「ねぇ、丹那さん。これはどこだったっけ?」
「あ、それは向こうの棚です。そう、そこです」
「ありがと。ごめんね、未だに配置覚えてなくて」
「いいですよ、気にしないでください」

慣れるまで私も蔵書の管理は上手くできなかった。
貼ってある数字とアルファベットの意味を理解し、それと照らし合わせて配置の仕方を覚える。
返された本は分類して、個別にチェックを済ませてから元の場所に仕舞う。

なかなか大変で、やりがいのある作業。
けれど、しっかりこなさないと後々問題が出てくるから、多少の重圧もある。

入れるところを間違えれば、ちゃんと探しても見つからない。
それに図書委員側も様子が掴めなくなって、結局困ってしまうのは自分達だ。

例え他人がちゃんとできなくたって、私は頑張っておきたい。
あまり役に立たない私でも、そのくらいのことはできるから。

「よいしょ……っと。えっと、これとこれが……」

チェックの終わった本をひとつずつ戻していく。
その間、返却の受付とかは他の図書委員に任せるしかない。
別に心配ではないけど、早くやり終えなくちゃ、と思った。

ここは私の数少ない居場所。
必要とされている、希少な居場所。
そう思うとどことなく嬉しくて、何かをしたい、と漠然ながら頑張れる気がした。

「……終わった」

仕事はこれで一段落。
受付を交替し、もうまばらにしかいない人達の貸し出し願いを受理しながら、時間が過ぎるのを待つだけ。

私は楽しみにしていた。
静かに、表情には出さずあくまで心中では、だけど。


委員の仕事が終わるまで、あと、三十分もない。
何度も、私の視線は壁に掛かった時計に向いていた。










閉館時間が来て、生徒は全員帰っていった。
私は他の図書委員に言って、後始末を任せてもらっている。

落とし物の回収や、ちょっとした掃除。
といっても床を軽く掃く程度で、大したことではない。
窓を開けて換気を良くする。一応少し埃も立つし、それに、閉めてばかりでは澱んでしまうから。

「あ、涼しい……」

秋の冷たくも澄んだ風が入り込んでくる。
目を細めて、私はしばし大気の綺麗さを堪能した。
それからそっと、外の風景を見る。―――― 本当はこれが一番の目的。

すぐに目当ての人は見つかった。
真剣な表情で、同じ部活の誰かと正対している。
どうやら練習で打ち合いをしているらしい。目まぐるしい速度でテニスボールが行き交いしている。

ここは三階。
向こうからはわからない、気づかれない位置から私は眺め続ける。
今、ほんの僅かな……この作業を終えるまでの間だけ許された瞬間。

他の人なんて視線の中に入らなかった。
ただ彼だけを。その姿を見ていられればそれで良かった。

風の音。ボールが打ち返される音。
微かに届く取り巻きの感嘆の声。気合の入った当人の声。
聞こえるものは全て、眼下の校庭からだった。
図書室は静かで、物音ひとつ感じない。
当たり前だ。ここにいるのは私一人なのだから。

しばらくそうして、少し後ろ髪を引かれる思いを抱きながら私は後片づけに戻った。
箒で床を掃き、ちりとりで纏めた屑や埃をゴミ箱に捨てて。
校庭のテニス部が今日の活動を終えるまでどうしようかと思いつつ、開け放った窓を閉めようとして、

「ひゃっ!」

最後に外に顔を出した瞬間、凄い勢いで目の前をボールが通り過ぎた。
どんな経緯で飛んできたのか、三階の高さまで届いたそれは校舎の壁に当たって落ちていく。
私は尻餅をついて、それからそろそろとまた外に顔を出した。

「すみませーん、大丈夫でしたー!?」

下から聞こえてくるのは心配の問いかけ。
よく見れば先ほど続いていた応酬も終わっている。
……もし打ち間違いだとしたら、とんでもないミスだなぁ、と心中で苦笑した。

大丈夫です、と言う代わりに、軽くお辞儀をして返す。
そこで、向こうから一連の様子が見えていたことに気づき、途端に恥ずかしくなった。
赤く染まった頬の色が見えませんように、と祈ってもう一度お辞儀を。
今度こそと窓を閉めるために頭を引っ込めようとして、ふと……目が合った。

視線が、彼から離れない。

なるべく、そう、なるべく自然に私はどうにかしようと思う。
でもなかなか動けなくて、ほんの一瞬のことなのに、酷く長く感じた。
笑みでいようとしても、どうしても、苦い笑いになってしまう。
心臓がばくばく言って止まらなくて、今にも倒れそうなくらい緊張して。

私のぎこちない笑みに、返ってきたのは優しい微笑みだった。
だけどそれはほんの僅かなことで、私も、彼も、ぴたりと合った視線を解いて互いの空間に戻っていく。

そっと窓を閉めた。
秋の冷たい空気は途切れ、図書室の中にはその名残だけがある。
ゆっくりと私は俯いた。椅子に軽く寄り掛かり、目を閉じる。まだ収まらない鼓動を静めるために。

「ああ……」

―――― なんてうれしいんだろう。
彼は私に笑いかけてくれた。それが、何よりも幸せなことだった。

深呼吸。一分くらい続けて、ようやく心臓の高鳴りは潜まる。
それでも頬の熱は抜けない。そして、さっき見た彼の表情が頭の中でぐるぐるとめぐる。

私に、他ならぬ私に向けられた笑顔。
自分だけにという事実は、とても甘美なものに感じた。

……けれど。
どこか、その甘さは苦味も含んでいて。
出所もわからない切なさが、私の心を満たしている。


結局、気持ちの整理を終えて図書室を後にしたのは、それから五分ほど経ってからだった。



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