「欅、随分と血の気の失せた顔だな」 そう八冬のことを評するのは、クラスメイトの緋村陸だ。 別に親友という間柄なわけではない。 陸はかなり色々な人間と話すし、逆に八冬はまるで他人と会話しなかったりする。 その不器用さ、口下手でコミュニケーションが苦手な性格を知っている、数少ない人物だった。 いつも一方的で、そして物の本質をずばり言い当てる。 だから、八冬は陸に対して、あまり好意的な感情を持っていなかった。 彼の言葉は、自分を容赦なく暴くから。 間違いがほとんどないからこそ、余計にタチが悪い。今もそう。 「…………別に」 「嘘つけ。お前の表情は解り難いようで解り易い。……遠峰の転校が響いてんのか?」 心を抉られた。 激情に任せて言い返したい気持ちをどうにか抑え、無言を押し通す。 頑なな八冬の様子に、陸は小さく舌打ちをひとつ。 「はぁ。言いたくなけりゃいいんだがな。それだと傷は癒えねえぜ?」 声の中に微かな心配の色が含まれているのだが、八冬は気づかない。 口を閉じたまま、もう全ての授業が終わり残る必要のない教室を出た。 ここにいる価値なんてない、とでも言わんばかりに。 一人、置いてかれた陸はぽつりと呟く。 「……あれで落ち込みを隠せてるつもりかねぇ」 八冬にとって酷く悲しい、別れの次の日。 まだ立ち直れずにいながらも学校には登校し、朝、そこで担任から聞いた言葉が響いていた。 遠峰水絵の転校。 その理由を家庭の事情のひとことで済ませ、次の授業があるからとすぐ立ち去ってしまった大人の背を見送り。 ああ、そうか、としか八冬は思えなかった。 彼女はもうここに来ない。 彼女はもうこの場所にいない。 ……なら、自分がいる意味も、価値もなくて。 後は流されるままに、時間を過ごす。 黒板に記される図式も、もっともらしい哲学者の言葉も、昼休みのチャイムも、ほとんど耳には入らなかった。 放課後になっても変わらない。何も違わない。 結局ほとんど喋ることなく、八冬は一日を終えた。 自問が頭の中で響き渡る。 何故。何故こうなったのか。何故。何故拒絶されたのか。 記憶が八冬を責め立てた。 自らの弱さ、浅はかさ、不甲斐なさ、不器用さ。 あらゆるものに対して悔やみ、否定し、その度に傷は強く抉られる。 暗い、暗い自室に篭って。 何度も何度も枕を叩いた。そんなことをしても意味はないとわかっていながら、それでも止められなかった。 ばすん、ばすん、ばすん、ばすん。 力を込めて拳を入れても、枕は気の抜けた音しか返さない。 やがて殴打の音は収まって、代わりに静かな嗚咽が聞こえ始める。 ……悔しかった。どうしようもなく悲しかった。 何よりも、彼女が離れていった、その理由が全くわからないことが悔しいのだ。 「………………どう……して」 漏れる言葉は問いかけのもの。 他の誰に対してでもない、自分に向けた疑問だった。 数日すれば、八冬はだいぶ落ち着きを取り戻すことができた。 とはいっても、未だに答えが出たわけではない。 時間が、激情を溶かしていっただけだった。 退屈な授業を鉛筆片手に聞いて。 クラスメイトの楽しそうな日常を輪の外から眺めて。 時々話しかけられては、つまらないひとことを返す。 水絵が抜けた、しかしほとんど今までと比べても変化のない学校生活。 ……いつか、彼女の声も、仕草も、表情も忘れていって。 いないことが当たり前になるのだろうかと、八冬は思った。 きっとそうなるのだろうと、思った。 「欅、ちょいといいか、話」 不意に八冬は陸に呼ばれる。 人気のない廊下に連れられ、そして彼特有の、鋭い、全てを見透かしたような目を見た。 「……俺はな、お前を気に入ってるんだ。他の奴らと違って、お前は何か光るモノを持ってる。 でも今は駄目だ。その目は曇ってやがる。それが、俺には許せない」 「………………」 「だから、」 動作は一瞬。 陸は思いっきり、八冬を一発だけ殴った。 これで目が覚めるだろう、とでもいうように。 非難の視線が返ってくるよりも早く、言葉が続く。 「もっとよく見ろ。お前が今まで何を解っていたのか。少し考えれば、まあお前ならわかるだろ」 意味深な台詞をひとつ残し、彼は去っていった。 それを呆然と見送る八冬。 ……頬の痛みは、大して気にならなかった。 八冬の知る緋村陸は、普段ああして手を上げるような人物ではない。 それはポリシーじゃねえんだ、と昔口にしていたことを思い出す。 では何故、そのポリシーを反故にしてまで殴ってきたのか。 彼の放った、言葉の意味を考えた。 何を解っていたのか。……水絵の、何を解っていたのか。 雪景色。頭に少し積もった白。 恥ずかしそうに真っ赤な顔で、けれど精一杯の勇気で言い出してくれた。 二人で散歩した日もあった。 滑って転びそうになった姿と、神社での願い事。 彼女の祖父の葬式で約束が叶わなかったこと。 今日は駄目でも次は平気だと信じていた。 風邪をひいたと聞いた時は、居ても立ってもいられなくなった。 自分では剥けない林檎を持って、突然泣き出した彼女の小さな背中をそっと撫でて。 そして、別れの瞬間。 転校の前日だ。水絵は……何を、思っていたのだろう。 ―――― バラバラだった欠片が、繋がる。 いつだって。彼女は、一緒にいることを幸せだと感じていたのだ。 八冬が悲しい時。苦しい時。嬉しい時。同じ気持ちを共有できていたのだと、気づいた。 きっと、離れたくなんかなくて。 でもどうしようもなくて。だから、離れてもいいように、大丈夫になるように、別れを告げた。 ……あの言葉が本位ではなかったら。 それはもしもの可能性にしか過ぎない。 ただ、僅かかもしれないけれど、八冬は懸けてみたくなったのだ。 自分の想いは変わっていないから。水絵の想いも同じなのだと、信じたい。 「…………自分に、できること」 求めているもののために、八冬は行動を開始する。 最早そこに、躊躇いは存在しなかった。 back|next |