薄い、薄い光を目にして、私はゆっくりと起床する。
身体を起こせばそこは見慣れぬ風景。くすんだ茶色の柱と灰色の壁、仄かな畳の匂い。
夏だというのに少し涼しく、目覚めは心地良い。

「………………」

しばし、自分が今どこにいるのかを忘れる。
十秒ほどしてから、

「……そういえば」

旅館。
友人の根岸希有と一緒に、一晩をこの部屋で過ごしたのだと思い出した。
ふらりと立ち上がり、軽く顔を洗って眠気を吹き飛ばす。
ぱしゃっ、ぱしゃっ、と弾ける水音が、次第に記憶を鮮明にしていった。
備えつけのタオルで顔を拭き、それから布団の辺りに戻る。
そして今更、彼女がいないことに気づいた。

寝間着は畳んで置いてある。
外に行ったのは間違いないが、行き先まではわからない。
浴場かもしれないし、あるいは散歩に出ているのかも、と。

……そのことに私は、内心ほっとした。
まだ昨日、露天風呂で聞いた言葉を引きずっていて、自問のひとことがずっと廻っているから。
少しだけ時間が欲しいと思う。そしてそれは、彼女が戻ってくるまでで十分だ。


答えは出ない。出ないことこそが、答えそのものなのかもしれなかった。










「で…………これ、どの辺?」

ロビーにある椅子に座って、テーブルの上に地図を広げた。
ぱさぁっと紙の音が響き、旅館の位置を含む付近の様子が描かれているそれに目を通す。
駅は南東の方。そこから左斜め上、北西に行くと旅館だ。祖母の記した目的地は、旅館の北北東にあるらしい。
しかし、

……山ばっかり。

地図のほとんどは緑色で構成されている。
大小合わせて八を越える山々が並び、この地域を隔絶しているのだ。
その中のひとつ、少し低めの名も無き山の西側にぽつりと目的地印の点が示されていた。

情報はそれしかない。
つまり、ここから先は自分達でどうにかしなければならないということ。

「でも…………」

当然ながら初めて来た場所の地理に詳しいはずもなく、そもそも私にこういう経験は皆無。
道のひとつもわからなければ、これだけのことしか教えてくれない祖母の意図もわからない。
彼女に視線を送ってみるも、お手上げ状態のようだった。

どうしよっか、と問う。
どうしたもんか、と返ってくる答え。

手詰まり。けれど時間は決して待ってはくれない。
期間は二泊三日。予算もその分しか手元にはなく、そして今は二日目の朝だ。
明日の昼には旅館を出なければならないので、チャンスはここにしかなかった。
歩いて探すには広過ぎる。ただ、他の手段があるかと訊かれればアイデアは思いつかない。

「ない」だらけの現状。
再び、どうしよう、と自問していると、

「お二人とも、そんなに悩んで何をお考えですか?」
「あ…………」

声のした方を振り向くと、女将さんがいた。
座る私と彼女の間から覗き込むように広げた地図を眺め、少し考える仕草をする。

「この点は……ここですよね。ではこの点は…………」
「えっと、あたし達、その場所に行きたいんですけど」

―――― 行き方を知らないんです。
私の代わりに彼女がはっきりと告げる。
女将さんは苦笑らしき表情を浮かべ、それから、

「知ってますよ」
「……え?」
「その場所なら、何度か案内したことがあるので。よろしければ道程をお教えしますが」
「是非! 是非お願いします!」
「はい、わかりました。少々お待ちください」

声を張り上げて頼み込む彼女に応えるかのように、軽い一礼の後女将さんの姿は遠ざかる。
三分ほどして戻ってきた時、その手にはこちらのよりも仔細な付近の地図とメモが握られていた。

「途中まではお送りしますね。徒歩で行くには少し距離がありますので」

地図を見れば確かに、直線でも2kmほどはありそうだった。
勿論真っ直ぐ向かえるはずもないだろうし、歩いて行くなら一時間でも済まないようだ。
私と彼女は、申し出を有り難く受け入れることにした。
以前に、それ以外の選択肢もない。むしろ渡りに船と言えた。

「では、十分ほど後にまたここへ来てください」
「あの……ありがとうございます」
「いえいえ、それがこちらの仕事ですから」

柔らかい微笑み。
あくまで自然なその表情を見て、ただ、凄いと思った。

「やったね、いこいちゃん!」
「……だね。何とかなってよかった」
「これで一安心だ。じゃあ、準備しよっか」

立ち上がり、部屋に戻る。
持ってきた空のナップザックを取り出すと、彼女がちょいちょいとつついてきた。

「どうしたの?」
「これからあたし達は山登り……いや、どっちかというとピクニックかな? に行くわけですが」
「うん」
「いこいちゃん、そういう知識はないよね?」
「うん」
「ならばあたしに任せなさい! どーんと! 大船に乗った気持ちで!」

不安になってきた。
でも決してその思いを表に出さない私を尻目に、彼女は自分の荷物から必要らしきものだけを取り出す。
折り畳み傘、ペンとメモ帳、地図にコンパス、絆創膏や各種の薬。
使い捨てカメラに小型のライト、軍手、ハンドサイズのタオルと帽子、それとチョコレートが数個。
地図とコンパス、軍手、チョコレートは二人分あって、私は為すがままに受け取った。

「軍手は行く時付けてってね。チョコレートは念のため。あ、タオルと帽子と傘は自分の持ってって」
「あ、う、うん……」
「今日はたぶん天気も大丈夫だと思うけど、できる限り早めに戻れるようにしよう」

……訂正。
いつもと違う彼女の姿は、少しだけ、頼りになる……ような気がした。

そして十分後。
再びロビーに来ると、女将さんが何やら袋をふたつ抱えていた。
こちらを見つけ、近づいてきて、はい、と手渡される。
中身に目を向けるとそれは三個のおにぎりだった。加えて、

「あとこれ。頼まれていたもの」
「ありがとうございますっ」

水筒が二本。持つと冷たい。
どうやら氷水が入っていて、それを頼んだのは彼女のようだった。
私も遅れて礼を言う。女将さんは苦笑し、いいのよ、と返してくれた。

連れられ、車に乗る。
三十分くらい掛かりますよ、と運転手の人に告げられ、私はそれまで外をぼんやり眺めていることにした。


景色が動き出す。行く先は確実に、迫ってきている。



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