八冬はあまり感情を表に出さないから、何を考えているのかがよくわからない。
だから、水絵はどうして彼が首を縦に振ったのか知らないのだ。
興味本位とか、雰囲気に流されたとか、好悪に関係ない選択をしたのではないか、と。
彼は優しいから。嘘をついてでも、相手を傷つけないようにするのかもしれない、と。

なら実際はどうなのか。
……答えは、水絵が考えているほど後ろ向きなものではなかった。
気持ちを飾ることなく、偽ることなく、八冬は彼女に惹かれていたのだ。

きっかけを得たのは日常の中。
八冬にとって遠峰水絵という人間は、それまでクラスメイトの一人だった。
柔らかな空気を持っていて、ああ、ほんわかした人だな、なんて印象しか持っていなかった。

少し話は変わるが、彼は割と図書館に行く。
静かで、使い古した紙の香りがする。そんなあの空間が好きで。
幸い読書も嫌いではなく、暇を持て余している時は散歩か図書館か、の二択だ。
その日も、休日の時間の使い方として図書館を選んだ。

室内に入ると本がある空間特有の雰囲気を感じる。
心地良い静けさを堪能しながら進み、一冊の本を手にして席についた。

……そこで、彼女を見つけたのだ。

彼女は懸命に蔵書と向き合いながら鉛筆を走らせている。
集中した視線が捉えていたのは、数学の解説書だった。

八冬は思い出す。
水絵が、学年でも十指に入る実力を持つ頭脳だということを。

これまで、その成績はきっと天賦の才がもたらしたものなんだろうとおぼろげながら信じていて。
そんな自分の曇った目を、思いを叱咤されたような気がした。
……よく見れば、彼女はどんなところでも努力していたのだ。
駄目ならもっと。結果が出なくても続けて。だからこそ最良の答えを導き出せるのだ、と。

運動音痴で、繊細で、強引な人や言葉に弱くて。
許容範囲を超えるとすぐあわあわと慌ててしまうような、不安な性格をしているけど。
真っ直ぐ前を向いたそのひたむきな姿勢が、掛け値なしに凄いと思えた。
もし努力をしても流されてしまいそうな時は、どこか弱く儚い彼女を守ってあげたいと、そう思えた。


だからこそ水絵の告白に対して、八冬は……頷きという肯定の答えを返したのだ。










それは、あまりにも突然の話だった。
水絵が早朝、起床と共に告げられた事柄。
父方の祖父が昨日急死し、今日葬式をするのでこちらに来てほしい、というもの。

生憎だが休日ではないので、水絵には学校がある。
しかし、両親たっての、そして彼女自身の希望により、一家揃って行くことになった。

思い出すのは幼い頃の風景。
一年に何度か見るのは祖父の、皺が目立つ、どこか厳しくも優しげな瞳だ。
普段怒鳴ることが多いのだが孫には限りなく甘かった。
そのため記憶に残っているのは、嬉しそうな、幸せそうな表情の祖父しかなかった。

父によれば、祖父はいつでも鬼のようだったという。
ひたすらに強く、激しく、厳格な親だと。
自分が持つ祖父への印象の違いに、よく戸惑ったものだ。
ふたつの印象、そのどちらも本当だと気づいたのは、ずっと後のことである。

……あのお爺様が、もう私に笑いかけてくれることはない。

そう思うと悲しくなる。泣いてしまいそうなくらい悲しくなる。
きっと葬式では涙を流してしまうだろう、と水絵は思った。
感情を抑えられるほど、我慢できるほど大人ではないのだから。

母は学校に電話で、忌引の旨を伝えていた。
その横では父が喪服になるものを用意し、身だしなみを整えている。
水絵も、人前に出て恥ずかしくない程度には、服装も心構えもきちんとしておいた。

「さ、水絵。もう行くわよ」

手を引かれるまでもなく、両親と並んで外に出る。
全く時間に余裕のない朝。そしてこの後は、心の余裕もなくなるだろう。

少し、このまま出てしまうことを躊躇う。
ある人に言えなかったことがあるから。本当は言うべきことがあるから。


八冬との…………約束を破ってしまうのが、堪らなく苦しかった。










昨日、世間一般にはいわゆるデートと言われる行為をした二人は、帰り際に約束を交わした。
といっても、下校を一緒にして、図書館に行こうというだけのもの。
無欲で、些細で……多くを望まない彼女にとって精一杯の思いだった。

それを八冬は理解している。
彼女が求めているのは、決して大きな何かではないのだということを。

朝のホームルーム時、担任から告げられた、遠峰水絵の忌引。
実際授業が始まっても、昼になっても姿を見ることは叶わず、時間は無常に過ぎて放課後が来た。

一応待ってはみたのだ。
校門で一時間。図書館で二時間。
もしかしたら、葬式を終えて、帰ってくるのかもしれないと。
式場はこの辺で、夕方前には戻ってこれるのかもしれないと。

淡い期待は、あっさりと裏切られる。
水絵が彼の前に現れることは、結局なかった。


それでも、八冬は寂しく感じながら―――― 彼女の想いを、信じていたのだ。
一人の帰り道も、明日は二人でいられるのだと。きっと。



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