その日、電話が掛かってきた。
相手は水絵。ひとこと、公園に来てほしいとだけ言って回線が途切れる。
受話器を戻し、八冬は腑に落ちないと思いつつも、その言葉に従うことにした。

コートを羽織り前を閉めて玄関へ。
靴を履いて扉を開ければ眼前は冬の外だ。
最近は雪が降らず、しかし寒さは変わらない。
吐く息の白さに、未だ冬が明けないことを感じる八冬だった。

歩きながら考える。
先の電話、あの意味は何だったのだろうかと。
公園に自分を呼んで、いったい何をするのだろうかと。

外に出られるのだから、きっと風邪は治ったはずだ。
だがまだ病み上がり。あまり外出するのは良くない体調であることも間違いない。

……なら、どうして今、わざわざ呼び出したりしたのか。

八冬にはこれ以上わからなかった。
ただ、行くべきだということを理解している程度。
受話器越しの言葉には、どこか真剣さが混じっていたから。
行かなければおそらく一生後悔するのだと。
そう感じ、こうして寒空の下を歩いている。

……先日、泣いた彼女の背を撫でたその感触を思い出した。
小さくて儚い身体。安堵を含む声と静かな微笑み。

期待がないと言えば嘘になる。
風邪はもう治ったとするのなら、また二人で日々を過ごせるのだから。
そんな淡い、微かな思いを胸に八冬は公園へと向かう。


さっきまで晴れていた空を、いつの間にか雲が覆い始めていた。










薄暗い世界の中で、見慣れた小さな背中を捉える。
近づけば確かに、遠峰水絵だった。
言葉少なに八冬は挨拶をし、水絵も、普段通りのトーンで返事をする。

ベンチに座ろうか、と目線を送った。
しかし、返ってきたのは否定の首振りだった。
代わりに、手だけをそっと握られる。

話題が途切れる。
どうにかして言葉を繋ごうと、必死になって何かを探して。
けれど思いつくことはない。不器用さ故に、八冬は話を続けられず。
無言の時間が過ぎる。彼が欠片も求めていない、居難い時間が。

……ふと、不安を覚えた。

恐ろしい想像が脳裏を廻る。
ずっと考えずにいたこと。そんな時が来るとは、思っていなかったこと。
それはたったひとことで今まで築いてきた全てを粉々にしてしまうものだ。

水絵の姿に、変わるところはない。
表情も、姿勢も、仕草も、声の色も。いつもと同じ彼女のまま。

だが八冬は気づいていた。
何も違わない彼女は今、どこか危うい空気を纏っていることを。
軽くつついただけでも壊れてしまいそうな、強く脆い決意を持っていることを。

だから、触れられなかった。
これから大事なものを失うのだとしても。
触れられなかったのだ。





―――――― 別れて、ください」





……思ったより、その言葉はすんなりと出た。
もっと喉に詰まるのかと、そう覚悟していたのに。

八冬はやはりというか、呆然としていた。
そんな様子を見て、半ば嬉しく、残りは悲しく感じる。

選んだ場所はこの公園。
告白をしたのは自分だった。そして、その関係を終わらせるのも自分。
なんて自分勝手なんだろうか。振り回して、最後には蹴り落とすように絶望させる。

水絵は繋いでいない右手を握りしめた。
爪がてのひらに食い込むくらい。
痛みがほんの少しでも、自分を傷つけてくれればいいと。

「………………どうして」

疑問から始まる、八冬からの問いが来る。
何度も。何度も。重ねられた声は、水絵の心を締めつけて止まない。

辛くなって、視線を逸らして。
だけど完全に目を背けるのは嫌で、横目に見た彼の表情。
痛みに満ちた、とても、とても悲しそうな顔をしていた。

それは嘘だと言ってしまいたかった。
好きなんだと。この気持ちは今でも、これからもずっと変わらないのだとぶちまけてしまいたかった。

―――― 懸命に堪えた。

これから去っていくのは、一緒にいられないのは、自分の方なのだから。
傷つくことを嫌がってはいけない。この想いに負けちゃいけない。
全部振り切って、辛くても振り切って、一歩を踏み出さなくてはならないのだ。

手を、離した。
遠ざかる彼のぬくもり。
この無言の優しさを、忘れずにいようと誓う。

まだ続きかけた八冬の問いを断ち切るように、水絵は背を向け歩き始める。
家まで戻れば、すぐにこの町を去らなくてはならない。
そういう約束で、両親には時間をもらってきたから。
だから、もう最後。今までの人生で一番幸せだった時間は、終わり。

……自分の決断は、きっと後悔を得るのだと水絵は思う。
たぶんそれは彼も同じで。でも、不器用で口下手で可愛いものが好きで、そして本当に優しい欅八冬は。
いつの日か自分のことを忘れて生きていけるのだと、信じている。

動き出した足は止まらなかった。
少しずつ、思い出の場所から、八冬から、遠くなっていく。
公園の入り口まで差し掛かり、どうしても我慢できなくなって、気づかれない程度にちらりと振り返る。


―――― 彼は泣いていた。


顔を歪めて、ぼろぼろ涙をこぼして。
頬を伝う雫が地面に落ちていく。たくさん落ちていく。
そんなこと関係なしに、声を出さず、けれどあまりに痛々しい表情で。

いつも無愛想で、顔色はほとんど変えなくて、感情を表に出すのが苦手で。
なのに今は、あんなにも悲しそうに泣いている。水絵も初めて見る、八冬の涙。

……心が激しく軋んだ。
何故、という問いが脳裏に響く。

どうしてこんなに苦しい思いをしなくちゃならないのか。
どうしてこんなに大好きな人を悲しませることになるのか。

涙が溢れそうになる。
そのまま彼の元に戻りたくて。求める気持ちは失くならなくて。
でも、それでも、足は止めない。止められない。
後ろ髪を引かれながらも、振り返った視線を、行く先に向け直した。

「………………さよなら……」

小さく最後に呟く。
その言葉が、例え何も振り切れなくても。
今だけはどうにか、二度と振り返ることのないように、と。


雪が降り始める。
徐々に白くなっていく景色の中で、長い間、八冬はただ呆然と立ち尽くしていた。



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