帰り道。空は茜色。
雲が光を反射していて、眩しい。

行く先の地平線を眺めながら、私はゆっくりと歩く。
走るのは好きじゃない。焦ると大抵転んでしまうから。
一歩一歩を確実に、踏みしめるように。
時々足下を見つつ、ペースを出来る限り変えずに。


目前には、彼がいる。
すらりとした、どこかスポーツマンらしい後ろ姿。
格好良い、ともう何度目か知らない感想を抱き、少しだけ顔が赤くなった。

……でも、本当。
惚れた弱みか贔屓目なのかもしれないけど、彼は素敵だ。
私は心からそう思う。彼の素敵なところもたくさん知っている。
他の人よりも、たくさん、いっぱい、その姿を見ていたんだから。

何気ないいつもの下校風景のように。
心中でぐるぐると渦巻いている感情なんて素知らぬふりで、私は歩き続ける。
20mほど先の、彼の背中を目でしっかりと追いながら。

この距離をずっと保つために、歩幅と速度を秒刻みで意識する。
絶対に近づくことがあってはならない。気づかれたら、お終いだ。
かといって離れてしまうと、見失ってしまうかもしれない。
もう、何度も通った道だから彼の向かう場所も頭に入っているけれど。
それでも、ほんの一瞬でさえ、その背を追い続ける時間が途切れてほしくはない。

「はぁ……」

溜め息が漏れる。勿論、誰も聞いていない。
私は一人で歩いていて、その先に同じ学校の生徒が歩いている、ただそれだけのこと。

彼とは他人という間柄で。
関わりなんてどこにもなくて。

……例えば、ここで私が一歩を踏み出して。
声を掛けて話をしたら、何かが変わるのかも、と思う。
それがきっかけになるのかもしれない。始まりのきっかけに。

でも私に、そんな勇気はないから。
この足は速めない。これ以上、急いでは歩かない。


前には彼がいた。テニスラケットを背負った後ろ姿。
そして隣には、小さな……少女と呼べるような、彼の幼馴染が並んでいた。










彼の姿を目で追うようになってからしばらくして。
私は、ある存在に気づいた。それが彼女。

小さくて、たぶん中学校の頃の私よりも背が低く見える。
ちょこちょこと皆に合わせて歩く様子とかは可愛くて、一人っ子だけど妹に対するような気持ちを抱いた。
何かの教科書を持ちながら、慌てて走っていく。そんな背中を目にしたのが初めて。
その時は彼は隣にいなくて、だから何ていうこともなく、ただ、あんなに急いで転ばないかなぁ、と思った覚えがある。

すぐに忘れた。
だって、一度しか見たことのない人なんて、普通そんなに印象強くないものだ。
頭の中の端っこには残っていたかもしれないけど、その頃の私はそれどころじゃなかったから。
彼をもっと知ろうって、それだけに必死だったから。

傍にいれば耳を傾けた。
遠くにいればその背を眺めていた。
どんな仕草も、表情も、絶対見逃さないようにって思いながら、彼を学校で探し続けた。


そして―――― その姿を追っていく度に、あの女の子の姿を多く見るようになった。


いつだって隣にいて。
服の端を掴んで引っ張っていたり、彼の言葉にむくれて怒っていたり。
何だかとても……そう、とても仲良さそうに感じた。

親しげな様子は私を傷つけた。
それは嫉妬に似た感情だったのかもしれない。
私はそこにいないのに、どうしてあなたは、と。

気づけば、彼と一緒に彼女のことも目で追うようになった。
だいたい一緒に行動しているのをまず知り、次に彼が名前で呼んでいるのを聞いた。

稚紗。
彼女の名前は、容姿と同じで可愛らしい響きをしていた。

何かもう、そこで負けている気がして。
別に、自分の名前が嫌いなわけじゃないけれど。
誇れるほどに好きだってわけでもない。
胸を張れるようなものを、私は何も持っていないから。

草歌。そんな、両親が付けてくれた名前。
未だに由来は知らないけど、その名に願われたような生き方ができているとは思えない。

私は自分のことが嫌いで。全然好きになれなくて。
なら彼女はどうなのか。私と、同じ気持ちを知っているんだろうか。

……きっと知らない。
だって彼女は、彼の隣で笑っていた。
時々嫌な顔をしながら、困ったようにしながら、でも最後には笑っていた。
それがどうしようもなく、彼女には似合っていて。
見れば見るほど、彼の隣というポジションが、自然に思えてくる。

羨ましくて、悔しくて。
でも私は、相変わらず声のひとつも掛けられずにいる。

自分がいったい何をしたいのか。どう思っているのか。
だんだん、わからなくなってきた。


好きだっていうその気持ちは間違いないけど。
……気持ち自体に、私は胸を張れるのだろうか、って。










声は聞こえない。少し離れたここまでは届かない。
だから私にわかるのは、二人の表情。そして仕草だけ。

彼女の歩幅はとても小さくて。
さり気なく、それとなく、彼は彼女に合わせようとしていた。
だけど、彼女も気づいていないわけじゃない。
ほんのちょっと、こちらもそれとなく、歩く早さを上げている。

前に話を耳にした限りでは、彼女は彼の幼馴染らしい。
随分昔から、二人は一緒にいるんだろう。
普通は気づかないところ、気の回らないところにまで配慮できるのも、過ごした時間があるからだ。

それは、私にはもう絶対に積み上げられない貴重なもの。
埋められない距離が、立ち位置の違いが、彼女と私の間にはある。

彼女は彼の幼馴染で。私はただの他人でしかなくて。
そのままそれが、この距離の意味を物語っている。

「ああ…………」

楽しそうな笑顔が、遠い。こんなにも遠い。
何を話してるんだろう。何を思ってるんだろう。

薄く漏れた声も私は気にせず、なるべく自然な風を装って、視線を向け続ける。
心地良くもない、どこか無機質で、悲しくて、残酷な十数歩の遠さ。

―――― 私は、こんな短い隙間すら詰められない。

少し足を速めて。ゆっくりと追いついて。そうしたら話せるわけでもない。
あの二人は、完結しているから。
二人の世界を持っているから。
誰かが入る隙なんて、きっと、どこにもない。

今は。
少なくとも、今は。
離れた場所から、背中を眺めているしかできないのだ。


そうして、曲がり角に差し掛かって。
私は左。二人は右。分かれていく道の真中で、俯きがちに、遠ざかっていくふたつの影を見送った。

最後までその横顔は笑みだったように、思う。



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