「付き合わせちゃって悪いね」 「いえ、好きで手伝ってますから気にしないでください」 「そう言ってもらえると嬉しいものだね。うん」 六月の日曜日。 二人はスーパーの買い物袋を持って歩いていた。 だが、明らかに優都の方が荷の量が多い。 灯子はどうしても優都が持てない物だけを右手に、ゆっくりと行く。 野菜各種、調味料少々、さらに米2kgまでを抱える優都の歩みは普段の半分ほどの速度だ。 月に一度の食料調達。運悪くというか、今日は両親の帰りが遅く買いに行けるのは優都しかいなかった。 実は息子より食べる母親がいるのに、少し理不尽だとも思う。 ちなみに父親の胃袋は並である。食欲に関しては、優都は父親譲りだった。 しかしあの歳になっても全く太らない母の特質も受け継いでいるので、喜んでいいのかどうなんだかわからなかったりもする。 無論、すぐ腹が出てしまう体質の人間よりはいいのだろうが。 「……桜葉さん、本当に大丈夫ですか? もう少し、私、持ちましょうか?」 「いいっていいって。気遣いは有り難いけど、僕自身の厄介事だしね」 それに、ここで折れたら男のプライドが云々。 明日筋肉痛が訪れるとわかっていても、譲れないことはあるのだ。 だが、いくら頑張っても無理なものは無理でもあって。 徐々に優都の肩は下がっていく。一歩進む度に、両の腕に掛かるずしりとした重さ。 「……腕、ぷるぷるしてますよ?」 「だ、大丈夫だって。もう、対馬さんは心配性だなぁ」 言葉とは逆に顔が笑っていない。 頬辺りが少しぴくぴく痙攣しているのを見て、灯子は苦笑した。 ……これは、気遣いなんでしょうか。 確かに、この買い物は優都自身の厄介事だ。 だが、それに付き合うと言ったのは灯子であり。 こうして彼が持ちきれない分の荷物を持っているのも、隣を歩いているのも、彼女が進んでしていることである。 妙なところは押しが強くて。 変なところで我慢をしてて。 優都にはそういう部分があった。 良くも悪くも、彼の性格。 そうそう変わるものでもないし、変えた方がいいとも思わない。 だったら、 「……対馬さん?」 空いている左手で、優都の右手を取った。 持ち上げる力を加えれば、肩に掛かるのは半分の重量だ。 「こうすれば軽くなりますよ」 「…………ありがとう」 彼女にしては随分と積極的な行動。見れば頬が赤い。 優都は僅かに戸惑い、それから微笑を返した。 ささやかなその気遣いに、感謝して。 家までの道、並んだ影が歩いてく。 別に通る必要もないのだが、何となく、あの道まで来た。 若干遠回りだ。しかし大通りより人の流れが少なく、二人で荷物を抱える姿を奇異の目で見られることもない。 それに、繋がった手はあたたかくて、不謹慎ながらちょっとでも長い時間歩いていたい、と優都は思っていた。 支えのない左肩が沈むように重いがこの際意識の隅に置いといて。 さして長くもない直線。 ゆっくりと、形のない何かを確かめながら、進む。 「対馬さん、重くない?」 「平気です。桜葉さんこそ」 「勿論僕は大丈夫……ってさっき言ってこうなったんだよね」 苦笑。 本当に、他人を頼るのは難しいな、と。 一種劣勢な空気を誤魔化すかのように遠くへ視線を映す。そこには、 「………………あ、猫」 彼の言葉通り、離れたところの塀に猫がいた。 子猫と呼べる大きさだ。毛並は濃い灰色とこげ茶の斑模様。 それはどこかで見たような特徴で、 「…………桜葉さんっ」 「……あの時の」 五月の空の下、ダンボールの中で毛布に包まれていた幼い姿と一致した。 子猫の首周りには、飼い猫であることを示す首輪が付いている。 最後に見た時はなかったものだ。 付けられた首輪が意味すること。無事にそこにいるのが意味すること。 「……飼い主、見つかったんですね」 見れば通りの向こう側から走ってくる人影がある。 短い影。小学生くらいの女の子。どうやら逃げた子猫を連れ戻しに来たらしい。 「ぽちー、ほら、おうちかえるよー」 声に猫は応え、一鳴きしてから少女の後ろを追っていく。 楽しそうに話す少女の横で、さして関心もなさそうな表情をして去っていった。 「……猫にポチって、なんというか」 「可笑しいですね」 一人と一匹の背中を見送りながら、灯子はくすくすと笑った。 その目には僅かに涙が浮かんでいて、薄く頬を伝っている。 ……嬉しかったんだね、対馬さん。 優都は自分の心がとても穏やかになっていくのを感じた。 挙げるとすればたったひとつ、二人の間にあったわだかまりが消えたのだから。 「桜葉さん」 「なに?」 瞳に溜まった涙を拭ってから、灯子は言う。 「あの子に……あの子猫に出会わなかったら、今はないんですよね」 「そうだね。僕が対馬さんを見つけることも、声を掛けることもなかったと思う。猫が、僕達を結んだんだ」 「……そうだと嬉しいです。なんだか、」 ―――― ちっぽけな奇跡みたいで。 微笑む彼女の声には、確かな幸せの色が混ざっていた。 佳那と、霞さんと、私と。 三人揃って来た場所は、あの人の墓。 年に一度の墓参り、今年は一人付き合いが増えた。 そして報告することも。残す言葉も。 桶の中の水を墓石に掛け、汚れを丁寧に落とす。 それから備え付けの花瓶に花を挿し、桜葉亭で作った焼き立てのパンを置く。 まずは黙祷。 五秒ほどの間、ただ祈る。安らかでありますように、と。 続けて報告だ。去年より少し長くなる。 「……色々なことが、ありました」 日々のこと。彼の残した桜葉亭のこと。 佳那のこと。私達を取り巻く人々のこと。 あとは―――― 「家族が一人、増えました。朝藤霞さんです」 霞さんが挨拶。 傍から見ればかなり不思議な光景かもしれない。 でも、これは一年毎の行事みたいなもので。 とてもとても大事な"区切り"なのだ。 「……今日、ひとつ、言わなくちゃいけない大切なことがあります」 たくさんのことを語り、最後、一番重要な報告を残すだけとなった。 私の右手を佳那が、左手を霞さんが握ってくれる。 両の手指に伝わるぬくもりを確かめるようにぎゅっと握り返し、 「私は、霞さんと、結婚します」 言った。 同時に、心の中に沈んでいた想いが、収まるべきところに戻っていくのを感じた。 もう記憶は私を完全に縛らない。 彼も……優都さんも、思い出を引きずって生きていくことを望んでいないだろう。 勝手な考えかもしれないが、きっと彼は、再婚することを反対しなかったと思う。 「幸せになることが一番だからね」と、微笑みながら言うに違いない。 ―――― ほら。 思い出す彼の仕草も、癖も、声も、性格も、意思も、変わらずここにあって。 全ては残ったまま、私を前に進ませてくれるはず。 「……霞さん、佳那、帰りましょう」 「もう…………いいんですか?」 「はい。言うべきことは、全部言いましたから」 繋いだ手を軽く引いて、来た道を戻る。 少し歩いたところで、佳那が立ち止まった。 「……ねぇ、お母さん。お父さんは、お母さんのその笑顔を見て生きてたんだよね」 この瞬間。 私は笑顔でいた。 可笑しいからじゃなく、嬉しいからでもなく、ただ自然に微笑んでいられた。 あの日々と同じように。 あの頃とは違う世界で。 「ええ、そうよ。私は今みたいに幸せだったから」 返した答えは確かな言葉。 胸を張って、自信を持って言えること。 「……そういえばまだ、籍入れてませんね」 「一緒に暮らしてるだけで僕は十分嬉しいですけど」 「いえ、こういうのはけじめですから」 「じゃあ……いつにします?」 帰り道、ふと出たそんな話題。 霞の疑問に灯子は少しだけ考えて、 「…………六月がいいです」 思い出はこれからも繋がり続ける。 ちっぽけな、そして素敵な奇跡と共に。 back|index |