風が自分を慕うというのなら、それを拒むことは未来永劫ないだろう。
求められることがどれだけ有り難いのか、知っているから。 そして、求められないことの意味も、彼は理解していた。 きぃぃぃぃ、と耳の奥に響くような擦れる音を聞きながら、また屋上に足を踏み入れる。 今日も良く晴れた空で、強い陽射しが遮る物のない空間に降り注いでいた。 秒単位で汗が出てくる錯覚に囚われた鈴音は、夏の暑さに閉口する。 直射日光は肌の天敵だ。一応日陰を探してみたが、ぽこりと飛び出た階段部分以外に影は見当たらない。 「あっつー……」 嫌そうに呟いてみる。当然返事はない。 諦めて、相変わらず斜め上を向いた涼風の隣に座った。 「よく飽きないわね…………」 「そりゃ飽きないよ。いつも同じものを見てるわけじゃないから」 「え? 違うの?」 「うん。色が違う。雲が違う。音が違う。空気が違う。風が違う。一日たりとも同じ空じゃないんだ」 「へぇ……あたしにはわからんわ」 「勿体無い」 本気で言ったらしく、彼の顔は真剣そのもの。 けれどそれはすぐに崩れ、空を眺める時の表情に戻る。 透明な、そしてどことなく寂しげな色をしたものに。 鈴音は彼の視線の先を見てみる。 南中の太陽を背にした北の方、左側にある階段部を無視すれば、遠くには市を区切る山々。 その少しだけ上空、遥かな彼方に広がるのは真青の空だけだ。 しかし涼風の瞳に映っているのは……それではない。 もっと、もっと向こうへと。地球の裏側くらい遠い場所まで届いていても、おかしくはなかった。 「…………ねぇ」 「ん?」 「あんた、何を見てるの」 訊ねると考える仕草をしてから、 「この風達がいた場所……かな」 「はぁ?」 「こうして流れ着いてくる、僕を慕ってくる風が前にいただろう、空の向こう、人のいない世界」 人差し指の先で宙空をなぞり、下から上に線を描く。 すると、その動きの通りに大気が流れて、涼風の前髪を掻き上げた。 気持ちよい涼しさに目を細め、彼は微笑む。 「一度でいいから、行ってみたいなぁ。そこに」 きっと無理だけどね、と苦笑。 そんな彼の視線に焦がれるような色はなく、ただ、ただ純粋に羨むものだった。 「……あんた、羨ましいわ」 「え? 何か言った?」 「ううん何も」 口にして鈴音は後悔した。 それは本心からの言葉で、そして、無意識に零れ出た思いだからだ。 ……馬鹿。あたしの馬鹿。 心の中で自分を罵倒し、俯いてはぁ、と溜め息をひとつ。 気分は晴れないが、構わなかった。 この沈んだ感情を溶かしてくれるのは時間だけなのだと、彼女は知っているから。 空を飛べない鳥は、本当に羽ばたくことを望むのだろうか。 いつか羽が動かないことが当たり前になって、目指す場所を見失って。 例えば檻の中だけが自分の世界であるのならば、憧れさえも消えてしまうのかもしれない。 鈴音には、涼風のように空を望む気持ちはない。 自分が羽ばたけるだなんて、微塵も思えないから。 羽ばたいてみたいと願うことを忘れてしまったから。 「………………」 嫌だ、と思う。 答えのない問いは延々と、ぐるぐると廻り続けていく。 それが一周する度に鬱屈さは増していく気がして、軽い吐き気さえ覚えた。 「……どうしたの?」 「え、あ……何でもない」 「なら、いいけど」 心配を込めた声が掛かるが、鈴音は首を振った。 涼風はあっさりと引き下がり、空に視線を戻す。 やっぱりそこには何もない。 青色以外の、何も。 けれど彼の瞳に映っているのは別のものだ。 きっと、裸の王様が着た服と同じなのだろう。 本当に羨む気持ちがなければ、彼と一緒の世界を見ることは叶わない。 少し、悔しかった。 届かない自分が、悲しかった。 「…………あーもう、やめやめ!」 「?」 「あ、気にしないで。ていうか気にするな。んじゃ、あたし戻るね」 「よくわからないけどわかった」 立ち上がってひらひらと手を振り、扉に向かって歩き出す。 昼休みが終わるまであとどれほどあるかはわからないが、そんなこと別にどうでもよかった。 いつも通り、鈴音が先に帰る。その背を涼風が見送る。 リン―――― 「―――――― え?」 有り得ないはずの音が、聞こえた。 即座に後ろ、涼風の手元を見る。そこに風鈴はあるが、鈴を鳴らすための風受けは押さえられているはずだ。 実際それは指に絡められ、動かないようになっている。なのに、 「風が…………」 彼を慕い、包む風が風鈴を目指して殺到している。 絶え間ない流れは直接振り管を揺らし、握った鈴の縁にぶつかって響かない音色を何度も起こす。 まるで、風達が風鈴の音を求めていたかのように。 ぱっと涼風が手を開いた。 途端に大気は緩まり、開放された風鈴は心地良い風を受ける。 ―――― 鈴音はその様子を、立ったまま眺めていた。 状況と共に表情は困惑から嫌悪のものへと変わっていく。 涼風はすぐに気づいたが、何も言えない。 きっかけはそうでないとしても、彼は彼の意思で今、風鈴の音を止めずにいるのだから。 「……ねぇ、雨羽先輩。風鈴の音、好きですか?」 唐突な敬語での問いに、涼風は戸惑った。 が、律儀に答える。 「好きだよ」 「そうですか」 予想通りの言葉。 だから、 「私は…………大嫌い」 ―――― どうしようもなく痛くて。 駆け出したくなる気持ちを抑えながら、鈴音は屋上を出る。 去り際、少しだけ涼風の方を見た。 彼は、薄く、薄く笑っていた。 でもそれは……あまりにも寂しそうだから、泣き顔にも見えたのだ。 back|next |