をする人間からすれば、青海は自分勝手に映るに違いない。 ―――― それでも彼女には、放っておくことはできないのだ。 小学校に上がって、まだ間もない日だった。 授業を終え、まっすぐ帰ってみると、仕事でいつもはいないはずの父が家にいた。 テーブルにはビールの缶がいくつも転がっていて、けれどアルコールに強い父はあまり酔ってもいなくて。 どうしようもなく子供だった青海は、無邪気に「帰り早いんだね、お父さん」と言った。言ってしまった。 ぶつん、という音を、聞いた気がした。 大きな身体がずんずんと近づいてくる。 瞳は少しキツく、睨むような重さを宿し、拳は痛いくらいに握り締められていた。 そして、彼女の前でその歩みは止まり。 まっさらな、怖いくらいに平坦な声で父は娘に告げたのだ。 「二度と俺の前に顔を見せるな。……今すぐ消えろ」 青海は襟を掴まれ、引きずられ、自分の部屋に放り投げられた。 それは投げ捨てるという形容が一番近く、彼女の幼い身は背中から勢い良く机にぶつかり、一瞬息が止まった。 かは、と肺から息を漏らしつつ、少女に理解できたのは。 大好きな父さんに嫌われた、という、あまりにも悲しく僅かな事実だけだった。 ……以来、父の姿を見ていない。 後に知ったのだが、あの時父は上司に不祥事の責任を押しつけられ、退社を余儀なくされて帰ってきたそうだ。 もう本人に訊ねることもできない今、当時の心境は想像するしかできないけれど。 とても、惨めだったのだろう。 どうしようもない世界に流されて、どうしようもない状況に追い込まれて。 絶望していた中で、無邪気な子供の笑みにとことんまで貶められたのだから。 昔、仕事が楽しいんだ、と語っていたのを青海は覚えている。 ようやく企画をひとつ任されるようになって、重圧は凄いけど、やり甲斐のあることなんだ、と喜んでいた。 大変な頃は彼女が寝る時間になっても帰ってこなかった。朝は彼女より早く家を出ていた。 少しやつれるほど忙しかったのに、決して苦しそうではなかった。 そういうものも、全て、あの日壊れてしまったのだ。失ってしまったのだ。 母は優しくなった。 青海を拒絶した、否定した父親の分まで愛情を注いでくれた。 それが青海には有り難かったし、ほんのちょっと、重くもあり。 いつしか彼女は、夜を恐れるようになった。 静かな部屋。音のない場所。暗い空。真白の月。一人の時間。 何もかもが、自分を責めているように思えた。 そこではいつも、孤独の世界が口を開いている。 どんなに望まなくとも必ず訪れる瞬間。 目を閉じても、耳を塞いでも、引き裂かれるような恐怖はなくならない。 ……私はひとりだ。ひとりだ。ひとりだ。誰もここにはいないんだ。 この世界はあまりにも排他的で、あらゆるものが青海を否定しに掛かる。 ちっぽけな、矮小な、脆弱な子供である彼女に、抗う術は決して多くない。 青海は他人と関わることを望んだ。何より望んだ。 その一手段が『誰かの代わりになること』であり、『前に立つこと』であり、委員長という肩書きだった。 彼女の心の奥底には、未だ離れない、忘れられない過去が残っている。 それを振り払うことができない限り、永遠に傷は癒えないだろう。 緑里蓮華は彼女にとって鏡だ。同じようで、引っ繰り返った真逆の存在。 だからこそ、知ってしまった今、目を背けられずにいる。 自分のことに気づいていないのは、ある意味青海も同じである。 彼女が自らを省みることができるようになるのは、あと少しばかり先の話だった。 back|next |