一瞬、手を掛けることに躊躇いを覚える。
何せ初めての訪問だ。突然だから迷惑に思われるかもしれない。
それに、お見舞いに行ったとして、自分に何ができるのだろうか。

八冬はしばらく立ち尽くしていた。
玄関を前に、左の手には袋がひとつ。
お見舞いには定番の林檎だ。嫌いでなければいいけれど、という不安もある。
だが他に思いつくものはなく、ついでに八冬はさほど器用でもない。
剥いて食べさせるなんて芸当が可能なはずもなかった。

「………………」

それでも。
せめて言葉だけは、意思だけは伝えたかったのだ。

忌引で反故にされた約束。
仕方ないとわかってはいつつ、淡い寂しさを抱いたのは昨日のことだ。
そして今日こそは、と来た学校で、教師は彼女の風邪を八冬達クラスメイトに知らせた。

会えない日が続いて。
最早切り離すことのできない日常の一部となった、水絵との逢瀬を求め、八冬は彼女の家まで来た。
自分の来訪が、ほんの僅かでも喜びになってくれるのならと、そうも思いながら。

伸ばした手がベルを鳴らす。
後は彼女が眠っていないことを、勝手ながら願わずにいられなかった。










別に嫌だったら会わなくてもよかった。
寝たふりとか気分が優れないなんて言って誤魔化すとか。
そうやって顔を合わせる機会を作らないようにできたのだ。

でも水絵は、彼の来訪を心の奥底で喜んでいた。
つい先ほど、こうして布団で横になっていることに、安堵を得たのに。
やっぱりどこかで、声を聞きたい、言葉を交わしたいと思っていたのだと気づく。

まず初めに軽いノックが二回。
こんこん、と控えめな音が響く。
水絵は小さく「どうぞ」と答えた。
ドアが動き、ゆっくりと入ってくる長身。扉の枠に頭をぶつけそうになって、腰をちょっと折り曲げている。
そんな彼の様子に、思わず笑みが漏れてしまう。
けれどその囁くような微笑の声は、八冬に聞こえるほどの音量ではなかった。

「………………起きてる?」
「うん」

律儀に訊ねてから隣に並ぶ。
水絵の顔の右側に正座し、おもむろに額に触れた。

「え、あ、ちょっと、欅くん……?」

そのまま数秒ほど、温かいてのひらの感触を得る。
動いてそのぬくもりを手放すにはあまりにも惜しくて、水絵は為すがままにされていた。

「あ…………」

手が離れる。
無意識に声が出てしまい、慌てて水絵は口を閉じた。
幸い八冬には気づかれず、ほっと心中で一息。
まだ触れていてほしいだなんて、恥ずかしくてとても言えたものじゃない。

だから、というわけではないが。
代わりに戻る手を取って、握った。
決して強くはない力で。もう少しだけ、こうしていたいと。

……あたたかい。

伝わるぬくもりは、春の陽射しにも似た心地良さだ。
今は冬だから、余計に有り難く感じる。
できることならもう二度と離したくはないと、そう思ってしまう。

明日か。明後日か。いったい何日後だろうか。
いつか必ず風邪が治って、そうしたら、引っ越しが待っている。
否応無しに訪れる、別れが待っている。その時には、

……もう会えないと、伝えなきゃいけない。

それはどんなに苦しいことか。
ほんの僅か、数日先の世界を思うと、胸が酷く痛くなる。
自分も、そして八冬も傷つけることになると、水絵はわかっていた。

「ひぁ…………」

感情が外に溢れ出した。
抑え切れず、どうしようもなく、惨めさと悲しさと、ごっちゃになった気持ちのまま、涙が流れる。
突然ぼろぼろと泣き始めた水絵を見て、八冬は困惑した。
どうしてこんな風になったのか、わからない。
ただ、彼女が悲しんでいるのは理解できる。
泣いている彼女の前で、自分にできることは何か。

八冬の右手は、自然に水絵の背中に回った。
そっと、壊れないように、愛おしむように優しく撫でる。

もしこうすることで悲しみが少しでも緩くなるのなら。
涙を止める手助けになれるのなら。
自分のした行為にも意味があるのだと、八冬は信じた。信じたから手を伸ばした。

次第に、泣き声も身体の震えも収まってきて。
それでも背をさする手は止めなかった。
彼女がもういいよと言うまでは、平気だという視線を送ってくるまでは、と。

「……ん、欅くん、もうだいじょうぶ」
「…………そうか」

そうして、八冬が聞いた声には、安堵が含まれていた。
ゆっくりと手を戻す。浮かべられた微笑みに見送られながら。

どうして水絵が笑っているのか、八冬にはわからず。
ただ、自分のしたことにきっと間違いはないのだと、何となく思う。
彼女の表情が、何よりの証明だった。


それから十数分を雑談に費やし、水絵は布団に包まったまま、彼の帰っていく姿を見送った。
ぱたん、と閉まった扉を見つめて、上半身を起こす。
窓から微かに見える外の景色は夕焼けで、今まで何度目に焼きつけたかもわからない色だ。
遠峰の家はこの町、霧ノ埼より北にある。だからたぶん、空の色も違う。
引っ越してしまったらもう二度と見られないのだと思うと、とても、とてもこの景色が貴重に感じられた。

……服越しに伝わってきた、彼の手のぬくもりを思い出す。

あたたかかった。
嬉しさでまた涙が出そうなくらいに。
幸せ過ぎて時が止まってほしいと願うくらいに。
その気遣いは、優しさは、あまりにも心地良い。

……ああ、だからこそ。

別れの言葉を、告げなくてはいけないのだ。
もし会える時があるとしても、それはいつになるかわからない。
大人になって、独り立ちをしたらどれほどの年月が経っているだろう。
その頃には、この溢れそうな気持ちも、過ごした時間の記憶も、溶けて失くなっているかもしれないのに。

自分にできることは、と水絵は考える。
彼のために。例え自身が痛みを得ても、消えない痕ができるのだとしても。
せめて、彼の痛みは、深く治らないものではなく、やがて癒えていく傷になるように、と。

体調が完全になるまでは、まだ少し掛かる。
その間に、精一杯考え続けようと心に決めた。


……それまでは、今日の出来事を、あの温かみを、これからの原動力にするのだと思いながら。



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