「それでね――――

時々右手の箸を指揮棒のように振りながら、彼女は話す。
示す先は空だったり校舎だったり知らぬ人だったり、つまり適当。

今日の相手も勿論蓮華だ。
一週間を過ぎても、青海は彼を昼食に誘い続けている。
周囲は「よく続くなぁ」と言わんばかりの視線を向け、 しかしそれを気にすることなくこうして昼休みの貴重な時間を使い関わっているのだ。それを止めるつもりもない。

会話は相変わらず一方的。
ここまで無反応だといっそ清々しく感じるくらいに、実りのない時間。
最早ただの一人語りだとわかっていても、それでも彼女は喋り続けた。

時間は有限であり、その間にできることは当然ながら限られている。
だから彼女は、一時間もないそれを、自分の身の上話に使う。
ほんの些細な反応でも返ってくればいいと思って。


例えば、生まれた頃のこと。
一般的な新生児より少しばかり重く、ふくよかな子だったという。
全く問題のない健康な一年を過ごし、二年を掛け、三年を育った。
どうも間が抜けていて、顔面からずべっと転んでも笑っていたらしい。
正直、青海はその母からの話をあまり信じてはいない。信じたくないのもあるが。

例えば、小学校にいた頃のこと。
足が速かった。逆上がりがクラスで一番にできた。
縄跳びは交差跳びが苦手だった。女の子なのに家庭科が苦手で馬鹿にされた。
それから懸命に練習して料理だけは人並みに作れるようになった。
生意気だと言われた。殴られたから殴り返した。罵倒されれば相手を侮蔑の目で見た。
他人に嫌われるのは平気だった。けれど平気じゃなくなった。
個性のない自分は好きじゃなかった。もっと広い世界を見ようとも思った。

例えば、中学校に行っていた頃のこと。
笑うことが少なくなった。泣くことも少なくなった。
何となく部活はやらなかった。代わりに風紀委員を頑張った。
生真面目に行こうと思った。でもすぐに止めた。
困ってる人ばかり見た。手伝わずにはいられなかった。
迷惑だと言われた。ありがとうと感謝もされた。
悲しい時も嬉しい時もあった。他人に関わることは止めなかった。
髪を切らなくなった。嫌なことを嫌と言わなくなった。
目指したい夢なんてなくて近いからこの高校を選んだ。
世界はやっぱり狭いままだった。

例えば、好きなもののこと。
にんじん。あの甘みはどの野菜にも劣らない。
枕。ちょっと硬めだと寝やすくて嬉しい。
麦茶。程良い苦さが結構癖になる。
テニス。インパクトの時の音がお気に入り。
イチョウ。銀杏は美味しいし秋の落葉はとても綺麗。
夜の空。昼と違って眩しくないから。
ご都合主義。陳腐でも幸せな方がいいに決まってる。

例えば、嫌いなもののこと。
レバー。あの如何にも内臓って味が駄目。
夏の暑さ。ぐでぐでになって何もやる気が起きなくなる。
長距離走。お腹の右端とかが痛くなるあの感覚が苦手。
台風。昔来ることを知らなくて外に遊びに行ったら帰り道でえらい目に遭った。
眼鏡。一度電柱にぶつかって思いっきり割ってからはコンタクトレンズにしてる。
不干渉。繋がりも関わりもないのは本当に恐ろしい。

―――― そして例えば、大切なもののこと。
ここにあって、ここになくて、手を伸ばせば届いたり、背伸びをしても届かなかったり。
思わず笑ってしまうほど嬉しい何か。思わず泣いてしまうほど手放したくない何か。
どこかにあって、どこにもなくて、もしかしたらいつかわかるかもしれなくて。


そういうものを持っているんだと、欲しがっているんだと、青海は語った。
蓮華には見えない場所で、強く拳を握りながら。

同じくらい、同じことを訊ねた。
過去のこと。未来のこと。好きなもの。嫌いなもの。大切なもの。

やっぱり、その全てに彼の答えはなかった。

気紛れに蓮華の弁当からおかずをひとつ摘んでみたりもした。
卵焼き。薄い、柔らかな甘味が印象的だった。

「………………」

会話が途切れる。
俯く青海を見ても、彼は表情を変えない。
淡々と、箸を進めるだけ。つまらない顔も楽しそうな顔も、無縁だというように。

……今日も進展はなし。
このまま終業式が来て終わってしまうのかな、と思う。
そうすれば、色々なものがリセットされて。蓮華と一緒のクラスになるなんて保障はどこにもないわけで。

「……ねぇ」

不意に、

「緑里くんの両親って、どんな人?」

すっ、と問いが口から出た。
なんてことのない疑問。普通、決して答え難くはないもの。

「………………ぅ」
「え―――― ?」

青海は一瞬、自分の耳を疑った。
微かに、僅かに声を聞いた気がしたからだ。
弱く、儚く、幼い少年のような声。言葉ですらない音。
この場所には二人しかいない。自分でないならば、発信源はもう一人しか有り得ないだろう。

隣を見る。蓮華を見る。
彼は、小さく、本当に小さく、表情を歪ませていた。

「……あ、もうこんな時間か」

校庭から生徒の姿が徐々に減っていく。
それもそのはず、今、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いているのだから。

立ち上がり、青海は弁当箱を畳む彼に手を差し出す。
ごめんね、と謝り、それから、

「一緒に戻ろ」

握られるより前に、その細い手指を握って引いた。
抵抗はない。為すがままに、足音が後ろから付いてくる。


それが、どんなに些細で馬鹿馬鹿しいことであっても。
青海は初めて、蓮華の声を聞けたのだ。


……なんだか、嬉しかった。



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