心持ち急ぎ足で、廊下を歩き過ぎる姿がある。
時間は昼休みの半ば、だいたいの生徒は弁当や学食、購買のパンを食べ終わった頃だ。
しかしその人物の手元にある弁当の包みには、結び目を解かれた様子がない。

「ああもう……っ、どうしてこんな学校は人が多いのよっ」

理不尽なことを口走りながら、それでも進む足は止まらない。
一般生徒が使えるほとんどの部屋はチェックした。
他に、思いつく限り目的に敵う場所は見当たらない。それが焦りといらつきを増加させる。

……静かなところを探してるだけなのに。

そんな望みを抱きながら、階段を駆け上がる。
とにかく一人でいられる場所をと。そう思い、僅かな可能性に頼るしかなかった。
一段飛ばしで、跳ねるように。人が見ていないのをいいことに、スカートの乱れも気にしない。
彼女はただ、最上階を目指していた。

今日は何故だかついてないらしく、踏んだり蹴ったりという言葉がぴったりの日ではないだろうか、と思う。
例えば朝、起きたら寝癖が酷くて髪を整えるのにかなり時間が掛かった。
遅刻しそうになって走っていたら黒猫が目の前を横切った。
昨日予習したところが今日の授業内容と違ってて、ちんぷんかんぷんだった。
色々なことが重なって、何か得体の知れないモノが不幸な一日を演出しているような気になる。

「きゃっ!」

足の上がりが中途半端で、階段の最後の一段に突っ掛かった。
前のめりになり、姿勢を崩したがどうにか立て直す。

……ほら、やっぱり今日は不幸な日だ。

そう自分に言い聞かせるように一人頷き、また駆け上がる。
こんなについてないんだから、これ以上嫌な気持ちにはならないのだと。

一階から五階まで、所要時間は五分もなかった。
辿り着いたのは扉の前。閑散とした雰囲気が満ち溢れている場所だ。
そこは、屋上へ続く鉄の扉。
学校の中で最も空に近いところである。

期待せずに手指をノブに掛け、捻る。
あとは力を入れて引けば、扉は開くだろう。
しかし、そんなことはないのだと彼女は知っていた。

屋上は去年の秋からずっと閉鎖されている。
その頃飛び降り自殺をした生徒がおり、以来開放されることはなくなった。
どうしても何かの理由で使いたい場合は、鍵を持つ教師の許可を得なければならない。
わざわざそこまでして来たがる生徒はいない。屋上の扉は閉ざされたままなのだ。

だから閉まっていることを確かめるために、ノブを握る。
開かなければそれでもいい、ここで昼休みを過ごすつもりでいた。

「…………え?」

予想に反し、扉は動いた。
金属の擦れるような音が辺りに響き、彼女の眼前に世界が拓けていく。
青い、青い空の色と、眩しい陽射しの感覚。登校時、あるいは下校時に見るものとは少し違う景色だった。

そして、










リン――――

聞こえるはずのない、この場所には有り得ない音がある。
それは何度も重なる音の連鎖だ。ひっきりなしに鳴り続ける、鈴の音色。

完全に扉は開き、屋上の全景が露になった。
ほぼ四角の形に区切られた場所で、間違って人が落ちないように腰の位置より少し高いくらいの柵が作られている。

けれど何より、他の何より強く彼女の目に入ったのは、向かい側の柵に寄り掛かる人の姿だ。
胡坐のような形で右膝を立て、その膝に乗せるように右手が伸びている。
空を見る視線は遠い。表情も、どこか想いが離れているようなものだった。

かざした手指には紐が絡みつき、あるものが吊り下げられている。
それを彼女が見紛うはずはなかった。凛とした音を奏でているのは、

「風鈴…………」

呟きを耳にしたのか、それとも他人の気配を感じたのか、宙を巡る視線が彼女の方へ向く。
何の感情もないふたつの瞳を見て、一瞬、寂しげだと思った。

しかし、そんな考えも長続きしない。
彼女の意識は別のものに注がれていた。
ずっと、ずっと鳴りっぱなしでいる、止むことのない鈴の音に。

リン、リリン、リリン――――

風が空を流れる音も、校庭の方から聞こえる遠い喧騒も。
全て、鈴の響きが掻き消していく。

「………………や…………」

薄く漏れる言葉。
それすらも風鈴は覆い隠してしまう。

やがて彼女は、求めていたものを忘れて走り去った。
ノブから手を離し、逃げるように階段を降りる。数秒の後、ばたん、と扉の閉まる音がし、またすぐに世界は落ち着く。
風鈴を持つその人物は視線を空に戻し、何をするでもなくぼんやりと遠くの世界に思いを馳せた。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ」

走り降りて教室に辿り着いた彼女は、荒れた息を整えて自分の席に座る。
背凭れに身体を預けぐったりしながら天井を見て、もうひとつ、一際大きな溜め息を吐いた。

室内は出る前、昼休み開始時よりも静かで人気も少ない。
しかしここにも幾人か、外に行くでも校舎の施設を使うでもない生徒が残っている。
この学校には一人でいられる場所なんてないのだと気づき、自嘲と後悔の呟きが漏れた。

「…………もう、いいや」

まだ苛立つような気持ちはある。
けれど、それは十数分前までのものとは違い、随分と穏やかに変わっていた。

「……弁当、食べよ」

その日の昼食は、いつも通り、程良い味気なさだった。



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