「…………今日は早いんですね」 「何そのものすっごく意外そうな表情は」 「気のせいですよ」 「笑いながら弁解しても説得力ないよ……」 公園の真ん中に立つ時計の下、二人は会話をしていた。 少なくとも、初対面の相手に感じる堅苦しさはそこにはない。 昨日まで子猫がいたあの小道からちょっと離れた場所だ。 歩いて五分くらいで着く。広いところで、人の通りもそれなりに多い。 もしここにあの猫を連れてくれば、飼い主も見つかっただろうか、と優都は思った。 「……どうしました?」 「いや、ここなら、飼い主も見つかったかなぁ、って」 「……そうかもしれませんね。一人くらいは、いたかもしれませんね」 僅か苦々しそうで、けれどどこか吹っ切れたような表情。 薄い笑顔交じりの言葉に、危うさはどこにもなかった。 それは、信じられるからだろうか。 きっと幸せになっているんだと。素敵な飼い主に拾われて、安らかな日々を送っているんだと。 確信なんてどこにもない。二人に子猫の行方を知る術はない。 だから、たったひとつできることを、精一杯やっていた。 彼らの言葉は決して後ろ向きなものではなく、そうだったらいい、というだけのもの。 「ベンチ座る?」 「あ、はい」 導くように手をベンチの方へと差し出す。 灯子が座るのを確認してから、優都は隣に並んだ。 二人とも前を向いて、見つめ合うことも手を繋ぐこともしない。 ただ、何てことのない話を望んでいた。 まるで、昨日までと同じように。 二人を繋ぐものは、拾われていない子猫だけだった。 その子猫がいなくなってしまえば、二人がこれ以上出会う意味もない。 それなのに、どうして別れることが惜しいと感じたのだろうか。 たった数日の付き合いの中で、相手について知っている事実はとても少ない。 名前と、年齢と、通っている学校と、あとは些細な情報だけだ。 ほとんど何も知らないと言ってもいい。 互いの距離はまだ遠く、共通の話題も、性格の把握も、全く出来はしないのだから。 優都が、普段は通らない道で、偶然捨て猫を見つけたこと。 幼い背中に、気になって声を掛けたこと。 それらは全て意図してのものではなく、言うなれば気まぐれの産物だ。 しかし、ひとつの約束を交わしたこと。 名前を伝え、伝えられたこと。 自分の答えを教えたこと。 それらは誰に言われるでもなく自分で選んだやり方だろう。 そして優都は、その先を見たいと思った。 両者を繋ぐ約束が消えて、そこで終わりにすることを望まず。 何もできないと言った彼女を、けれど見捨てるのは絶対に嫌だと答えた彼女を、もっと知ることができるならと思った。 だから、帰り際、去りかけた影を引き止めて。 また明日会えないだろうか、と訊ねた。 灯子は少し悩んだが、優都が考えていた以上にあっさりと頷いた。 手を振って見送った背中は、恥ずかしそうにちょっとだけ縮こまっていた。 「桜葉さんは、将来何をしたいとか、そういう展望を持ってるんですか?」 今日の朝食から始まり、学校での出来事や家族構成、趣味などの話題を経て、灯子が疑問にしたのは将来の夢だった。 「うん、あるけど……対馬さんは?」 「まだわからないんです」 「そっか。まぁ、そんなすぐに見つかるものじゃないか」 自分こそ小学校時代から変わらず目指しているが、中学生まで続いている夢というのはなかなかないのかもしれない。 そういえば、幼稚園に通っている頃、テレビのヒーローや人間外の動物になりたいと口にする子が多かった。 優都は、父親が昔は漁業者になりたかった、と口にしていたことをふと思い出した。 海の男に憧れを抱いていたらしい。幼少時は食卓に出された魚を丁寧に食べたという。 自作の竹竿で近くの川原に釣りをしに行くのが趣味だったそうで、その名残は今でもある。 暇ができると、夏休みなどによく誘ってくるのだ。 何度か付いていったことがあるが、随分とたくさん釣っていた。 一緒に食べたニジマスの塩焼き、あのしょっぱい美味しさはまだ忘れていない。 でも、現在父の職業は平凡なサラリーマン。 叶わなかった夢の欠片しか、もう残っていない。 「……僕はね、パン屋になりたいんだ。焼きたてのパンを町のみんなに売りたいんだ」 この夢は叶うまで手放さずにいられるだろうか。 優都にはわからない。ただ、できる限り追いかけていたい、そんな気持ちだけは確かだった。 「パン屋、ですか」 「うん。自分の手で一生懸命作ったものを、食べてもらう。それってすっごく嬉しいから」 「それはわかります。私、家事が好きなんです。だから食事とかも任されてて」 ゆっくりと、しかし楽しそうに灯子は話し始めた。 初めて料理をしてみた頃のこと。ご飯は少し水っぽくなり、味噌汁は風味のない薄い味で。 おかずとして作った魚は半分黒焦げ。それでも全部食べてくれた両親のその時の表情を、彼女は強く覚えている。 母親に習いながら、少しずつ腕を上達させていった。 本を借りて、レシピを増やしていく。失敗した数だけ技術は身に付いた。 「今じゃ家庭科の時間はちょっとした人気者なんですよ」 「調理実習で?」 「はい」 「あはは、僕も同じだ」 「そうなんですか?」 「母親がすっごい朝弱くてね。だから朝食はほぼ毎日僕が担当」 妙な共通点。 そんなところが同じだと、二人して笑った。 「高校を卒業したら、専門学校に行こうと思ってるんだ」 「調理関係のですか?」 「そう。そこでいろんなことを習って、それを活かしていつか店を開きたいなぁ、って」 「……素敵な夢ですね」 「あはは……そう言ってもらえると、こう、うん、嬉しいようで恥ずかしいね」 火照った頬を誤魔化すように、優都は空を見上げる。 夕焼けも近い時間の中で、終わりかけの春の、薄く穏やかな大気を感じた。 「……そろそろ陽が落ちるかな」 時計に目をやると、短針が4の文字を過ぎていた。 かれこれ一時間以上話し込んだことになる。 随分長く続いたんだな、と優都は苦笑した。 もっと早く、会話は途切れてしまうかもしれないと予想していたのだから。 「あ、私、帰ったら夕食の買い物しないといけないんです」 「荷物多いなら、手伝おうか?」 「申し出は嬉しいですけど、厚意だけ受け取っておきます」 「うん、わかった」 それから明日も会うことを約束し、別れの挨拶を交わす。 少し急ぎ足で帰っていく姿を見て、何となく、もうちょっとだけここにいようと思った。 今度、料理の本でも持っていってみようか、なんて心に決めながら。 back|next |