世界は残酷だ。 ほんの些細なことでは、何も揺るがない。 私がどんなに辛い思いをしようが、そんなのどこ吹く風で、ただ無常に時は過ぎていく。 単純だった。シンプルだった。 そういうものに気づくと、少しは楽になったように感じる。 勿論、凄く悲しくて。苦しくて。思い出せばまた涙が溢れてしまうほどに強烈な記憶。 けれど引きずり続けるのは馬鹿馬鹿しいんだと、私はどうにか理解できた。 運良くというか日曜日開催だった文化祭の次の日は振り替え休日で、自分と向き合う機会を持てたのも大きい。 だからゆっくり、波打つこの胸の中の想いを整理しようと頑張れた。 ……今でも好意は失われずにいて。 その表情、声、仕草、全ては未だ色褪せていない。 脳裏に浮かべればほっとして、幸せになれるようなあたたかさが溢れてくる。 これまでと違うことがあるとすれば……もうこの気持ちは、叶わないものとなってしまった、それだけだ。 私の想いは届かない。二度と、届くことはない。 そう思うとまた、泣きたくなるほど悲しくなって、どうしようもなかった。 でも。どんなに悩んだって、過ぎた時間は戻らないのだ。 ここにある結果は誰のせいでもなく、自分自身が招いた答え。 前に踏み出せない、距離を縮められない私の弱さが導き出した、相応の結論。 わかれば後は容易かった。 ひとつずつ、胸に溜まったしこりを溶かしていけばいいだけ。 静かに。静かに。夜の月明かりが差し込む部屋の中で、私は思い出をありふれた記憶に変えていく。 それは数少ないけれど。とても大切にしていた、終わってしまった初恋の欠片。 離れて眺めていた姿。 凛々しい部活中の表情。 背を目で追った帰り道。 一瞬微笑みかけられた図書室の風景。 曲がり角でぶつかった偶然。 文化祭での他愛ないやりとり。 それらはほとんどが遠い、少し離れた位置から見たもの。 決意が足りなくて埋められなかった、近づかなかった私と彼の間にある距離をそのまま表していた。 「…………苦しい、なぁ」 もう一度、泣いた。 これで最後にしようと。振り切るための涙なんだと。 小さく俯いて、それから顔を上げ、手でごしごしと拭って。 ……これからちょっとずつでもいいから、私は、強くなりたかった。 「丹那さん丹那さん、ノート見せてー」 「ちゃんと自分でやらないと駄目ですよ……」 「いやぁ、あたし全然勉強できなくてさ。ほら、丹那さん何気に勉強できるじゃん。だから恩恵に預かろうと」 「私そんなにできませんよ。ノート取るのも凄く遅いし」 「あたしよりはマシ。これは断言できるね。だからお願いー、ノートぉ」 根気に負けたというか、初めから勝負はついているようなものなんだけど、私はノートを手渡す。 頼む側の彼女も慣れたもので、その授業が終わった一時間後に言ってくるから質が悪い。 結局断れずに、ついついぱっと見せてしまう。 こんなんじゃまだまだだ、と思うのだけど、これでいいとも思ってしまうところでもう負けているのかもしれない。 何だかんだ言って、私も友達を欲しがっていたのかも、なんて心中で苦笑した。 「ありがと、この借りは必ず返すよっ」 「そんなこと口にしていいんですか? その借り、既に五回分くらい溜まってますけど」 「丹那さんが屁理屈になったぁっ!」 「そっちが元からルーズなだけですっ」 昔はこんな会話したことなかったのに。 一応、ちょっとは進歩している証拠なのかと感じた。 勿論そういう思いはおくびにも出さず。今は、友達と呼べる彼女とのやりとりを楽しむ。 「……そういえば丹那さん」 「何ですか?」 「こないだより、うーん……そう、元気になったよね」 ……それは、とても自然な流れで。 当たり前のように続いた、違和感ない空気の中での言葉。 だけど私にはこの上ない指摘に思えた。 現実を突きつけられても少しだけ諦めきれず、忘れられずにいた感情を、どうにか綺麗に溶かしていって。 残ったものは私を前に進ませる、強くなるための力だった。 もしかしたら……まだ、胸の中で燻っているのかもしれないけど。 その火もいつかは、必ずいつかは静かに消えて収まるだろう。 だから、彼女のひとことは―――― 私の出せた、答えなのだ。 傷つきながらも乗り越えられた、確かな証明。 例え初恋のことを訊ねられようとも、今ならきっと、胸を張って言える。 私はあの人が本当に好きで、大切で、素敵に思っていたんだと。 想いを口に出す勇気もなかったけど、でも、忘れてしまいたいような痛い思い出じゃないんだ、って。 「わ、丹那さん、どうしたの!? なんで泣いてるのさ!?」 気を抜いてしまったのか、一粒だけ涙が頬を伝った。 目の前の彼女は慌てている。それもそうだ、いきなり泣いて、変な子だと思ったんじゃないだろうか。 ……ちょっと、くすっと笑って。私は躊躇いなく口にする。 「大丈夫ですよ。別に、何か悲しいことがあったんじゃないですから。思い出し泣きです」 「何それー。センチメンタルってやつ?」 「はい。心配してくれて、ありがとうございます」 「な、何言ってんのっ! 普通いきなり泣いたりなんかしたらびっくりするじゃないのさー!」 「あははっ、そうですね、これから気をつけます」 そう、これは、悲しくて流れたものじゃなく。 もっと安らかな……優しい涙だと、信じていた。 厳粛な雰囲気が支配する場。 最後の教頭先生の言葉で、固い空気はゆっくり緩んでいく。 卒業式は自由参加で、後輩である私は強制されていないにも関わらずここに来た。 世話になった人。どこかで見たことのある人。色んな人が体育館を後にする。 ホームルームを少しばかりして、それが終わったらもう三年生は完全に卒業だ。 来賓の退場と共に、私も外に出た。……校門まで行けば、きっとすれ違うこともないだろう。 桜の花が風に吹かれて、空を舞っていた。 私はそれを眺めながら人を待つ。たったひとつ、言うべきことのために。 三十分を過ぎたくらいだった。 まばらに卒業生が流れ始め、一人、また一人と学校の外へと踏み出していく。 まだ。まだ来ない。 あと少し。もうちょっと待てば。 さらにしばらく経って、ずっと見ていた、見慣れた姿が向かってきた。 その横には小さな少女。噂では、相変わらずの仲らしい。 私は声を掛けようと足を出しかけ、僅かばかり戸惑った。 ……だけど、もう躊躇わない。詰められなかった距離を、自分の足で埋める。 「先輩っ! 卒業、おめでとうございます!」 「ああ、ありがとう、えっと…………」 「丹那です。丹那草歌」 「ごめん。名前だけ聞いてなかったね」 「いえ、言わなかった私も悪いので……あ、あの。ちょっとだけお時間いいですか?」 そう伝えると、彼は隣の彼女にいくつか何かを呟き。 小さな頷きを合図に、わかった、と答えが返ってきた。 場所を変えたいので、と言うと快く了解してくれて、やっぱり優しいなぁ、と思いつつ案内する。 辿り着いたのは校庭の隅。私のお気に入りの場所で、彼が告白された場所。 少し驚いたような、戸惑うような、複雑な表情を微かにしてから彼は私に正対した。 これから言うことは、ほんのちょっとの勇気と、ちくっとした痛みに耐える心構えが必要。 深呼吸をし、胸に手を当て、心臓の高鳴りを聞き、前をしっかり向く。 準備万端。遅過ぎるかもしれないけど、私は最後の距離を縮めるための言葉を口にする。 「渡利先輩。―――― 私、あなたのことが、ずっと、好きでした」 back|index |