その日、灯子は来なかった。 同じ場所で、同じ時間に待ち始めたのに、いつまで経っても姿が現れない。 でもそういうこともあるだろう、と思って、さらに待つ時間を重ねた。 十分。 二十分。 三十分。 一向に来る様子はない。 おかしいな、と疑問を感じる。 優都が知っている限り、彼女の性格を考えればここまで遅れることは有り得ないはずだ。 きっちりしていて、とても時間にルーズなようには見えないのだから。 一時間。 二時間。 五時を過ぎた。 夕陽が空を巡っている。 もしかして何かあったのかもしれない、そんな心配が優都の中に湧いてきた。 しかし、連絡する手段を知らない。相手の家の場所はおろか、電話番号、交通経路さえわからないのだ。 どうしようもないことを優都は理解し、小さな溜め息を吐いた。 もう夜が近い。これ以上待つのに、意味はあるのだろうか。 「………………はぁ」 沈んだ気分で、家路についた。 ひとりきりの静かな時間は、味気なかった。 中学校には、合唱コンクールという行事がある。 年に一度、秋の頃に、クラス対抗で文字通り合唱をするのだ。 課題曲とクラス毎に選んだ自由曲、そのふたつの出来を競う。 主旋律を奏でるピアノの演奏も、曲全体のリズムや調子を司る指揮も、全ては生徒の手で行われる。 教師も激励の言葉くらいは掛けるものの、基本的には"生徒中心の行事"だった。 必要なのは、一致団結すること。 ソプラノ、アルト、テノール、バス、それら男女の旋律が奏でるハーモニー。 音やリズムを外さないのは勿論、声の強弱や歌詞に基づく感情の込め方、そして何より努力そのものが大事になる。 本番で良い結果を出すためには練習が欠かせない。 それこそできる限りの時間を使って、休み時間すら削って、何度も合わせて通す必要がある。 音楽室や体育館にあるピアノを借りられる機会は少なく、大半がカセットテープでの練習になるのだから、尚更だ。 まだ灯子が一学年だった時、小学校の音楽会とは違う、初めての合唱コンクールを体験した。 ピアノは弾けず、また指揮者にもならなかったが、彼女はそのひたむきさから、いつの間にかクラスの中心に立っていた。 熱中していたわけではない。 ただ、やるからには真剣にやりたかった。 頑張って、頑張った結果を出したかった。 しかし、一人では無意味であることも知っている。 合唱は個人でするものではなく、彼女だけではどうにもならない。 設けられた期間は、長いようでとても短い。 それこそ必死に練習を始めるのは、本番の一ヶ月前からだ。 どれだけその少ない時間で洗練されたものを作れるか。 全ては生徒の努力次第。何もしなければ、まともな結果すら出せはしない。 だから呼びかけた。 みんなで一緒に頑張ろうと。 彼女は、誰かの先頭に立つような人間ではないのに。 なのに、届かない。 彼女の力が足りなかったわけではない。 ただ、当たり前のように、さして罪悪感も持たず、努力を放棄しようとする人間がいるだけのこと。 それでも彼女は呼びかけた。 投げ出すのは嫌で。中途半端は嫌で。 いつの間にか任されていたこの立場を、できる限り全うしようとして。 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの視線を向ける者がいた。 どうしてそんなことを言われなくちゃいけないの、と反発する者がいた。 一緒に頑張ろう、と優しく持ち上げてくれる者もいた。 クラスは噛み合わず、真面目にできる練習も少なく、個人差が表れ始める。 練習量による差だ。当然の結果だった。 ―――― そして彼女は決断した。 残り時間も僅か、切羽詰まった状況。 クラスメイトが集まる前で、教師もいる中で、ひとつのことを放棄した。 「やりたくない人は帰ってください。どうでもいいと思うなら今すぐ帰ってください」 懸命に頑張っている人は、決して少数ではない。 そういう人の努力を無碍にしてほしくはない、と。 嫌なら止めて、だからせめて邪魔をするなという意思を、はっきり口にした。 もうこの曖昧な空気に耐えられなかったから。どっちつかずで進めたくはなかったから。 対馬灯子は何かをしようとした。 自分には何かができるんだと、信じて疑わなかった。 その数日後、合唱コンクール本番。 彼女達のクラスは、全四クラス中四番。最下位だった。 しょうがないね、と半ば諦めの表情で語る者がいた。 面倒事がようやく終わったと喜ぶ者がいた。 悔しさで涙を流す者がいた。 彼女はそのどれでもなく、ただ、俯くだけでいた。 酷い現実に。当然の結果に。自らが導いて辿り着いたゴールに絶望して。 灯子の力を、言葉を、そして意思を、本当に認める誰かはそこにいなかった。 それから半年ほどが経ち、灯子は何ら差し障りのない日々を送っている。 クラスメイトと雑談を交わし、授業中は真面目にノートを取り、体育の時間には運動神経の良さから頼りにされる。 凛としてさえいる芯の通った強さ。まるで嘘をつかない誠実さ。 教師からも、生徒からも、決して悪くは見られていない。 だが、灯子と他のクラスメイトの間には、確かな線がある。 昨年同じクラスだった者、人伝に話を聞いた者、彼らは彼女を恐れてもいた。疎んでもいた。 ―――― 結局、彼女の居場所は学校になかったのだ。 あの時の言葉は、冗談でもなく、我慢の限界から来たものでもない。 本気で。一番正しいことなんだと思って、言ったのに。 それは、彼女の決断が招いた、ただひとつの大きな失敗。 もう行けない。 心の中でそう呟き、灯子は布団に入る。 電気を消した暗い部屋はとても静かで、自分の息遣いがよく聞こえた。 押入れから引っ張り出したばかりの布団は微妙にあたたかい。 春の陽気は六月が近くなってもほんの少し残っていて、部屋の気温も決して寒いものではなかった。 寝苦しくはない環境。 でも、何となく眠れなくて、だからぼんやりと閉め切った窓越しに遠くを眺める。 星が瞬く夜空と、薄く掛かる雲が綺麗だった。 ふと考える。 今日、彼は待っていたんだろうかと。 来るはずのない自分を、来るんだと信じて、ずっと待っていたんだろうかと。 罪悪感が湧く。強く湧く。 ごめんなさい、と小さく本心からの言葉を口にした。 だが、その言葉は優都に届くはずもなく。 本人の前で謝る機会も、もうないだろうと思う。 ……もう行けない。 会いたくなかった。 何故だかわからないけど、怖くて。怖くなって。 もう一度顔を合わせたら、言葉を交わしたら、何かが変わってしまうような気がして。 それは矛盾した思いだ。 避ければ逆に、相手は不審がるものなのだから。 でも、それでも灯子は、優都に会うことが怖かった。 疎ましく思われているのかもしれない。 専ら聞くだけの自分を、つまらなく思っているのかもしれない。 彼はそんなことを考えないと、わかっているのに。 どんどん不安な気持ちが溢れてくる。 これ以上嫌われたり、避けられたり、鬱陶しがられたりするのは。 頑張っても報われず、選んだ道は否定され、その結果絶望するのは、もう嫌だった。 まだ眠くはないけれど、布団に潜った。 物音ひとつしない、本当に静かな夜。 明日もまた彼は来るんだろうかと、最後にそれだけを思って目を閉じた。 back|next |