授業は三時に終わって、時々面倒事を請け負って、そうなると帰りは四時頃になってしまう。
家には戻らず、向かうのは約束の場所。子猫がいたところ。

優都は待つ。
きっといつか来るんだろうと信じて。
夕陽が地平線の彼方に消えて、夜が降りてくるまでずっと。

両親には適当に言ってある。
そのおかげか、普段より遅い帰りの優都を心配せずに迎えてくれた。

日によっては買い物も頼まれるから、その場合はもっと遅くなる。
頼りなさげに白い光の灯る道を歩きながら、今日も来なかったな、と一人呟くのだ。

……灯子は来なかった。次の日も、また次の日も来なかった。
だから優都はただ立ち尽くして、夜が訪れるまでそこにいる。

寝る前にはどうして来ないんだろうか、と思い考える。
しかし、答えが出ることはない。何かを閃いても、それが納得できるものであるかと言えば、程遠かったりして。
それもそうだ、優都はまるで彼女のことを知らない。
結局、将来の夢の話もあまり深くできなかった。
次に会った時はもっと言えることがあるのに、と淡い後悔の念を抱く。

もう一度、はないのかもしれない。
理由は未だわからないが、事実彼女は来なくて。
その理由が何であれ、原因がなくならない限りは、おそらくこのままなのだろうから。

「…………なんかもやもやするなぁ」

もし自分が手伝うことでどうにかできるのなら、会うことが前提で。
でも会えないのだからそれ以前の問題。どうにもできない。
微妙な遠さが、どこかもどかしかった。

「信じることはできた、か」

それは、子猫が消えた日、優都が灯子に向けた言葉。
何もできなかったのではなく、幸せを願うことはできていたんだと。

持続するのはとても難しい。
どんな現実も、どんな感情も、時間と共に風化していってしまうものだ。
徐々に薄れて溶けていって、やがて完全に失くなっていく。

……例えば、そう、将来の夢とか。

叶わないまま十年経って、二十年経って、三十年経って、そこまで生きてまだ手放さずにいられるのか。
絶対大丈夫だ、なんて言えるほどの自信はない。
実現したいという気持ちは嘘ではない、だが、実現できるかどうかは話が別だ。

信じるだけは簡単で、信じ続けることこそが難しい。
大切なのは何かをする決意と、何かをしようとする行動。

「……あ、そっか」

そこまで考えて、優都は気づいた。
迷うことはない。何かをすればいい、自分にできることを精一杯すればいいんだ、と。

どんなに悩もうとも、不安に思おうとも、結局はそんなものなのかもしれない。
ちっぽけなことしかできないのだとしても、何もできないわけではないのだから。


安心して眠った優都の胸の中に、さっきまであったもどかしさはもう消えていた。










曇り空。今の気分と同じような、灰色の空。
ずっと向こうまで青は覆い隠されていて、僅かに、薄く光が透けている。

雲はあまり厚くないらしい。
雨は降らないと天気予報でも言っていた。
念のため折り畳み傘を鞄に入れておいたけど、この様子なら使うことはなさそうだ。

どうでもいい連絡を終え、形ばかりの号令がかかる。
起立、気をつけ、礼。灯子は小さく「ありがとうございました」と呟き、机の横に掛けておいた鞄を手にした。

「対馬さん、さようなら」
「また明日ね対馬さんー」
「はい、さようなら」

静かに微笑み、駆け足で去っていくクラスメイトを見送る。
あの二人はいつも揃って急いでいて、何か大事な用事が毎日あるんだろうか、と思う。
それを訊くのは何だか恥ずかしい気がするから、未だに灯子は疑問を向けられなかった。

一歩引いているのかもしれない。
クラスの中でも、特によく話す二人でさえ、家に行ったこともなく、自宅に案内したこともない。
周り以上に自分が境界線を作っているのかも、と軽く自嘲した。

他人から距離を取って、大切だと言えるものは何ひとつ残らなくて。
きっと、からっぽな中学校生活になるのだろう。

それでもよかった。
続くものがなくても。

まだ教室で会話を続ける生徒を背に、教室を後にした。
廊下をゆっくりと歩き、階段を下りる。二年は三階。一年は四階だから、去年に比べると移動が楽になった。
一階に着き、少し行けば下駄箱だ。そこで上履きを仕舞い、靴を履き替えて外へ。

校庭では部活動の真っ最中。
陸上部がグラウンドを駆け回り、今日は体育館を使えないバスケ部が準備運動をしている。
少し遠い掛け声をバックに帰宅する、まばらな数の生徒。灯子もその一人だ。

ふと、意味もなく振り返った。
視界に校舎の姿が映る。ところどころが汚れていて、見るからに年季の入ったような建物。
そこは自分の居場所というには程遠い気がする。疎外感すら感じるようで。

視線を逸らす。
再び歩き始めた彼女は、俯き気味だった。
校門を過ぎ、そのまま真っ直ぐ行こうとして、

「あ、いた。対馬さん」
「え…………桜葉さん……どうしてここに?」

優都が、校門に寄り掛かり立っていた。
にっこりと笑みを見せながら近づいてくる。
それが灯子には、責めているように思えた。彼の口から否定を意味する言葉を聞くのが怖かった。

後退する。右足が僅かに後ろへ。
身構えているのにも近い彼女の目には、怯えを含む色があった。

そんな相手の様子を見て、優都は苦笑する。
人差し指で頭を軽く掻き、どうしたものかな、と小さく呟いてからさらに一歩を。

ぱっと灯子は背を向けた。
走り出そうとする姿に優都は気づき、

「待って」

動きかけた手を取った。
一瞬抵抗があったが、すぐ力が抜ける。
できる限り優しく自分の方へ向かせると、泣きそうな顔を彼女はしていた。

「……あー、えっと」
「………………」
「何で来なかったのかって、訊いていいのかな?」
「………………」
「……喋りたくない?」

ふるふると。
その言葉に、微かに反応が返ってきた。
喋りたくないわけではない、という否定の首振り。

「そっか。……ここじゃあれだろうから、場所移そうか」
「……はい」

少し強引かな、と思いつつ、優都は灯子の手を引く。
ただ彼女は、為すがままに導かれていた。










喫茶店とか気の利いたところに連れて来れれば良かったのかもしれないが、でも、そこが一番だと思った。
優都が目指したのは公園。二人がここで会おうと決めた場所。

ベンチに灯子を座らせ、それから隣に並んで座る。
校門前で顔を合わせた時から始終俯いたまま。
目を見ようとしても微妙に視線を逸らされてしまって、何か悪いことしただろうか、と優都は本気で後悔し始め、

「…………あの」

そこで灯子が口を開いた。
低いトーン。今までの彼女と比べても、暗い。

「なに?」

対する優都も真剣な表情で向き合う。
視線は強く。その真っ直ぐさが自分には似合わないように感じて、灯子はやはり彼を直視できなかった。
だから、膝に乗せた自らの両手を見て。少しだけ、勇気を搾り出して。

「……私のこと、どう、思っていますか?」

踏み出した。
もう言葉は返らない。
後は彼の答えを待つのみだ。
それが、どんなものであろうとも。

「ど、どう思ってる、って?」
「……そのままの意味です」

優都はかなり困惑した。
何を求められているかわからなくて、どう答えたものか、と思う。

しかし、彼女の表情があまりに思い詰めていたので。
心にあることを、単純に、飾らずに、そして隠さずに言おうと決めた。

「初めて会った時には、わからないことも多かったけど……でも、最初に話をした時感じた気持ちは、今でも変わらない。 君は強くて、そして、自分の弱さも知っている。そんな、素敵な人だよ」

そして、

「出会った頃は興味本位な部分が大きかったよ。君の優しさがどこか新鮮で、 だからもっと見ていたいと思った。その気持ちも、変わってない。ただ、他の気持ちが変わったんだ」
「他の、気持ち?」
「そう。途中からね、興味があるから、っていう理由じゃなくなった。 何てことのない話を……将来の夢とか、昨日の夕御飯とか、好きな物語とか。 そういう話を、ずっと、できたらいいな、って」

見守るのではなく。
諭すのでもなく。
前に立つよりも、隣に並んで歩くことを望むようになって。

「だから……えっと……何ていうか、うん、嫌いじゃない。嫌いじゃないんだ」

それきり優都の言葉は切れ。
気まずいような沈黙が続く。

夕方近い公園には二人の他に誰もいない。
風もなく、静寂がいつも以上に身に染みた。
未だ俯く灯子を見て、あと何か言えることは、と思いを巡らせ始めた優都に、

「……わたし、ばかみたいです」

呟きながら、灯子は涙を流した。
目を閉じても溢れてくる。ぽろぽろぽろぽろ、ぎゅっと握った手の甲に落ちていく。

……だって、悩んでたことが本当に馬鹿みたいで。
心配事も、変わってしまうことに対する恐れも、それは全部杞憂で。
勝手に逃げて、避けていたのは自分だけだったのだから。

心の中に広がるのは、安心の思い。
よかった、と。嫌われてなくて、疎まれてなくて、認められていて、よかった、と。

「え、わ、どうしたの!?」
「ち、違うんです、悲しいんじゃなくて……っ」

こんな時どう接すればいいのかわからない優都は酷く戸惑い慌てる。
その末に、散々考えて、涙に濡れた彼女の両手の上に、そっと自分の手を重ねた。

ぬくもりで安心できるように。
信頼を示すように。

……きっとそれは、彼にできる精一杯の誠意なのだろう。
少なくとも灯子には嫌だと感じなかった。
重ねた手は、彼の優しさから来る行為だとわかったから。

だから、言葉の代わりに微笑んだ。
まだ濡れた赤い目で、静かに。
そうして、彼の手の上に自分の手を置く。
両手で挟んで包む形だ。

「しばらく、こうしてて、いいですか」

優都が頷くより早く、灯子はさらに強く握った。
横で苦笑する声が聞こえたが、気にはせず。










「怖かったんですよ。心の中で疎まれたり、鬱陶しがられたりしてないか、って」
「あはは、そりゃないよ」
「……笑うなんて酷いです」

正直に心中を打ち明けたが、優都は苦笑にも近い笑みを見せる。
灯子はちょっと傷ついた。

「いや、だけどさ。疑心暗鬼になったってしょうがないし」
「でも……不安です。やっぱり」
「そういう時は、ちゃんと訊くんだ。そしたら、少なくとも僕は、確かな答えを返すから」
「訊くのが難しいんですよ……」
「だったらちょっとずつ頑張らないと。言わなきゃ伝わらない、ってね」

だから、と続け、

「これから、やってこう? 僕じゃだめかな?」
――――――
「…………えっと、黙られるとすっごく怖いんだけど」

その日灯子は初めて困った顔の優都を見た。
お返しとばかりに苦笑。さらに困らせてみようか、と思う。

「それは、告白と取っていいんですか?」
「え…………あ。あ、う、その、えと……」

自分で恥ずかしいことを言うのは平気な癖に、言われると駄目らしい。
可愛い彼の一面を、またひとつ灯子は知った。
冗談ですよ、と一度軽くフォローして、


「……これから、よろしくお願いします」


色々なことを、この先も知っていけるように。
再び、微笑みと共に彼女は隣の手を取った。



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