四時限目の終わりを告げる鐘が鳴った。
教師の言葉と共に号令が掛かり、礼。
それとほぼ同時のタイミングで駆け出した。

「あ、ちょっと鈴音! ショートホームルームは!?」
「パス!」

友人の軽い制止を振り切り、戸を勢い良く開けて廊下を走る。
まだ他の教室に動きはない。周りの静けさを確認しながら、階段を通って下の階へ。
二階は三年生の領域だ。目的の場所に辿り着くと、ちょうど担任らしき人物が出ていくところだった。
そうして開いたドアから中に入る。少しの視線が集まるが、鈴音は気にしない。
ずんずんと歩を進め、立ち止まった前には、

「雨羽先輩」
「…………ん?」

窓際の席、涼風が座る場所。
クラスメイト達が思い思いに散っていく中で、彼は一人横を向いて空を見上げていた。
ぼんやりした顔から、あまり感情を推し量ることはできない。
ただ……屋上で風と共にあった姿ではなく、そう、

―――― あの時の。

彼女が「大嫌い」と言った時の、風の音を否定した時の寂しそうな表情に似ている。
窓は閉まり、外気さえ届かない空間で。全てに取り残されて、途方に暮れているようにも見えた。

でも、それに気づく者はいない。
誰も彼を見ていないから。誰も、彼のことを知らないから。
そして彼自身も、きっとわかっていないから。

……腹が立って仕方ない。
どうして自分だけが知っているのか。知ってしまっているのか。
何か酷く理不尽な気がする。だって、

―――― こんなの見せられたら、黙ってられないじゃない。

たぶんすぐに彼はこの教室を出るだろう。
屋上まで上がり、全天の光景を眺めながらまた、羨むような、求めるような目をするのだろう。

だからその前に。

「わ、何?」
「いいから!」

鈴音はその手を取って、連れ出した。
外へ。本当の涼風はそこにいる。










結局何の文句もなく付いてきてくれて、引いた手に重さは感じなかった。
屋上に辿り着くと、いつもの決まった場所に彼は腰を下ろす。
鈴音から見てその左隣、今まで一度も変えていないポジションが彼女の特等席だ。
軽く手で座る部分を払い、それからゆっくり柵に寄り掛かるように、空を見上げる姿勢を取る。

今日は雲が少し多い。
そんなことを考えながら、ふぅ、と溜め息。
……隣の涼風に、もう先ほど見た寂しげな色はなかった。

やはりここが、少なくとも鈴音にとっては、彼のいる場所で。
きっと他のどこよりも、彼らしさがあるところ。

緩やかな風が吹いてくる。
涼風を慕って。涼風を求めて。
でももしかしたら、慕い、求めているのは涼風自身の方かもしれなかった。

「…………ねぇ」
「何?」
「風鈴。どこで手に入れたの?」
「えっと、確か……ほら、街の外れにさ、硝子細工専門の店があるでしょ。あそこで」
「…………………………」

急に黙った鈴音は、何とも言えない表情を作る。
そして、

「…………ぷっ、あ、あはははははははははっ!」

いきなり笑い始めた。
心の底から可笑しそうに。そんな彼女の姿を怪訝に思い、涼風はどうして笑ってるのかと問う。

「いや、妙な偶然もあるんだ、って。それだけ」
「それだけ、じゃわからないよ。気になる」
「なら話す」

一瞬遠い、懐かしむような目をして。

「たぶん、本当に悪いことなんてひとつもなかったんだと思う――――










始まりは私が私であるより前のこと。
そして、今もずっと続いていること。

私が一歳の時、母が倒れたらしい。
朝食に出す野菜を切っていて突然だったそうで、父は物凄く慌てて病院へ連れてった。
それから母は二度と家に戻ってきていない。
詳しい病名とかはよく知らないけど、脳の働きがどうとかで身体が上手く動かなくなる病気、と担当の医者は言っていた。
実際その通りで、母は自力で病院のベッドからすら立ち上がれない。
何をするにも誰かの力を借りねばならず、でも意識ははっきりとしてるし普通に会話もできる。

「だから余計辛いのよ。他の全てが私にはあるから」

そんな母の言葉を、私はまだしっかりと覚えている。
とても真剣で、悲しげな表情をしてたから。

母が寝たきりの人生を送るようになって、家の中の何もかもが変わっていった。
父親は今まで以上に仕事に時間を割くようになり、勿論帰りも遅い。
小学校に入るまで、私は保育園に預けられていたけれど、いつも皆が親に引き連れられる姿を見ていた。

一度だけ、父に「寂しい」と言ったことがある。
返事はひとつだけ。

「すまない。だが、父さんは母さんを守りたいんだ」

父も真剣だった。凄く、凄く強い気持ちを抱いていた。
入院費を支払ってくれる酔狂な人物なんてどこにもいない。家族が頑張って、日々の中で稼いでいくしかないのだ。
だから父はひたすら仕事に取り組んで、たった一人、自分だけの力で母を守ろうとしていたんだと思う。

私は、家事を担当するようになった。
他にできることもなかったし、母の代わりに少しでもなれればよかったから。
炊事洗濯掃除に家計の細かいやりくり。ある程度は父に手伝ってもらってはいたけど、それでも九割方は自分でしていた。
弁当も自分で作ってるし、冷蔵庫の中身を揃えるのもそう。
父が仕事に専念できるように。母がいなくても平気なように。
何の心配も掛けないための手段が、自分で全てをこなすことだっただけ。

母の見舞いも、行ける限り毎日。
休みの日は面会時間いっぱいまで話をした。

訊ねられることはとても多くて、私が体験しているたくさんの日常を母は求めた。
学校での出来事。友達はどんな人間か。授業のつまらなさ。昨日読んだ本の感想。
もうこれ以上喋ることなんてないってくらい、平坦な日々から感じるあらゆるものを伝える。
話を終えると母は必ず微笑んで、ありがとう、と言ってくれるのだ。

「鈴音。あなたの頭を撫でてあげられたらいいのにね」

そんなことも、漏らしていた。
叶わないからこそ切実な、本当に切実な願いだったんだろう。

病室の窓の外には無機質でどこか冷たい街の光景が広がっているだけで、四季を感じさせるのは空の色ひとつ。
何もない部屋。変化のない場所。そこに新鮮味なんて存在しないから、母は私に話をせがむのだと、知っていた。
それだけが母と外の世界を繋ぐ細い糸になるのだと。

医者はいつ治るかわからないと言う。
明日か、半年後か、一年後か、十年後か。あるいは一生このままなのかも。
それに治ったってリハビリには途方もない時間が掛かる。元の体力に戻るかもわからない。
尽きることのない不安を抱えて、私達は生きていかなければならないのだ。


閉じられた部屋がある。
母が使っていたらしいその空間は、懐かしいような匂いが満ちていて、入る度に寂しくなってしまう。
でも、時々は掃除しておかないと埃が溜まって仕方ないから、私は手を掛けて綺麗にする。
箪笥に並べられた本。木製の小物。机と、小さな椅子。そして、

リリン、リリン――――
リ、リン、リリリン――――

窓を開けると風が通って、街外れの店で買ったらしい、吊り下げられた風鈴が、並べられた鈴達が例外なく音を立てる。
際限なく。絶え間なく。ずっと、ずっと鳴り続ける。

それを聞くと心が痛んで、泣きそうになるのだ。
私の知らない母は確かにここにいた。まだ五体満足で動けていた頃の母が。
勿論この風鈴に関する話もしてくれたけど、他に昔の母をイメージさせるようなものはないから。
だから、強く思う。私がいなかった日々を。この部屋で風の音と共に微笑んでいただろう姿を。

けれど―――― 想像の中の母は、あまりにも眩しくて。

きっと永遠に見られない。
私が知る母の形はたったひとつ、病院のベッドで横になっている、弱々しい笑顔だけ。
それ以上も、それ以下もないのだから。

……風の音が嫌いになるまで、大した時間は掛からなかった。
母の部屋で、いつも私は心の耳を塞ぎながら掃除を済ませる。
終わればすぐ窓を閉めて風が入ってこないようにする。
そうすれば風鈴は鳴らない。私は、安心できた。

ずっと……母が大好きだった風の音を、避けてきたのだ。


「……ねぇ、鈴音」
「何?」
「風を、嫌いにならないで。ね」


どうしてそんなことを言ったのか、今でもわからない。
薄々私の心中を察していたのかもしれないけど、それでも。
ただ、私は母の言葉から目を背けたのだから。

本当に悪いことなんて、ひとつもない。
少しのズレや些細な間違いが重なって、集まって、それが全てを壊していった。


でも……理解していても、このどうしようもない気持ちだけは、流せないままでいる。










「まぁ、どこにでも転がってる話よ。別に不幸自慢したいわけでもないし」
「………………」
「黙られると凄く困るんだけど」

苦い笑みのような表情を浮かべる鈴音に、涼風は問う。

「……どうして話してくれたの?」
「何を?」
「大切なこと」

今度は彼女が黙る番だった。
言おうか言うまいか、十数秒の迷いを経て、

「…………これでおあいこでしょ」

そっぽを向いて、小さな声で囁いた。
予想だにしなかった答えを得た涼風は、そっか、とひとことを残す。
辛いはずなのに、という疑問の想いはあるものの、それは口にはできない。
おそらく先日、彼女も彼に対して抱いたものだったろうから。

だから代わりに、彼女らしいと納得して、もう何も言葉を続けなかった。
教室から連れ出したことも。相手と同じ痛みを得ようとすることも。
誰に強制されたわけでもない、全て、鈴音の確かな意思。


涼風にとって、それは煩わしく感じるものではなく……有り難い、真っ直ぐさだった。



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