いつもとは違う空の下で、いつもとは違う空気の中で。 踏みしめた大地からは、冬の匂いがした。 コートの前をしっかり閉める。そうしなければ、凍えるような寒さが肌まで来てしまう。 吐く息は、ほんの数時間前のものより白く。 視界に映る一面の雪景色も、気のせいでなければ二割増しだった。 「………………」 前を見る。 行くべき先は遠く、どれくらいの時間が必要かはわからない。 さっき出た駅の時計は、二時前を指していた。 迷わずに着けるとは思っていない。下手をすれば夜まで掛かるだろう。 「…………それでも」 それでも。戻ろうとする気持ちなんて、微塵もなかった。 一歩を進めた足に感じる雪の柔らかさ。 あと幾度踏み抜けばいいだろうか、と考えながら、八冬は歩き出した。 まずすべきは、水絵の転校先、住所を知ることだった。 八冬は担任の教師に訊ね、駄目だと言われればさらに問い、折れるまでそれは続く。 ついに黙殺を諦めた担任が話し始めたのは、放課後、最初に声を掛けてから二時間も経った後。 職員室に案内され、これは口外するなという前提の下に、理由の説明が始まった。 そうして八冬は知る。 水絵の実家のこと。 彼女の祖父の葬式から急を要したこと。 学校側としても突然の話だったこと。 俺はよく知らんが手続きは大変だったそうだ、と苦笑する担任の言葉は八冬の耳には入らなかった。 ……だって、それはいわゆる大人の事情で。 もし彼女が嫌だと言っても、何かが変わるわけでもない。 理不尽だとしか、けれどどうしようもないとしか、言えなかった。 ……あの時、どんなに辛い思いをしてたんだろう。 想像の域は出ない。 でも、例えば自分なら、とてもじゃないけど口にできそうもなかった。 気持ちを偽ってまで、自分に嘘をついてまで、別れるための、二度と会わないための言葉を。 それを彼女は、涙ひとつ流さず、声を震わせることもなくやってみせたのだ。 溢れそうな感情が胸の中にあっても、全部、抑えて。 どれだけ難しいことか。水絵の立場になかった、気遣われた側の八冬にはわからない。 「………………違う」 わからない、で済ませるわけにはいかないのだ。 これから真実を、彼女の意図を、そして、自分の本当の想いを知りに行くのだから。 「…………先生、住所を、教えてください」 「ああ、そうだったな。しかし何だ、欅、手紙でも書くのか?」 八冬は首を振った。 なら何故だ、と訊ねる担任に、 「会いに、行くんです」 今までのどんな言葉よりもはっきりした、確かな意思を伝えた。 担任に教えられた住所は、偶然にも、幼少の頃住んでいた町のものだった。 とはいっても、その時期の記憶はもうほとんど残っていない。 今の家に越してきたのは小学校に入る前。走り回って遊んだ場所も、雪一面の風景も、随分と遠い思い出になっている。 手には周辺区域の地図。 そこに書かれた大まかな住所と照らし合わせて、後はぼんやりとした過去の情景に頼るしかない。 慣れないながらも、八冬は懸命に頑張って探すつもりでいた。 決して、諦めることなく。見つかるまでは家に帰らないという思いを心に留めながら。 今はちょうどテスト明けで、日曜を含み数日間の休みが学校にはある。 できればその間に何とかしたいのだが、駄目なら、無断で欠席する覚悟も持っていた。 親にはただ、少し旅行に行ってくる、と断っただけだ。 息子の真剣な表情を見たからか、二つ返事で了承してくれたことを、八冬は感謝している。 何も言わずに家を空けるのは嫌だったから。有り難い両親だ、そう感じる。 しばらく歩いていると、駅周りの閑散とした景色は建物の並ぶ栄えた空間へと変わっていった。 間違いなく徐々に近づいている。そんな実感を得つつ、目的地を目指す。 道がわからなくなれば、地図を凝視し。 それでも駄目なら通りすがりの人に訊ねる。 口下手な彼からすると生半ならぬ決意が必要なことだが、疑問を向ける声に躊躇はなかった。 幸い人々は親切で、訊かれれば丁寧に教えてくれる。 方言などで理解し難い部分もありながら、少しずつ、しかし着実に進めている感覚を八冬は得ていた。 時々、何でもない通りを見かけると古い思い出が蘇る。 この辺は昔走り抜けたかもしれない、あの場所はみんなでかくれんぼをしたかも、と考えながら歩くのも楽しかった。 それだけで、来てよかったと思えるものだったから。 「…………懐かしい」 見た景色。知っている空間。 変わっていっても、変わらないものがある。 八冬は自分の想いを信じていた。 「……着いた…………」 そして夕方前にようやく辿り着いたのは、木造の、年季が入った家屋だった。 教師の言葉通り、和菓子屋。素人の八冬にも精巧に映る細工菓子が店頭に並んでいる。 凄い、と圧倒されつつも、店の方ではない、家の玄関を探した。 もしかしたら彼女はいないかもしれないけど、それなら何時間だって待つつもりで。 建物の右側に行ってみると、苦もなく入り口は見つかった。 呼び鈴の類はないかと視線を走らせ、なかったので眼前の戸を叩く。 二度のノックの後、職人の一人らしき人物が現れた。 八冬は言葉少なに、適度に誤魔化した事情を伝えて在宅の有無を教えてもらう。 「呼んできましょうか?」 「あ…………はい。お願い、します」 すぐにどたどた階段を駆け上がる音が聞こえ、少し間があって、もう一度どたどたという音が響いた。二人分。 現れたのは、水絵と……その手を引く、水絵の父。 「お父さん、離して……っ」 掴まれた手を振り解き、懸命に二階へと戻ろうとしているが、彼女の父は決して力を緩めなかった。 多少強引に八冬の前へ連れ出し、それから、 「すまないね。私の所為でお手数掛けてしまって」 「……いえ」 「私にできるのはこのくらいだ。あとは娘と君に任せるよ」 後には二人が残された。 居心地の悪さから、あるいは責められるかもしれない恐れからか。 水絵はどうしても八冬と目を合わせられなかった。 心の中で問う。 どうして、どうしてここまで来たの、と。 その想いに答えるように、八冬は自然な動作で、そっと、水絵の手を取った。 「あ………………」 ぎゅっと握りしめられた手指。 ちょっと懐かしくて、ちょっとくすぐったくて、そしてとてもあたたかい。 こんなにも離れていたから。 だから、こんなにも大切で、忘れられなくて、必要なものなのだと、改めて気づいた。 「………………水絵、さん」 「……え?」 「僕は……あなたに会いたかった。ずっと、会いたかった」 初めて八冬は名前を呼んだ。 付き合ってきてずっと、ほとんど意思を口にはしなかった彼が。 他の誰でもない、自分に会いたかった、と、そう言ってくれたのだ。 「好きです。……付き合って、ください」 それは、八冬が一度も伝えていなかった言葉。 ゆっくりと芽吹いてきた、本当の気持ちだった。 長い、長い沈黙の後。 春の訪れと共に咲く花のように。 世界で一番幸せそうな笑顔で、 「―――― はいっ!」 水絵は頷いた。 その瞳からひとしずく、喜びの涙が落ちていく。 彼の後ろの雪景色も。 今、しっかりと繋いでいるその冷たい手も。 じわり、溢れ出した涙でにじんで見えて、仕方なかった。 back|index |