おそらく、観察という表現が一番合っているのだろう。 些細な仕草も見逃さないように、目を凝らしてその姿を追い続けた。 さぁ―― と雨降る空。 土砂降りというほど激しくはないけれど、傘なしで外に出れば十分濡れてしまう水量だ。 時刻は四時前。既に今日の全授業は終了していて、部活のない人間は帰るだけの時間。 それにしたって運動部はこの天気だ、校庭はびしょ濡れでまともにできるはずもない。 「なーんか……」 憂鬱。 青海は決して雨が嫌いではなかったが、しかし大して好きでもなかった。 自転車通学なのが一番の理由だろう。傘を片手にペダルを漕ぐのは、かなり大変だから。 「ねー委員長ー、これどこだったっけー?」 「あー、それはあっち。そうそう、その辺に置いて」 床を掃きながらクラスメイトに指示を出す。 誰もが掃除は面倒だからとやらない中、進んで自分の当番でもないのに手伝う青海は勿論皆に喜ばれている。 『困ったら彼女に頼め』。 そんな標語みたいな言葉がクラス内にあるのを、青海は知っている。 別に構わなかった。 他人に強制されてしていることでもない。 自分自身が選んで、望んで取っている行動だ。 評価も、要望も、何も関係なかった。 ―――― そう、関係ない。 二階の窓から見える外の景色。 色とりどりの傘と共に下校する生徒。 ……ふと、小さな背中を捉えた。 蓮華だ。彼は何故か、傘を持っていなかった。 鞄を頭の方に掲げることもせず、急ぎ走って帰ることもせず、ただ、歩いていく。 どうして、という疑問が湧いた。 今日は確か天気予報で雨が降るだろうと言っていたはずだ。 青海もそれを知っていたから、しっかり忘れずに持ってきていた。 「……つい忘れちゃったのかな」 たまにあることだ。どうという話でもない。 昔に何度か自分もそんなことがあったなぁ、と苦笑した。 遊んだ帰り道や、下校途中。いきなり土砂降りになって、雨宿りをしても全然止む気配がなくて。 濡れ鼠になるのを覚悟で走った。家に着く頃には当然ながら全身びしょびしょで、何だかとても可笑しかったのを覚えている。 けれど彼に、そういう思いはあるだろうか。 ……静かな歩みに、楽しむような様子はない。淡々と、今ある現実を受け入れているだけ。 「……ごめん、あとお願い!」 「え、ちょっと、いいんちょ!」 素早く箒をロッカーに戻し、青海は自分の机から傘と鞄を取って駆け出した。 廊下を過ぎ、階段を降り、下駄箱で靴を履き替え、自転車の鍵を開け、傘を差して行く。 彼が門を通り抜けたところで、青海は何とか追いついた。 そして、 「あんまり濡れると風邪ひくよ?」 傘を差し出す。 その感情の見当たらない瞳がゆっくりと青海の方へ向き。 笑みでも困惑の色でもない、まっさらな表情で、また歩き出した。 緑里蓮華。 高校生活の一年間を無言で通してきた人間。 早川青海と彼との決定的な差異は、孤独を許容するかそうでないかだ。 ……そう、蓮華は孤独を受け入れられる。 あるいは、孤独であることを知らないのかもしれない。 人がいる世界で、ひとりでいるというのは可能なのだろうか。 物理的な意味では無理であっても、精神的な意味では可能だと青海はすぐに気づいた。 ただ、それは酷く難しい。人間は人間を気にするものだから。 関わりながらも繋がらない。 そんな生き方を蓮華はしている。 ……頼まれたり命令されたり、とにかく他人に与えられ押しつけられたことは、彼はこなせる。 あらかじめ示された物事、指針が存在する何か。 そこに己の意思は必要ない。言われた通りにやればいいだけだ。 だが、そうでない場合。 必ず彼は困惑する。疑問を抱く。 こうして生きてこれた以上、相手の言葉を理解してはいるだろうに。 他人の望みを聞き入れられるほどには、わかっているだろうに。 ……どうしてそんな顔をするの? 青海は数日付き合ってきて、そう思う。 蓮華が見せるのは、嬉しいとか悲しいとか、辛いとか痛いとか苦しいとか。 大事なものがすっぽり抜け落ちた、問いかけの表情だ。 そして―――― 誰一人として、彼の本当の欠落には気づきもせず、目もくれない。 無言の理由。 それはきっと、もっと深いところにあるのだと、青海は心で感じていた。 「緑里くん、家どっち? こっち?」 二股の道、右側を指されて彼は頷いた。 ちなみに青海の家は左側だ。でも、そんなことは口にしない。 わざわざ言うことでもないだろう。 自転車を右に置いて押す青海。その左隣に蓮華は立っている。 傘は二人の中間で雨を遮り、当然ながらその範疇にない自転車は、ハンドルもサドルも、ほとんど全部がびしょ濡れだ。 淡々と。二人は歩く。 会話は一方的なもので、ひたすら青海が喋り、それを蓮華が頷いたりスルーしたり。 いつもの、最近になって日常化したいつもの光景。 やがて、蓮華の足が止まった。 「ここ?」と訊ねると、肯定が返ってくる。 「じゃあね。また明日」 手を振って見送る青海。 返事はなく、ぱたん、と玄関の扉は呆気なく閉まった。 「……はぁ。さて、戻るか」 一応持ってきたハンドタオルでサドルを拭き、青海はゆっくりと自転車を漕ぎ始める。 去り際、一度だけ振り返ったそこに、当たり前だが蓮華はもういなかった。 また明日、と言った姿を脳裏に浮かべ、彼は思う。 わからない。"それ"がどういうものかを。 彼は覚えていない。自分が、何を失い何を忘れているのかも。 back|next |