今日も風が吹いている。 凪のない空間が当たり前になってきて、まあそれほど日常化してきているのだと鈴音は思う。 もうそろそろ梅雨も終わり、本格的な夏になるだろう。 実際陽射しは強烈で、ひなたにずっと突っ立っていたらあっという間に汗まみれになることは間違いなかった。 涼風を慕う風達はこの暑さの中では有り難い。 屋上にいる限り、日陰に縁はない。風の涼しさがなければすぐにでも帰りたくなるのは確かだ。 「あー…………」 彼の周りを、螺旋を描くように流れる大気。 隣にいる鈴音に直撃コースなので恩恵も大きい。 人間扇風機、という単語が頭に浮かんだがどうでもいいのですぐ忘れた。 そもそもプロペラがないので扇風機ではない。 「涼しい……」 小さく呟く。 そしてちらっと目線を送ると、彼は目を細めて両手を後ろに置き、足を前に伸ばして斜め上を向いていた。 何か声を掛けようと思うのだけど、何も出てこない。 昨日、鈴音ははっきり「風鈴の音が嫌い」と口にした。 それは彼の持つ鈴を鳴らす、風を否定したのとある意味同じだ。 あの時の表情。泣き顔にも似た微笑み。 強く、脳裏に残っている。 だから彼女にしてみれば今はぎこちない雰囲気で、どうしていいのかわからない。 ぽいっと足を前に投げ出して、柵に背を預け涼風と同じ格好を取る。 そうすると空が良く見え、清々しい気持ちになるのは確かだった。 二人並んでぼんやり。 寝てしまいそうなほどに心地良い時間の中、ただ、探しても言葉は見つからなくて。 目を背けたまま、鈴音は少しだけ視界を細める。 空の青さが僅かに緩み、その分背中に当たる陽射しの熱を感じた。 ……何だかなぁ。 さらに思いが沈んでいくようで、そんな自分の弱さを振り払うため、あるいは誤魔化すため弁当箱を取り出す。 蓋を開くと今日も彩り良いおかずの並び。 うん、いい出来、と一人納得してから虚しさを覚える。 自画自賛するようになったらお終いだ。症状も末期らしい。 「はぁ……」 溜め息をつきながら卵焼きを口に放り込んだ時だった。 突然隣の涼風が立ち上がり、後ろ手に弁当箱を持って鈴音の前まで来て止まった。 そして蓋を開け、箸を取り出し、 「ねぇ」 「………………」 「…………何してんの?」 引っ繰り返して置いた蓋の上に、いいかどうかも訊かず彼女の弁当からおかずをひょいひょいと摘んでいく。 同じものは選ばず、ほとんど全種類を揃えた後、今度はお返しにとばかりに自分の方からいくつかを差し出してきた。 鈴音が困惑している間に全てが済み、何事もなかったかのように元の位置に戻って戦利品を頬張り始める涼風。 「うん、やっぱり」 「何がよ」 「おいしい」 「……やっぱり、って何」 「最初に見た時から、おいしそうだなぁ、って思ってたから」 それは彼女にとって意外な言葉だった。 だって、自分も羨ましがったことはあったから。 あの時は無理矢理誤魔化したが、まさか彼の方からこうしてくるとは考えもつかなかった。 ひょい、と口に放り込んでみる。 定番の卵焼き。ふっくらしてて、舌触りも全然悪くない。 噛むとじんわり甘みが広がって幸せな気持ちになる。 ……何となく、敗北感を得た気がした。 冗談も世辞も抜きで自分より料理が上手い。 でも仕方ないだろう。きっと、大人の年季というものがあるんだ、と鈴音は一人納得していた。 「どう?」 「おいしい。正直、あたしのより」 「そうかなぁ。僕はそっちの味付けの方が好きなんだけど」 「味覚おかしいんじゃない?」 「違うって」 苦笑し、涼風は軽く首を振る。 もうひとつ適当に掴んだらしいおかずを食べ、 「それね、僕が作ったんだ」 「………………え?」 言われた事実に耳を疑った。 母親が毎朝用意しているのではなかったのか、そう自問する。 こんなにおいしいのだから、相当手馴れているはずだ。 たかだか一日二日でここまでのものは作れない。 「なんで―――― 」 「ほら、僕、片親だから。言わなかったっけ」 「聞いてない!」 「あはは」 「笑うな!」 勘違いが恥ずかしくて、鈴音は頬を真っ赤に染めて怒鳴る。 それをさらっと流してから、ゆっくりと、自然な流れで、涼風の話は始まった。 ―――― 僕は母親の顔を知らない。 声を聞いたこともないし、どんな人だったかもわからない。 もともと身体が弱かったらしい母は、僕を産んだ時に死んでしまった。 だから一番古い記憶の中に、父親以外の姿はなかったんだ。 それでも僕は平気だった。 誰もいなかったわけじゃないから。 たった一人、ぼつりと取り残されたわけじゃ、なかったから。 でも、父は違ったんだ。 母を愛してた。凄く、凄く愛してた。 その分……失った時の反動が、大きかったんだと思う。 父は僕と関わろうとしなかった。 出来る限り遠ざけて、離して、目を見ないようにしてた。 どうしてかは、はっきりとは言えない。 たぶん、僕が母に似てるからかな。一度だけ見たことのある、母が映っている写真。 そこで笑っていた顔は僕にそっくりだったから。 思い出して悲しくなるんだ。戻ってこない日々が欲しくなるんだ。 ……最低限、生きるために必要なことはしてくれたし、教えてくれたよ。 勿論、小学校や中学校にも行かせてくれた。ここに来るためのお金も出してくれた。 だけど、それだけ。他には何もない。会話も、あるいは一緒に出かけるなんてことさえも。 父は料理ができないから、外で何か買ってきてそれをテーブルの上に置いてた。 それを僕は食べるんだ。誰もいない部屋で。静かな部屋で。 別に、寂しくなんてなかった。 そんな形であっても、父は家族でいてくれたから。 僕は平気だったんだ。 小学生の頃には、まず料理を覚えた。 何度も失敗したけど、練習してどうにか人並みにできるようになって。 その頃には、お金だけ置いて僕が適当に買ってくるようになってたから、返って都合が良かったのかもしれない。 食材を揃えて、調理して、いただきます、って言って。 おいしく作れるようになった時は嬉しかったなぁ。 家事もできるようにした。洗濯、掃除。父はそれもできないから。あ、しないだけかもしれないけど。 "風"のことに気づいたのは、料理を覚え始めた頃かな。 声が聞けるようになったんだ。一緒に遊ぼう、って。 学校の誰も僕の手を引いてはくれなかったけど、風は友達になってくれた。 何かを頼めば僕の力になってくれたし。 例えば、木に引っ掛かった風船を取るとかね。 ……もうずっと、変わらない日々のままだけど。 僕は、それでいいと思ってる。 思い出がほとんどなくても、決して悲しいことばかりじゃない。 ただ、できたら―――― 母さんの手料理、食べてみたかったな。 そうして言葉が途切れる。 どう考えても聞いていて良い感情を抱かない内容のはずなのに、話す方も辛いはずなのに。 涼風はずっと、絶え間なく、微笑んでいた。 貼り付けたものではない、自然な表情で、笑みを浮かべていたのだ。 ……わからない。 鈴音には、理解できなかった。 生まれた時から母親を亡くし、父親とのコミュニケーションは皆無に近い。 普通、そうやって育ってきた人間がこうはならないだろう。 もっと悲観に暮れて、やるせない気持ちを持ち続けて、後ろ向きな生き方しかできなくなってしまうかもしれない。 悲しくないのか。 "もしも"を願ったことはないのか。 自分の不幸が、全て嘘だと言ってしまいたくはならなかったのか。 そんな疑問を胸に留め、鈴音は彼に問う。 「何で……そんな、笑ってられんのよ」 結局彼は、答えなかった。 教室へ帰っていく背中を眺め、涼風は思う。 彼女に言わなかった、たったひとつの真実を。 どんなに避けられようと。 どんなに疎まれようと。 涼風は、父が、家族が、大好きだった。 back|next |