私はいつも、みんなより遅い立ち上がりだ。
今日もそうだった。ノートを取り終わるのに時間が掛かっちゃったから。

傍目にもあまり上手いとは言えない字。
だから丁寧に書いてしまっているのも、長引く一因かもしれない。
どうして他の子達はあんなに上手く書けるのか、とよく疑問に思う。
別に習字とかをしてるわけじゃないのに。日頃特訓でもこなしているんだろうか。

鉛筆を放るように置く。
ころころと転がって机から落ちそうになったので、慌てて拾い直した。
知らず、溜め息が漏れる。何だか自分が滑稽で。

「あ、早く行かないと……」

次は教室移動。視聴覚室でビデオを見るらしい。
寝られるー、と喜んでいる人もいたが、私は教師の視線がある中で眠れるほど図太い神経は持っていない。
大人しく正直に一時限分画面を眺め続けるだけだ。
ああいうのは授業後に感想やレポートをよく求められるものだし。

筆記用具と教科書、それと一応ノート。
最低限の荷物だけを抱えて教室を出る。
もう誰も残っていなかったので、電気をきちんと消して。
昼近い、どこか薄暗く感じる教室を背に私は駆け出した。

駆け出すとは言っても、そんなに速くは走れない。
小走りくらいの速度でできる限り急ぐ。もう五分もないけど、遅刻はしたくないから。

廊下を過ぎ、階段を下りて三階へ。
目的地まであと少し。そう思ったところで、

「きゃっ!」
「わっ、とと」

曲がり角で誰かとぶつかった。
私は尻餅をつきながら、よろめく人影を目にする。
立ち上がってからごめんなさい、と言おうとして、相手の正体に気づいた。

「ぁ……」

声を上げそうになって、ぎりぎりのところで抑え込む。
紳士的にも差し伸べられた手を取って、大人しく引っ張り上げられた。

「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。大丈夫?」
「は、はい、平気です。気になさらないでください」

いつもよりどもった、大仰な口調と慌てた仕草で私は返す。
わたわたと手を振って。必死に目を背けて。
視線をほんの少しずらし、俯き、ふとすれば倒れそうなくらい激しい鼓動を抑えながら。

傍から見れば不思議な挙動をしている私の言葉を受けて、彼は苦笑しつつ立ち去った。
有り難くも振り向かずに行ったその背中を、他の生徒に紛れるまで見送ってから壁に力なく寄り掛かる。

「……は、ぅ…………」

なんて唐突で酷い神様のいたずらだろう。
こんな時に、彼に触れるきっかけを与えてくれても、嬉しさより先に別の感情が前に出てしまう。

周りに人がいないのが救いだった。
あんな瞬間を見られるのも、今の自分を見られるのも、物凄く恥ずかしい。
顔はきっと真っ赤で、心臓が飛び出しそうなくらいにばくんばくん鳴ってて。
あとちょっと私の気が弱かったら、次に目覚めた時には保健室にいたのかもしれないと、馬鹿馬鹿しい想像をする。
それにしても、

「よかったぁ……」

こないだのことを思い出した。
彼と視線が合って、私が向けた苦くぎこちない笑みに返ってきた優しい微笑み。
ほんの一瞬存在した、些細なきっかけのことを。

それは私の中では印象深い、今でも鮮明な記憶なのだけど。
全く彼は覚えてなかった。だって、初めて会った人に対する表情をしてたから。

正直、安心したのだ。
もしあの時のことを覚えられていたなら、私は恥ずかしくて立っていられなかったかもしれない。
大袈裟じゃなく、本当に。だいぶ収まってはきたものの、まだ心臓の高鳴りは激しくて。
もう授業開始まで時間がないけど、あとちょっと落ち着くまでは誰とも顔を合わせられない。
頬の火照りを、例えば目聡い女子達はすぐ見つけてしまうから。

ゆっくりと深呼吸。
身体に冷たい空気が入っていく。
吸って、吐いて。しばらくすれば、熱が冷めてきた。
全ては落ち着いていつもの通りに戻る。

「…………よし」

もう目の前にあった視聴覚室のドアを開けようとノブに触れて、

「何入るだけなのに気合入れてんの?」
「ひゃぁっ!?」

後ろから声を掛けられた。
思わず軽く飛び上がってしまい、また心臓が跳ね上がる。
一度深呼吸をして振り向くと、見知った顔の女生徒が立っていた。

「丹那さんって、思ったより……何ていうのかな、うん、怖がり?」
「そ、それは……否定しませんけど」
「あはは。ほら、丹那さん普段本ばっか読んでて印象薄いからさ。近寄り難かったっていうか」
「え、そうなんです……か?」
「うん。だからね、話しづらかったんだけど、今ちょっと、親近感みたいな気持ちが湧いた」

そう言って笑いかけられる。
私は……正直嬉しかった。
友達と呼べる人はあまりいなくて、だから学校では割と孤立していた方。
けれど別に、友達なんていらないと思っていたわけじゃないから。
できればもっと、いろんな人と話せれば、と遠くから楽しそうに話す同級生達を見ていたから。

気づけば頬の火照りは消えていた。
心臓の高鳴りも、もう完全に収まっている。
そのことに安心するのと同時、授業の始まりを告げる鐘が鳴り始めた。

「まずっ。丹那さん、早く入らなきゃ」
「あ、はいっ」

とん、と軽く背中を押される。それだけのことがどこか嬉しかった。
自分もこうして前に進めるのなら、いいと思う。


視聴覚室の中で見たビデオは、想像通り面白味のない、いかにも教材っぽい出来だった。



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