大して変わることはないけれど、次の日から二人で子猫を見守る。 お互い授業の終わる時間は違っているので、だいたいどちらかが先に来ていることが多い。 とはいっても、遅れるのはだいたい優都なのだ。面倒事を抱える性質なのかもしれない。 誰かが定期的に餌だけでも与えているのか、痩せてはいても猫が飢えることはなかった。 もう随分と汚れてくすんだ毛布に包まりながら、いつも子猫は眠っている。 時々目覚めてはひょこっと顔を出し、灯子や優都、道行く人を眺めていく。 しかし、ぼろぼろのダンボールから外に出ることはない。 ただぼんやりと―――― まるで、何かを待っているように。 だからだろうか、鳴く声は寂しそうな色を含んでいた。 優都は色々なことを話した。 専ら灯子は聞く側で、あまり自分から何かを言わない。 頷き、苦笑し、時にふとした疑問を向けるくらいだ。 帰りは二人とも早く、陽が落ちる頃には別れの挨拶をする。 少しだけ名残惜しげに振り返って猫を見やる彼女の姿が、優都には妙に印象深かった。 そうして数日が過ぎ。 薄暗い曇り空の中、灯子が先に着いた日のこと。 今日もまだ優都はいなくて、軽く溜め息をついた。 けれど、別に嫌な気はしない。待っている時間も、どことなくではあるが楽しく感じる。 それはあまり感じたことのない、慣れない気持ちだ。 普段、人との関わりが少ない彼女にとっては。 桜葉優都は新鮮だった。初めて見たタイプだった。 ぼんやりしていて、妙に抜けていて、掴みどころがなくて。 なのに変に押しが強い部分もある。最初に話した時もそう。 一方的に自分の名前を残していって、灯子の名を聞く前に帰ってしまった。 思い出すと、ちょっと笑えてすらくる。 傍から見れば馬鹿みたいな、不思議な真っ直ぐさ。 学校じゃ目立たないんだ、と言っていた。 誰に認められるでもなく、誰に認めてほしいのでもなく。 気づかれない所から手を差し伸べている。本当に、そっと。 彼は何かをしているのだ。 子猫の前にいた灯子に、声を掛けたのと同じように。 ごくごく自然な、少し見ただけではわからないような、淡い手助けを。 今日もそうしているのだろうか。 苦笑いでもしながら、誰もが面倒で放ってしまう、そんなことを終わらせているのだろうか。 その光景を想像して……とても彼らしいと思い、灯子はささやかな笑みを漏らした。 ほんの僅かな時間しか優都とは関わっていないのに、"彼らしさ"がどんなものかを知っている。 それは変なことなのか、と。 他にもたくさんの思いを巡らせながら、灯子はあと少しの距離を駆けた。 そして、 昨日まであった段ボール箱が、綺麗さっぱりなくなっていることに気づいた。 「………………え?」 しばし凍りつき、ようやく出た声は擦れ震えていた。 軽い目眩がする。視界が薄らいだ。 認めたくない自分がいる。 この現実を嫌う自分がいる。 一度目を閉じて、深呼吸をして、それから再び目を開いた。 くすんだブロック塀。電柱。細い小道。空の色は淡い青だ。 変わっていない。けれど、ひとつだけ、本当にたったひとつだけ、消えてしまったものがあった。 猫が。 子猫がいない。 親もなく、自ら生きる術も知らず、ただ待つことしかできない幼い子猫が。 どういうことだろう。 どうしてなんだろう。 わからない。わからなくなった。 灯子の胸中に疑問が溢れてくる。なんで、なんで、なんで。 冷静に考えることもできなくなって、こんなに自分が取り乱している理由も忘れて。 そこで優都が現れた。 ―――― 少しばかり、遅い到着だった。 例によって例の如く、面倒事を済ませて来た優都はふたつのことに気付いた。 ひとつは子猫の姿がどこにもないこと。 もうひとつは、先に着いていた灯子が今にも泣き出しそうにしていることだ。 優都はかなり戸惑った。 こんな時、どう声を掛けるべきかがわからない。 先に着いていたのなら、いくらでもフォローのしようがあっただろう。 後から来た灯子に、オブラートに包んだ現実を、ゆっくり咀嚼させることができたはずだ。 だが、実際彼女は最初に見てしまった。 それは剥き出しの現実であり、どうしようもなく揺らがないものだった。 彼女は決して強くない。 普段、その性格―――― 中学生らしからぬ厳しい決断ができるところからは、弱さを窺えないが。 心が冷たいわけでもない。全てを見逃しているわけでもない。 きちんと向き合って、見据えて、その上で多くの決断を下している。 良かれと思って。自分の選択が誰かのためになると思って。 けれど、事ある毎に現実は人を押し潰そうとする。 未熟な心ならば、時に重圧に耐え切れないこともあるだろう。 対馬灯子は、あらゆる現実や責任を受け入れられるほどまだ大人ではないのだ。 どんなに大人びて見えても。経験の少ない心は優都と比べても幼い。 「…………対馬さん」 名を呼ぶと、視線が優都の方を向いた。 瞳が潤んでいる。今にも涙が溢れそうで、しかし懸命に抑えているように見えた。 「……猫が、いないんです」 「うん」 「昨日までいたのに、いないんです」 「うん」 「…………誰かに拾われたんでしょうか」 優都は答えられなかった。 確信を持って頷くことはできないから。 もし、道を通りがかった人が、段ボール箱の中の子猫を見て抱き上げたのなら。 そして家に連れて帰り、いつか捨てることもなく、大切に育てられるとしたら。 それが一番望ましい可能性だ。 だが、可能性はそれだけではない。もっと悲観すべきものもある。 拾って帰った人間が、大事に飼う目的で連れ帰ったのではなかったら。 あるいは……放置されたままという事態を見かねて、保健所の類に引き取られたとしたら。 動物管理センターに送られた犬猫はやがて人のために殺される。 愛玩動物としての価値すら見出されなくなった彼らは、どこにも必要とされていないのだ。 精々実験の対象として使われるくらいで、それも生きたままではできないようなもの。 少なくとも、そういうやり方があることは事実で、だいたいどこでも同じだと皆知っていた。 捨て犬や捨て猫がそのままにされれば、町は彼らの巣窟になるだろうから。 考えれば考えるほど、思いは暗い方へと向かっていってしまう。 そも、この小道を通る人間はとても少ない。 一時間経って、二人の横を過ぎていくのは多くて五人だ。 大通りからも、近道代わりの裏道からも離れた、中途半端な場所。 だから、誰かに拾われた可能性は、かなり小さい。 そういうのを奇跡って言うんだろうか、と優都は思った。 何も言わない、言えない優都を見て、灯子は深く俯いた。 覚悟はしていたはずなのに。自分が何もしないのなら、できないのなら、いつか別の誰かが何かをするのだと。 子猫をどこかに、自分の知らない場所に連れて行くのだと。わかっていたはずなのに。 無力で、惨めで、そんな自分自身が嫌で、悲しくて、泣きたくなった。 結局のところ、 「……何も、できなかったです」 「対馬さん…………」 優都は口を一度閉じかけ、しかしやめた。 彼女に言うべき言葉があると思ったから。 「ううん、違うよ」 「……え?」 「本当に何もできなかったと思う?」 「…………はい」 問いに灯子は頷く。 「見守ることも?」 さらに頷く。 「……なら、信じることは?」 「……信じること?」 「うん。いつか誰かが、あの子猫を大切に思ってくれる誰かが拾ってくれるように、そして猫が幸せになるように、って」 「………………」 「それもできなかった?」 肯定の頷きは続かなかった。 ただ、俯きながらも過去を思い返す姿がある。 そして、しばらくして顔を上げた灯子の瞳から、泣きそうな色は消えていた。 「どう? 信じること、できてたかな?」 「……はい。私、確かに信じてました。あの子猫が幸せになりますように、って」 今、ここに子猫はいない。 どうなってしまったのかも、もう知ることはできないだろう。 でも、可能性はひとつではないから。 だったら、幸せな道を選び取れたのだと、そう信じる方がいいのではないか。 「……ありがとうございます、桜葉さん」 そう言った彼女は、静かに微笑んでいた。 失ったものがあっても、優しく。 back|next |