ざざざ、と地を擦る音を最後に、車体が静止する。 外に出て、視線を空に向ければ木々の枝葉が青色を遮っていた。 「迎えは何時頃がいいかい?」 「えっと……そうですね、四時間後。四時間後にまたお願いします」 白のワゴンが薄い土煙を上げながら去っていく。 それが見えなくなるまで目で追ってから、私達は目指す道を前にした。 人が踏み歩いた地面は、雑草もほとんどなく道として成り立っている。 けれど、どこまでそうなっているのかはわからない。 女将さんに行き方を教えてもらったとはいえ、そこに行くというのがどういうことかまでは知らされていないのだ。 ―― しばらくは一本道です。でも、途中からふたつに分かれるの。 ―― あなた達の行きたい場所に行くには、二手のうち細い方、右側を選んで。 ―― 歩きにくいから、十分気をつけてくださいね。 それだけを言って、女将さんは微笑んでいた。 どこか子供のような、悪戯を仕掛けた幼さの残る笑みだったのを覚えている。 ……何故そんな表情をしたのか、少しばかり頭に引っ掛かってはいたけど、とりあえずは止まらずに行こうと思う。 歩き出そうと足を踏み出したところで、 「ちょいと待ちなされいこいちゃん」 彼女に肩を掴まれた。 そのままくるっと正面を向かされ、完全に目と目が合う形になる。 「え、な、なに?」 「いやね、出発する前にちょっとおはなしをね」 「……何の?」 「聞いて驚くなかれ、あたしはれっきとした登山家なのだよ!」 「へー」 「も、もっと好意的な反応しようよ! 「わぁ」とか「凄いね」とか、せめて「かっこいー」とか!」 「……言ってあげようか?」 「やっぱりいい。あたしヘコみそうだから」 止まった足をまた動かす。 しかし、掴まれたままの肩は身体を固定させて進めない。 「……ねぇ、いこいちゃん、何でそんなに急ごうとするの?」 「………………」 「焦らなくても目的地は逃げないよ?」 「―――― だって、今日しかないから。何となく、そんな気がするから」 思い出すのは祖母の手紙。 いつになっても構わない、と書いてあった。 けれど私は、夏休み中には行ってほしいと思ったんだろう、そう感じた。 それはどうしてだろう。 忘れられるかもしれなかったから? 気持ちが薄れてしまうかもしれなかったから? ……違う。 全部外れではない、けど、きっと……そう。 ここで全てがわからないまま終わってしまえば、私は祖母の言う"大切なもの"を見つけられない。 だって、もうここまで来てしまったのだ。 祖母の残した言葉を、意思を、私は認めてしまった。 先延ばしにすることなく、今、抱いた思いが変わらない間に行こうと決めたのだから。 だから、諦めたくない。諦めたくなる理由を、作りたくはない。 そんな足掻きにも似た感情が、私の両足を前へ、一歩でも前へ、と急かす。 「行く先は待ってくれても―――― 時間は、待ってくれないよ」 探し物を、見つけなくてはいけない。 葬式の日に、私が泣けなかったことの意味を。 祖母が私に伝えたかった、全ての意図を。 気づいてしまった。 そうしなければ、私は祖母の死を受け入れられないのだ。 「だから! あたしが、精一杯いこいちゃんに協力するよ」 「……根岸さん」 「これは本当。これは本気。あたし、いこいちゃんのこと、友達だと思ってるから。友達だから。……ね?」 「………………わかった。お願い、一緒に来て」 「もちろん!」 肩に掛かった手が離される。 けれど、この足は止まったまま。一人で行こうとは、もう思わない。 「まぁ、今回は登山というよりピクニックとかその辺に近いけど……」 平地と違い、山には当然ながら道に緩急がある。 幾人かが踏み歩いたといっても、整備されているわけでもない。 岩や木の根、伸びた雑草は確実に歩行の妨げになる。 「歩く際に大事なのは、急がないこと。一歩一歩をしっかり、足裏全体で踏み込むようにするの。歩幅も小さくね」 とにかく無駄な体力を使わないことが第一。 その匙加減を誤ると、必ずどこかでバテてしまう。 ペースは一定を保ち、疲れが出てきたら適度な休憩を取る。 「水もこまめに取る。あ、でも飲み過ぎちゃ駄目。お腹が重くなるから」 「うん。……そういえば、この軍手は?」 「道が険しくなると、手を使う時もあるから。あとは木の枝を払う時とかにね」 無理をしないこと。 それが最も大切だと、彼女は言った。 「疲れたり何かあったら絶対あたしに言ってね」 肯定の意を込めて頷く。 よし、と答えが返ってきて、じゃあ行こうか、と言葉が続いた。 そして、歩き始める。 教えられた通り、歩幅は小さく、足裏全体で踏み込むような歩き方を意識する。 呼吸と共に速度も一定。早く、とまだ思う気持ちを抑え、ゆっくりと進む。 少しだけ前を行く彼女は時々辺りを見回しながら、慣れた足取りで前を向いていた。 足が重くなってきた、と感じたらそのままを伝える。 二分ほど小休止したら、また同じペースで。 道は徐々に緑の割合を増やしてきた。 剥き出しの岩や木の根が足下を不安定にする。 転ばないよう、殊更慎重に歩く。 彼女と一緒に地図とコンパスを眺め、道を外れていないかどうか念のために確かめながら。 「……女将さんが言ってたのは、ここだね」 分かれたふたつの道。 左側はこれまでと同じような広さで続くルートだが、 「こりゃまるで獣道だよ……」 右側、行くべき道は、限りなく細い土色が申し訳程度に描く通りだった。 今までよりも深い緑が、侵入者を拒むかのように生え続いている。 大丈夫だろうか、と思う。 でも行くしかない、と思った。 互いに頷き合い、踏み出す。 さくり、さくりと草の折れる音が聞こえる。 軍手で枝葉を払いながら、遅々とした速度で行く。 繰り返しの、それは作業というのが一番近い表現だった。 長い道の終わりは見えない。 降り注ぐ木漏れ日も、時折流れる風も、徐々に目に、耳に、入らなくなってくる。 私は彼女の背を追いながら、ただずっと、待っていた。 祖母の示したその場所に辿り着くのを、待っていた。 左右から伸びている細身の枝。 それを折らない程度に除けるためには、手でゆっくりと押すようにしなければならない。 押しては離し、押しては離し。 時には自分から迂回する形で避け、そうして何十度目かの動きで、私はミスをした。 「っ!」 手を離した枝が、弾性で勢い良く戻り、頬を切って過ぎる。 見なくてもわかる。薄く血が流れる感覚。 指で撫でれば、軍手の布地が赤く染まった。 「ん? どしたのいこいちゃ―――― あー、女にとって大事な顔に傷なんて。色々な意味で痛いよ?」 「それは大きなお世話。……いや、確かにちょっと痛いけど」 「えっと……あった。少しだけ我慢してね」 ナップザックから彼女はティッシュと消毒薬を取り出し、血を拭いてから軽く消毒。 滲むような痛みを感じ、思わず目を細める。 構わず彼女の手がもう一度傷口を拭き、それで血は止まった。 包んだティッシュを懐に仕舞い、 「まだ痛いなら痛み止めもあるけど」 「平気。別にこの程度、大したことじゃないでしょ?」 「まあね。昔、思いっきり転んだというか転がり落ちて右足折ったこともあったし。あの時はホントどうなるかと」 「あはは…………」 あまり笑えない話だと思う。 ……それはともかく、本当に、平気だから。 「さ、行こう」 「いいけど……いこいちゃん、前でいいの? あたしの後ろにいた方が楽だよ?」 「いいの。もうそろそろ、ゴールだろうし」 「……そだね。栄えある先頭の権利は君に譲りますか」 だから私は、 「今度はこっちの番っ」 初めて歩み寄ろうと、そう思った気持ちのままに、そっと、自分と同じくらい小さな手を引いた。 唐突に、道が拓けた。 先ほどとは比べ物にならない眩しさに立ち止まり、一度閉じた目を開ける。 そこには、 「………………ここ、が?」 ―――― 花の世界があった。 鮮やかな色が視界のほとんどを彩っている。 隙間なく、他の何もかもが入る余地もなく。 赤、青、黄、紫、白……それこそ無数の花々が、満ち溢れ咲き誇っていた。 「うわぁ……こんな花畑、見たことないよ……」 「そうなの?」 「花畑自体は未見じゃないけど、普通ここまでの種類が一斉に、ってのはないと思う。それに、」 ……ここには全く人の手が入ってないから、と。 そんな彼女の言葉に、私は素直に頷いた。 自然がありのままに存在する場所。 人間の影響を受けず変わらずに廻る世界。 …………でも。 この景色が、祖母のいう"大切なもの"だとは思えなかった。 本当に、綺麗で、素晴らしいけれど。何か、そう、何かが違うのだと。 ……私が振り向いたのは、ただの気まぐれで偶然だった。 でもその偶然が、見落としていたそれを私の目の前に示したのだ。 「これ…………」 花畑の入り口、私達が通った細道のところに、大木が立っていた。 その幹の、ちょうど肩の高さくらいの部分。そこに薄く文字が削られていて、 「片深、悠。衣館、玲」 後者は知らない名前だったが、前者は、祖母の名であることに間違いない。 片深は祖母の旧姓だ。風化しかけている字からも、これが随分前に記されたものなのがわかる。 そして、ふたつの名のすぐ下にたったひとことが。 「いつかまた、ふたりで」 ―――― そこに、祖母がいた。 確かにいて、今も、ここには残っているのだ。 「う……う、うぅっ」 ようやく。 私は祖母の死に対して、涙を流した。 それはずっと、ずっと忘れていた、哀しくて懐かしい痛みだった。 「い、いこいちゃん!? 何で泣いてるの!?」 「ひっく、ご、ごめん、ちょっとだけ、こう、させてっ」 「……うん。わかった」 優しく背中を撫でられながら、思う。 "大切なもの"は、実は初めからあって。 私はただ、ここで見えないものが見えるようになっただけなんだ、と。 二分ほどして、泣き止んで。 赤い目を少し擦りながら、 「ねぇ、根岸さん」 「ん?」 「また……いつか、ここに来よっか。一緒に」 「いいよ。約束ね。指切り指切り」 「ううん。それよりももっと……いいのがある」 そう言って、私は彼女から小さなナイフを借りて―――― ―――― 二人の名前と、誓いの言葉を、此処に残した。 いつかまた、必ず来れるように。今の私達がこれからも続くように、願う。 back|next |