「何でこんなことになってるのよ…………」

自問自答してもどうにもならない。
しかし、はぁ、と吐く溜め息はさほど重くもなく、それは足取りも同じだった。

隣にはいくつかのビニール袋を提げた涼風の姿。
相変わらず思考を掴ませない表情で、緩やかに先を目指している。
どことなく楽しそうな、まるで子供が秘密基地にでも向かうような雰囲気を携えて。



……発端はほんの二十分ほど前のことだ。

夕食の準備をしようと思い冷蔵庫の中身を見たら綺麗に空っぽだったので、商店街に買い物に行くことにした。
近くにはスーパーもあるが、商店街の人達と面識がある鈴音としては、安くしてもらえるので利用頻度も高い。
八百屋、肉屋、魚屋……だいたいの店でちょっと交渉すれば値引きが入る。
あまり無駄遣いのできない沼丘家の財政にも優しく、鈴音は週一程度のペースで訪れていた。

カゴ付きの自転車を乗り回しながら、今日は何を作ろうかと考える。
野菜一揃い、肉少し、魚少しで一週間分。荷物が多過ぎても持って帰れない。
調味料は確か切れてなかったはず、と台所の棚の様子を思い出して鈴音は一人頷いた。

「うーん……素麺でいいかなぁ。父さんは帰り遅いし、手軽に作れるし」

添え付けのおかずは天ぷらかそれとも焼き魚かで悩んでいると、

「ん?」

どこかで見たような気がする背中を目にした。
その男らしき人物の特徴的な部分、細い身体と妙に長い後ろ髪が一致するのは誰だったっけと記憶を探り、

「あああああっ!?」
「?」

屋上の主、雨羽涼風だった。
何故こんなところにいるのかわからず、彼女は思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
自分に向けて放たれたらしい大声に釣られて振り返った涼風は、訝しげな視線で見つめてくる鈴音に挨拶だけを軽くする。
それからすたすた歩き去ろうとした後ろ襟を、鈴音の手ががっしり掴んだ。

「ちょっと、何であんたこんなとこにいるのよ」
「何で、って、買い物だけど」
「嘘つきなさい。今まで一度もあんたみたいなの見たことないわ」
「僕はスーパーで全部済ませてるから。沼丘さんは商店街の店舗で?」
「ええ。随分長い付き合いだから色々と便利で……じゃなくて、スーパーはこっち側じゃないでしょ」

涼風の進行方向は北側、小さく緑の多い山々が並ぶ自然区域に続く道だ。
対して南側は住宅中心の区域であり、スーパーは商店街の入り口を出て徒歩三分ほどの場所に建っている。

「いや、タイムサービスまで時間があって。だからそれまでぶらぶらと」
「へぇ……ちなみにタイムサービスって何時から?」
「七時半くらいからかな」
「……まだ一時間近くあるじゃない。来るの早過ぎよ」
「外歩くのは好きだから」
「………………」

散歩と買い物、どっちがついでなのやら、と考え、そんなことは目の前の馬鹿しか知らないと気づき呆れの溜め息を吐く。
これ以上関わると碌なことがなさそうなので急いで立ち去ろうとすると、止められた。
怪訝な表情で視線を向ける鈴音に、

「もし暇なら―――― 一緒に来ない? 教えたい場所があるんだ」










だいぶ悩んだが、彼が自分から誘うのも珍しいことなので話に乗ることにした。
交渉の結果、既に買っておいた食材入りビニール袋みっつのうちふたつを持ってもらう交換条件としての付き合いだ。

「んで、どこに行くの?」
「山の方。街外れの、ほら、少し登ったところに」

指で示す先には、鉄か何かで組まれた高台らしきもの。
徒歩で十分ほどだろうか。とっとと行ってとっとと帰れば充分間に合う距離だろう。

往路をゆっくり歩いている間、鈴音は涼風の話を聞いていた。
曰く、目的の高台は江戸時代中期の頃、火の見やぐらとして作られたとか。
今の時代になって、火の見として使われることはなくなったが壊されずに残っているとか。
数年前に改装されて専ら観測などに使われているとか。
一般開放はされていないが、高台の管理者と涼風は知った仲で特別に許可をもらっているとか。

高台についてのあらましはその程度で、話が終わることにはちょうどすぐのところまで来ていた。
時刻はそろそろ短針が七を示す頃。六月の今なら日没の時間だ。

「着いた」
「着いたわね」

ひっそりと聳え立つそれは随分と高く伸びていて、確かに、これなら霧ノ埼の町も見渡せそうだった。
その足下に二人は行き、涼風は真上の方を指差す。

「登るよ。……大丈夫?」
「別に高所恐怖症じゃないわよ」
「そうじゃなくても結構怖いものだけど」
「平気だって言ってるでしょ」
「わかった。先に上がる」
「何であたしが下なのよ。さては、落ちた時の緩衝材にするつもりね!?」
「違うって。沼丘さん、スカートだから」
「あ…………」

気づき、赤面する鈴音を微笑ましく思いながら、涼風の手は梯子に掛かる。
そのままするすると躊躇なく登り始め、慌てて彼女が後に続いた。
一歩一歩、着実に足を乗せていく。踏み外せば予想されるのは大惨事だ。
怖くはないが、高所の恐ろしさは人並みに知っている。
だからだろうか、ゆっくり視界が地面から離れていくのは、どこか浮世めいた感覚だと思った。

そして、梯子を越えた先、展望台まで辿り着いた。

詰めれば五人ほど入れそうな、でも、せいぜい三人でいっぱいになるだろう空間。
そこに二人も立つと随分狭いのだが、誘った側として涼風は鈴音を前に出した。

「わぁ…………っ!」
「どう? 僕のお気に入りの場所」

―――― 彼女が見たのは、思わず感嘆の声が漏れるほどに、凄まじく素晴らしい景色だった。
眼下には無数の建物が並び、地平線近くには緑の山々。
その緑群の際に燃えるような色の太陽が半分ほど沈み、見渡せる限りの空が朱に染まっている。
町が、世界が、全て夕焼けに覆われ包まれていて、彼女は今目にしている光景を、ただ、綺麗だと感じた。

「……綺麗でしょ?」

子供みたく瞳を輝かせて眺めていた鈴音に向けられた言葉は、彼女の心境をそのまま言い当てたようで。
そんな涼風の顔には、ちょっとしたいたずらに成功した幼い表情が浮かんでいる。


正直、何か言い返そうと思ったのだけど……


……まあいいや、と、沈み行く太陽に視線を戻した。
夜が訪れるほんの僅か前までは、ずっと。



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