きっかけが些細なものならば、理由も些細なものだ。 何となく気になって。足が向かう訳はそれだけに過ぎない。 昨日のこと。 開かずの場所であるはずの屋上の扉がいとも簡単に開いてしまった。 そしてそこには、知らない誰かがいて。右手に風鈴を持っていて。 すぐに逃げ出してしまったが、だからこそだろうか。彼女はずっと気にしていたのだ。 もう急くような気持ちはなく、階段を上がる一歩一歩もゆったりしている。 走らなければ転びそうになることもないのだと、昨日より落ち着いた思考はわかっていた。 一段飛ばしはもうしない。大事なすぐの用事ということもないのだから。 あるいは、昨日見た光景は全て幻だったのかもしれない。 常識的に考えた場合、屋上は立ち入り禁止で鍵は職員室の中。 教師の許可なしでは門前払い。階段を越えた五階、扉の奥に行くことは叶わない。 わざわざ屋上で何かをしようという物好きはほとんど存在しないし、そもそもどうでもいい理由なら教師は鍵を貸さないだろう。 だからあれは錯覚か何かで。 例えば……そう、本当は一人になりたくない自分が生み出した幻覚の類とか。 そんな馬鹿馬鹿しい思いを彼女は抱く。 勿論、本気で考えたわけではないけれど。 「まさか……」 実は見回りの人が戸締りをし忘れてたなんてことないわよね、と言葉を続け、扉に手を掛ける。 ぐっと力を入れると、 「あ」 あっさり開いた。 予想し得たことではあっても、やはり、異様な現実だと思った。 きぃぃぃぃ、と軋むような音と共に空の全景が見えてくる。 それは広い、果てしなく広い青の世界。 学校の中で最も空に近い、屋上だからこその視界だった。 そして昨日と同じ位置に昨日と同じ姿で、昨日と違う空を見上げる生徒がいた。 彼女の思考はすぐに答えを出す。 ……錯覚じゃなかった。 今度は入り口に留まらない。 開け放った扉、そこで仕切られた室内と外の境界を踏み越え、斜めから注ぐ陽射しに身を晒す。 数秒して支えを失った鉄の扉が閉まり、結構な音を立てた。 その音を聞いて、空を向いていた生徒の視線が彼女に向く。 相変わらずどこか遠い、不思議な印象を受ける瞳だと感じた。 「………………こんにちは」 微笑と共に、生徒から挨拶をされる。 それをさらっと無視して、彼女の目はひとつのものをじっと見ていた。 リン―――― 。 生徒の手には、風鈴。 少しだけ季節外れの、六月の終わり、まだ湿った大気には似合わない涼しげな音色が響いている。 彼女は睨むようにそれを見据え、あからさまな嫌悪の表情を見せた。 眼前の人物の心境を知ってか知らずか、生徒は薄い疑問の顔を作る。 どうしてそんな表情を、と思うが、無論答えは返ってこない。 代わりに、問いがやってきた。 「あんた、名前は?」 「……雨羽、涼風」 「変な名前」 即答され、何て言えばいいのか迷っている間に、右手にぶら下がっている風鈴の糸と紙を掴まれる。 途端、ぱたっと止む音。流れる風だけが鈴を鳴らそうとして、二人の服や髪を撫でていく。 「何でこんなところにいるの?」 「……空が近いから」 「どうやって鍵開けたの? ここ立ち入り禁止でしょ」 「懇意にしてもらってる先生がいて、その人に頼み込んで」 「……その風鈴、あんたの?」 「そう」 それからは、質問の連続だった。 彼女が訊ね涼風が答えるだけの。 けれど理不尽な一方的さでありながらも、涼風は律儀に全ての問いに返事をする。 逆に彼女の方は、そのあまりの素直さにどこか拍子抜けした。 嫌そうな顔をしながらこんなぶしつけな疑問を向ければ、普通は良くない反応を見せるものだとわかっていたから。 しかし、言葉を和らげる精神的余裕は今の彼女にはなく、嫌悪の感情も消えることはない。 問いを重ねることを止めても。 手を離せばまた鳴り響いてしまう風鈴を押さえながら、ぼんやりしているように見える涼風を強く見据える。 「…………あの」 「何?」 「手、離してくれないかな?」 「嫌」 「どうして?」 「どうしても」 「離してくれないと、弁当、食べられないんだけど」 「ふうん。……私もよ」 取りつく島もない。 仕方なく諦めて溜め息を小さく吐き、空を見上げ直す。 青く、広い遠くの世界。風がやってくる向こう側が、涼風は好きだった。 隣に視線を移すと、理由はわからないが不機嫌そうな少女の顔。 何よ、と親の敵を前にしたかのような声色で睨まれ、嫌われているんだと感じる。 ……彼女はどうなんだろう。 この空が好きだといい、と思った。 嫌いなら、悲しいと思った。 「……あの」 「今度は何?」 「名前、聞いてない。僕だけ言わなくちゃいけないのは理不尽だと思う」 不意に、そんな問いが口から漏れていた。 知る必要はないのに。自分の言葉はきっと、彼女を不機嫌にさせるだけなのに。 でも、訊ねてしまった。……たぶん、興味が湧いたからだ。来るはずのない屋上に来た彼女がいったいどんな人なのか。 急に問われる立場になった彼女は逡巡し、それから、 「鈴音。沼丘、鈴音です、先輩」 精一杯嫌味たらしく言ってぷいっとそっぽを向く。 とりあえず譲歩してくれたのだと気づき、涼風は薄く笑った。 ……彼女しか知らないことがある。 沼丘鈴音は雨羽涼風ではなく、その手にある―――― 風鈴の音を嫌っていた。 back|next |