都会の方はもっと湿度が高いらしいのだが、霧ノ埼の梅雨も充分湿っぽい。 しとしとと降り続く雨は校庭の砂土を泥に変え、地面を水でいっぱいにする。 傘なしではいられないような日だ。窓には無数の水滴が纏わり付いていて、外の景色が見えにくい。 勿論、屋上になんて行けるはずもなかった。 屋根のひとつも存在しないあの場所は、一面の空を眺められる代わり、天候にとても弱い。 水捌けも悪く、陽射しがなければ二、三日は乾かないので、その間は屋上での顔合わせもお預けになる。 ……だから、今日は会う必要のない日。 なのに、鈴音は話をしたくて仕方なかった。 そうしないと、間が持ちそうになかったからだ。 本人こそ目の前にいないものの、今更になって身内話をしてしまったことに後悔を感じていた。 別に、話すべきじゃなかった、と思っているわけではない。 ただ……そう、少し、恥ずかしいのだ。今まで、自分の心中を誰かに語ったことなんてなくて。 「ああ、もう……っ!」 もどかしかった。何もかもが。 言葉にできないことも、どうにもならないことも、全て。 そういうのも含めて話がしたかった。何か、答えを出したかった。 三年の教室。彼のクラスに足を踏み入れる。 普段通りならここにいるはず。席に視線を走らせ、確認。 「いない……?」 涼風はそこに座っていなかった。 ならば……どこへ行ったのか? 「ここにいないんなら……」 思い当たる場所なんてないけど、とりあえず探してみることにした。 来た道を戻り、さらに下の階へ。一階の目指す先にあるのは食堂だ。 そこには生徒が溢れていて、ぱっと見では誰が誰だかもわからない。 しかし、鈴音は探した。人の間を縫い、目を凝らしてチェックしていく。 ―――― いない。 ここじゃない、と見切りをつける。 何も買うことなく食堂を去り、彼の姿を求めた。 校庭付近のベンチ。 友達らしき生徒達が並んでいるが、やはり涼風はいない。 他の教室にも目を通す。 二階から四階まで。準備室や教科別の部屋も、余すところなく。 それでも見当たらない。どこにも、あの不思議な青年は存在しない。 まるで、学校そのものから消えてしまったようだった。 「そんな…………」 ……そんなことはない。 必ず、必ずどこかにいるはずだ。 走る。今日の彼がいるだろうその場所を見つけるために。 ここまで来て、もう理由なんてないに等しかった。 「もしか、したら…………っ!」 確信はなかった。なかったが、その可能性をどうしても捨てきれない。 そうでないことを祈りながら階段の果てまで駆け上がり、ノブに手を掛ける。 耳に聞こえたのは、雨降りの音。 さぁぁぁ、と水の束が地面を叩き、世界を濡らしていく。 雨に殴られ目を細めて、それでも鈴音は前を見た。 そこには、 「来ると、思ってたんだ」 ―――― 涼風が、いた。 いったいいつから立ち尽くしていたのか、全身びしょ濡れで。水を滴らせて。 「なんで…………いんのよ」 「だから、来ると思ってたから」 「そんな……っ!」 ……そんな、理由でっ! 「どうして待ってられんのよ! 来るかどうかもわからないのに、ずっと! 馬鹿じゃないの!?」 「うん、知ってる」 「ならっ、」 「でも……沼丘さん。君は来た」 もう、何も言えることはなかった。 離れた場所で微笑む彼は、ひとつの嘘さえもついていない。 そのことがわかって、わかったからこそ、鈴音は口を閉ざす。 話している間にも容赦なく雨は降り続け、鈴音の服を少しずつ濡らしていく。 すぐにドアを閉めれば、もう濡れることはなくなるだろう。だが、そうするつもりはさらさらなかった。 涼風が、右手をかざした。 その手には―――― 風鈴。 雨風に晒されて、ひっきりなしに振り管が暴れている。 「何を―――― 」 「見てて」 「え?」 「僕が今からすることを……見てて、ほしい」 そう言った彼の表情は、本当に真剣で。 だから鈴音は続けようとした言葉を切り、ただ、全てが終わるまで見守ることにした。 ……目を閉じる。 世界が真っ暗になると、雨が服に染みて肌に流れるイメージと、風の声だけを感じる。 空は灰色。雲が厚くて太陽の光は届かない。 けれど僕はその向こうを、心の中にある、青い青い、風の戯れる空を瞼の裏に映した。 ―――― ねぇ。 僕に、少しだけ、少しだけでいいから、力を貸してほしい。 囁いた声を、果たして風は聞き入れた。 始まりは、屋上の雨を散り飛ばすかのような強い大気の渦だった。 涼風を中心に、姿が薄れて見えてしまうほどの、風の壁。 それは螺旋の模様を描き、一瞬で天へ昇っていく。 「………………っ!」 吹き飛ばされそうになりながらも、鈴音の目は涼風を捉える。 鈴の音が止まらない。狂ったように鳴り響く中、霞む立ち姿。 そこから続く大気の力は上へ、上へ、雨降らす暗雲まで辿り着き、 ―――――― 弾けた。 雲が四方に散らされる。 徐々に、空本来の色である青が広がっていく。 「雨が…………」 雨が、上がった。 厚い灰色の雲は綺麗さっぱり姿を消し、夏の陽射しが降り注ぐ。 屋上を。校庭を。学校を。霧ノ埼の街を、光が照らしていく。 そして、全てが収まった世界で、涼風はすとん、と膝を落とし、仰向けに倒れた。 「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」 「あはは、力、入んないや……こんなたくさんの風に頼んだの、初めてだから」 気の抜けた身体と声で、それでも涼風の表情は笑みで。 釣られて、鈴音も笑う。色々なことが―――― 全部、馬鹿馬鹿しく、ちっぽけに思えてきたから。 「…………ねぇ」 「何?」 「私さ―――― 」 まだ起き上がれない彼の横に、同じく仰向けになって鈴音は空を見る。 眩しさに目を細めながら、その青色の向こうに思いを馳せた。 涼風の手にある風鈴が、風の音色を奏でる。 その音は、鈴音にとって思い出の痛みを呼ぶものだ。 けれど、今は。 滲むような痛みと共に、優しいあたたかさを感じる。 「―――― その音、少しだけ……少しずつ、好きになれる気がする」 「父さん」 声を掛けてはみるけれど、反応はない。 今日も仕事を終えて帰ってきてから、すぐ自室に向かおうとしていた。 「父さん」 背を追う。 なのに遠ざかって、離れていって、いつか届かなくなってしまう。 僕にとっての家族はそういうものだった。 大切なのに、大事にできないものだった。 心は伝わらず。 それでも明日はやってくるだろう。 何も変わらずに、日々は続いていく。 でも―――― 。 「父さん、待って」 伸ばさなかった手を、今、伸ばした。 肩を掴む。強く、固く、意志を込めて。 「………………」 「僕は……」 振り向いた父の顔は、無表情のようで……怯えの色が、あった。 言葉を封じかける。悲しい思いを、できればさせたくはない、けど。 「僕は…………母さんの代わりにはなれない」 「………………」 「……でも。僕は、父さんも、母さんも、大好きだから」 手を離した。 「それじゃあおやすみ。明日も仕事、頑張ってね」 振り向かない。これで、いいと思う。 歩み寄るためのきっかけを。僕はずっと、求めていたから。 「…………涼風!」 あ―――― 。 もう、何も言えなかった。 初めて父から呼ばれた自分の名を、心で噛みしめて。 僕は、静かに、笑った。 「お母さんっ」 「鈴音、今日は遅かったわね。……あら、それは?」 病室に入り、その問いには答えず窓を開ける。 風で母が身体を冷やさないよう、控えめに。 それから持ってきた小さい箱を手に取り、封を切って、 「……これでよし、と」 カーテンレールに紐を通して吊り下げた。 途端、流れ込む風に揺られて響く音。 「…………鈴音」 「ん?」 「これ…………どこで? 私の部屋にはない色よね?」 「買ってきたんだ。あそこで」 「―――――― そう。あそこ、あそこね。ふふっ……」 母のこんな笑い声を、私は久しぶりに聞いた。 いつからだろう。寂しげな、悲しげな笑顔ばかりしか見せなくて。 そんな母の様子に、恥ずかしさ半分、嬉しさ半分で言い返す。 「お母さん、前、言ってたよね。風を嫌いにならないで、って」 「ええ、言ったわね」 「私、今までずっと嫌いだった。でも、でも……」 懐からもうひとつだけ、取り出す。 私の大切なもの。これから、大切にしていくもの。 それを、そっと風鈴の吊り糸にくっつける。 「大丈夫。もう、そういうものから逃げないから」 足りないものから。欠けたものから。手に入らないものから。 私は、目を背けずにいよう。そして、自分から求めていこう。 風に揺れる風鈴と、すぐ近くの場所で買ってきた、赤いリボンを結ぶ。 ほどけないように。誓いと一緒に、ほどけないように。 back|index |