「あれ?」

脱衣場に来てみれば、不思議なことに人の気配というものが全くなかった。
籠に目を通してみるも、着替えはひとつも見当たらない。
時間は七時前。夕食時だからといっても宿泊客の一人や二人くらいいてもおかしくないはずだけど、何故だか今は無人らしい。

「……まぁ」

いいや、と思う。
私が銭湯に行ったことのない一番の理由は、知らない人ばかりの空間を好まないからで。
だからある意味この状況は都合のいい形であるのは確かだ。

出てきた時すぐ使えるように、バスタオルを前面に置く。
皺にならない程度の速さで衣服を脱ぎ、籠に突っ込む。
完全な裸でいるのは恥ずかしい。ハンドサイズのタオルを一枚持って、両手とそれで胸と下の方を隠しながら浴場へ。

やはり他の人の姿はなく、要するに貸し切り状態。
その事実に私は安心しつつ、シャワーのある場所に座る。
ちなみに彼女は物凄い勢いで私より先に全てを済ませ、今はゆったりと湯船に浸かっていたり。
何だか幼い子供を見ているようで、少しだけ、笑ってしまった。

「……あつっ」

蛇口を捻ると、妙にお湯が熱かった。
シャワーの向きを変え、温度を調節する。
流れる湯に触れて、大丈夫なあたたかさになってからまた浴びる。

女性はお風呂が好きだとよく言うけれど、それが万人に当てはまるのかどうかもわからないけれど、少なくとも私は好きだ。
こうしている時間は、とても落ち着くものだから。
水が跳ねる音。髪が濡れる感覚。肌を伝う雫。

…………気持ちいい。

先日切ったばかりの髪に指を通し、梳くようにシャンプーを絡ませる。
それからわしわしと泡立て、流す。タオルを使って、身体も洗う。
髪の毛の方は念入りにシャンプーを落とし、タオルに残った水を絞って準備完了。

そっと、足先から湯船の中へ。
まだ慣れない熱さは我慢して、肩まで浸かった。

ふぅ、と一息。
露天の景色は空が近い。見上げれば薄い紺色と欠けた月。
ついさっき陽は沈み、夜が訪れ始めている。
そんな時間の流れが、ここまで来たんだなと感じさせた。

ぱしゃ、ぱしゃっ。

水音と共に、隣に人影が来た。
言うまでもなく彼女だ。

「銭湯もいいけど、温泉もいいねー。何というか、気分爽快」
「うん、私もそう思う。特にここ、露天風呂だし」
「緑の匂いがするっていうのはさすがに銭湯じゃ味わえないなぁ」

んー、と両手を広げて、彼女は空気を吸う。
目を細めたその表情はとても気分の良さそうなものだった。
私もちょっとだけ真似をしてみる。伸びをしながら深呼吸。

……遮るものが何もないから清々しい気持ちになれるんだろうか。
三方を仕切りに覆われてはいるものの、全天の空は十二分に広くて。

「あー絶景絶景。良きかな良きかな」
「何か年寄りっぽいよそれ」
「ちょいといこいさん、そいつぁ偏見ってやつですぜ。あたしゃ古き良き日本語を嗜んでるのですよ」

物凄く胡散臭い物言いをしながら、彼女は自分の家のようにくつろいでいる。
私は反論というか返答を諦めて、伸ばした足を元に戻した。

長く入っていると、頭の中が次第にぼんやりしていく。
脳天から熱がゆらゆらと昇っていくようで、肌も赤みを帯び始めた。
心臓の鼓動も少しずつ強くなっていき、自分がのぼせそうなことに気づく。
だから段差に腰を下ろし、肩まで浸かっていたのを腹の辺りまでにした。

夜風が心地良い。
けれどあまり当たっていると風邪をひくかも、と思い、そろそろ出ようかと考えたところで、

「ねぇ、いこいちゃん」

彼女の声が聞こえた。
それは今までの軽口と違う、問うような色を含んだものだ。
そして、来る。言葉が。答えを求める、言葉が。


―――― 寂しく、ないの?」










もし、その笑顔を見なければ、きっとここにはいなかった。


入学した時には勿論人並みに不安も持っていたし、同じくらいの期待も抱いていた。
高校に入って、大学に行くかどうかはよく考えてなんかなくて、でも何かがあるんだと信じて。
知らないものばかりの世界に来たあたしは、そうして新たな日々を過ごし始める。

自慢じゃないけど、自分は付き合いやすい、親しみやすい人間だと思ってた。
中学校では友達も多く、親友と呼べる子も一人はいて、高校でもきっと大丈夫だと漠然と思ってた。

……世界は広かった。

あたしなんかよりもっと、もっと凄いのが、同じクラスにいたんだ。
差別せず、区別せず、相手に対して嫌なことは何ひとつないって言わんばかりに躊躇いなく接する。
それは本当にあっという間で、入学から一週間、その子はクラスメイトの八割と仲良くなっていた。

十鐘いこい。
特徴的な名前とは違い、あまり彼女に目立つ部分はない。
容姿は飛び抜けて良いというわけでもなく、成績も可もなく不可もなく、といった感じ。
見た目だけで言ってしまえば、決して注目を浴びる人間ではないだろう。

ただ、他人への踏み込み方が恐ろしく上手かった。
かくいうあたしも、親しげに話せる仲にいつの間にかなっていた、そう言うのが一番正しい気がする。

別に負けたとは思わない。
上には上がいるもんなんだなぁ、と単純に尊敬とかしてみてた。

話は変わるけれど、あたしは割と人を見る目があるって言われる。
ついでに、あけすけで馬鹿でストレート過ぎるって言われる。
でもあたしはそんな自分の性質や性格を好きだし、認めてもらえれば嬉しいと正直に思うから。

だから、もうずっと、残っているのだ。
いつも彼女が見せる、あの笑顔が。
みんなの前でする、淡い、薄い、そしてどこか大切な何かの抜けた微笑みが。
頭の中に引っ掛かって離れない。違和感となって揺らがない。

離れず、揺らがないからこそ―――― その奥底を見たいと、そう、思う。










疑問の意味を、私は考える。
考えて、考えて、しかし答えはわからなかった。

「いこいちゃんさ、何か、上手く言えないけど……」

他人との間に境界線作ってるよね、と。
言い切りの形で示される。
それに対し、私は反論をしなかった。

「いっつも笑顔でいるのに、親しげなのに、誰一人近しい友達がいない。……それは凄く、寂しいよ」
「……どうしてそう思うの?」
「何となく。うん、そう、何となく、遠いから。あたしが何よりそう感じるから」
「そんなこと…………」
「あるよ。あたしにはほとんどよくわからないけど、それだけは言えるもの」
「………………」

全ての言葉は真っ直ぐで、強い。
けれど、


「もっと…………もっと、歩み寄ってほしいな。あたしは」


優しく、そして、寂しそうな色を含んでいた。
その台詞を最後に彼女は立ち上がり、歩き出す。

「のぼせそうだしもうあたし出るけど、いこいちゃんはどうする?」
「……まだいるよ。もうちょっとだけ」

そっか、というひとことが聞こえた。
背中が遠ざかっていく。取り残される私。


―――― どうすれば、いいんだろうね」


歩み寄ってほしいと、そう願った彼女の言葉が、ずっと頭の中を廻っていた。



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