十一月。今日は文化祭だ。
私のシフトは開始から一時半まで。
トロくて鈍いから、足手まといになるかもしれないけど。
できる限り、迷惑かけないよう頑張っていこうと思う。

「みんな、いい? 応対時は笑顔で! 仕草は淑やかに!」

リーダーシップを発揮している発案者の女生徒は、気合の入り方からして既に違う。
鬼の形相と言っても差し支えないだろう。それとも凄い気迫、でいいのか。
視線は何というか強烈で、その目でぎろっと見据えられたら怖くて気絶しそうだ。
言葉のひとつひとつにも形容し難い何かが込められていて、現場に立つ店員役の人達もこころなしか怯えている。
……あそこにいなくてよかったと今本気で思ってしまった。ごめんなさいみんな。

「裏方も頑張ってよ! 出し物の味は君達に懸かってる!」
「は、はいっ!」

矛先が急にこっちを向いた。
勢いに負けて返事をしてしまう。
それで満足いったのか、彼女はさらに声を張り上げて気合を入れ直していた。

「まぁ、あいつの言うことはあんま気にしないでいいよ。こっちはこっちなりに頑張っていこう」

隣でそんな台詞を聞く。
こないだ視聴覚室で声を掛けてくれた彼女。
あの後話しかけられることが多くなって、少しばかり仲良くなった。
軽く励ましてもらえる程度には。

「……よしっ」

私も小さく頷いて、気を強く持った。
一応この日のためにちょっと紅茶のことも勉強してみたのだ。
ほんの僅かでも、私が役に立てれば、と。

九時半。一般客が学校に出入りできるようになる時間。
空気が身構えるようなものに変わった。店の準備も終わっている。


もう一度びしっと気を入れて、私は最初に訪れるだろう客の注文を待った。










「ありがとうございましたー」

ウェイトレスの生徒に見送られながら、割と満足そうな顔で去っていく客。
どうやら料理や紅茶も比較的好評なようで、裏方としては嬉しい限りだ。
実際はどちらかというと、店員の服装やサービスの方が人気らしいけど。

「よーし、前半シフトの人は上がっていいよー」
「はーい」

私の仕事はここで終わり。後は自由時間になる。
みんなに頑張って、とお辞儀をしてから教室を抜けた。
ウェイトレスの人達と違って着替える必要はない。
端に置いていた荷物を手に取り、私は駆ける。目指す場所は初めから決まっていた。

廊下を過ぎて、
階段を下りて、
三階、並んだ教室のひとつが目的地。

少しだけ息を整えて、微かな胸の高鳴りはそのままに。
教室に足を踏み入れる。いくつかの声が私を迎え入れた。

文化祭の出し物はクラス毎に違っているけど、基本的には三種類に分かれる。
調理系列の店。非調理系列の店。それと、展示系列の会場。
私のクラスの喫茶店は前者で、ここ―――― 彼のクラスは中者だ。
いわゆる縁日でよく見るようなものを並べた、どこか懐かしい雰囲気のする出し物。

射的。
水風船掬い。
三角くじ。
金魚掬いは色々あって無理だったらしいけど、それでも、夏、なけなしの小遣いで遊んだ瞬間を彷彿とさせる光景がある。
本物の出店と違うのは、値段が格安なところ。一回50円なんて、まず普通の縁日では目にかかれない。

まず射的。三発で一回50円。
昔からどうも苦手だったのは、きっと上手くコルクを銃に詰められなかったからだと思う。
特に、小学生くらいの時はいつも父や店の人にやってもらっていた。

「……んしょっと」

ぎゅっと詰めて、構える。軽いようで重みのある銃身。
並んだ景品に狙いを定めて引き金に指を当てて……

ぽんっ!

気の抜けた音と同時に、小さなお菓子の箱がコトリと倒れた。
手渡される。どうやら下に落ちなくてもいいらしい。
私はお辞儀をしてからまたコルクを詰めた。まだ弾は二発残ってる。

ぽんっ!
ぽんっ!

休む間なく撃つ。ちょうど客はいなかったので体面を気にする必要もなかった。
一発は綺麗に外れ、もう一発はまたさっきと違うお菓子を倒す。
これで景品をふたつもらった。普段こういうのはあまり食べないので、何となく嬉しい。

ありがとうございましたー、という一種の社交辞令を背に、もうひとつ、本命の方へ。
水風船掬い。水風船を、こよりの先に結い付けた釣り針で取るというもの。

別に、格別水風船が好きなわけではない。
なら何故本命なのかというと、ここは彼の担当だからだ。

「いらっしゃいませー。……あれ? こないだ……」
「あ、は、はい、先日はすみませんでした……」
「いいって。そっちも、勿論こっちもわざとじゃないんだし」

こないだぶつかった時のこと。最近だからか、それとも印象深かったからなのか、彼は覚えていた。
やっぱり私は舞い踊りそうなくらい幸せで、でもほんの少し切なくて。
曖昧でよくわからない、そんな気持ちを抱く。

「君、今日もどもってるんだね。言っちゃ悪いけど、面白い」
「え!? あ、わ、あぅ……あ、ありがとうございます」
「褒めてないのに。ほら、肩身狭そうにしなくていいから。俺がいじめてるみたいだ」

言葉が、ちゃんと出てこない。
馬鹿みたいに緊張して、慌てて、何だか心がふわふわしてて。

「これ、やるんだよね。一回分でいい?」
「う、はい、一回分で」

五十円を渡す。代わりに道具をもらい、ぷかぷかと水に浮かぶ紙風船のゴムの輪を探す。
出来る限り取りやすそうなのを選んで針を引っ掛け、慎重に。そっと引っ張り上げる。
こよりを摘んだ指先に掛かる重量が怖い。千切れないよう、ゆっくりと。

「……お見事。はい、どうぞ」
「ありがとうございますっ」

上手く掬えた水風船を差し出され、私は受け取った。
この瞬間だけ、緊張は意識のどこかに飛んでいってくれていた。
だからどもらず、しっかりお礼のひとことを言えたのだ。

良かったらまた来てねー、と、そんな適当にも聞こえる声を耳にして、教室を去る。
たくさんの人が流れる廊下。そこに溶け込むように立ち尽くし、静かに、私は心臓の鼓動を抑えるのに精一杯だった。

……だって、こんなにも近くにいて。話すことができて。
私の声が届いて、ちょっとだけ触れ合えて、もう死んでもいいと思ってしまった。
今までで一番鮮明。間近で見た顔は凛々しいような、子供っぽくもあるような。
人懐っこい感じの笑みが本当に素敵で、くらくら来て、それはテレビに映るどんなアイドルにも叶わない。

こんなにも私は彼が好きになっている。
嬉しくて、涙が出てしまいそうなくらいに。


誰もいないところまで歩いて、それから溜まった涙を拭った。










校庭の隅は、相も変わらず人がいない。
置きっぱなしの椅子。そこに座って、ぼんやりと空を見上げる。
ここからでも喧騒は届いてきて、文化祭の熱みたいなものを感じた。

ぽん、ぽん、ぽん。

手元の水風船を弾ませる。
軽く手首をスナップさせれば、繰り返されるのは上下運動だ。
柔らかい重みが心地良くて少しだけ笑った。
何度か弾ませ、手を止めきゅっと掴んで握りしめる。
風船特有のゴムっぽい感触。すぐに割れてしまうような脆い膜。
爪を立てたら壊れるだろう。中の水が飛び散って、私の手はきっと濡れる。

「……そんなこと」

絶対にしない。明日になればしぼんでしまうものだけど、私はそれまで大切にしたいから。
彼の手から差し出されて、受け取って、そうして今ここにあるもの。
それは素敵な、とても素敵な事実なのだから。

ぽん、ぽん、ぽん……

水風船の音が世界に響く。
祭りの名残を思い出させるように。
まだ続いてはいるけれど、私の文化祭は、もう終わってると言ってもよかった。
行きたいところも、やるべき仕事もなくて、あとは片づけだけ。
本当に、満足だった。

……不意に足音が聞こえた。
二人分。誰かが近づいてくるのがわかり、つい勢いで隠れてしまう。
そっと物陰から様子を窺うようにして、罪悪感を抱きながらも見てみると、

「………………え?」

そこにいたのは、彼だった。そして、稚紗という名の、彼の幼馴染である少女だった。
どうやら彼女が引っ張ってきたらしく、その手はしっかりと繋がれている。
戸惑うような表情で何やら疑問を彼が口にし、ようやく彼女は手を離した。
向こうの声は少し小さく、聞き取り難い。私は耳を澄まして、神経の全てを遠い声に向けた。

「……何だよ、稚紗。言いたいことって」
「…………えっと、あの、その……っ」
「らしくないなぁ。いつもはもっとはっきり言うだろうに」

普段とまるで変わらない態度の彼とは裏腹に、彼女はとても慌てていた。
何か大切なことを胸に詰めて、声に出そうと必死に頑張っているような。

しばらくひとつも具体的な言葉を発せないまま、数分が経過して。
今度こそ、と真っ直ぐな目をしてから、静かに、強く彼女は言った。


「わたしと……わたしと付き合ってくださいっ!」


―――― 意識が凍った。
息が漏れる。視界が揺れる。身体が、震える。
その先を聞きたくなかった。だってもう、返ってくる答えは心のどこかでわかっていて――――


「……ああ、いいよ」


私は駆け出した。いや、逃げ出した。
一秒でも早く。一瞬たりとも留まっていたくない。
走って、走って、さらに走って、人ごみなんか気にせず走って、一度転んでそれでも走って。
駆けながら泣いた。ぽろぽろと泣いた。泣きながら私は、誰もいないところへ向かった。それがどこかもわからずに。

そうして辿り着いたのは、屋上へ続く階段。
四階からも見えない、一人でいられる場所。

「…………ひっ、ひくっ、ぐすっ、う、うぅ、うぅぅぁっ」

大声でなんか叫べなくて。惨めに、酷く惨めに、漏らした嗚咽は抑えた。
それでも完全に収まることはなく。止められないものが、溢れ出す。崩れていく。


ずっと昔に忘れた、子供のような涙を。
ただ、自然に薄まってしまうまで、ずっと私は流し続けた。


文化祭中の学校は―――― 当然ながら、その喧騒を失っていなかった。



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