リズミカルに野菜を刻みながら、ちらりとテーブルの方を見る。
新聞を広げて読み耽る父の姿があった。

「父さーん、ごめん、ちょっとお皿取ってー」
「ああ、わかった」

紙を畳む音がした後、立ち上がった身体が食器棚からひとつを選んだ。
手渡され、優都は火に掛けていた鍋から味噌汁を掬う。
はい、と父が座っていた席に置き、続けて出来上がった物から並べていった。

桜葉家の朝は大体こんなものだ。
どうしようもないくらい朝に弱い優都の母は、起こしても全く戦力にならないので不可侵が暗黙の了解になっている。
放っておけば勝手に目覚めるし、放っておかないと大変なことになるので実質朝食は二人だけで食べてしまう。
別に料理ができないわけではないので、作り置きをする必要もない。
優都が担当しているのは平日の朝食と自分の弁当だけであり、他は全部母に任せているのだから。

用意ができたら、後は黙々と消化するだけ。
会話はほとんどない。片方が新聞に半ば意識を集中しているのだから仕方ないのだが。

今日も静かに朝が終わった。
一足早く父が出て、それから優都が学校に向かう。
使った皿を洗い、洗濯機を作動させてから。

「いってきます」

声は返ってこない。
そんな自分の境遇を、寂しいことなのかもなぁ、と思いつつ、歩き始めた。










学校という場所では、桜葉優都は平凡な一高校生に過ぎない。
勉強も運動も並。試験では中盤をキープしており、上にも下にも動かない。
体育の時間でも、主立って注目を集めるような場面はなく、自然に溶け込んでいる。

彼よりもっと色々なことができる人間はそれなりに多い。
男子、あるいは女子の間で囁かれている隠れ人気投票の中でだって、彼の順位は下の方だ。
飛び抜けた才能も持たず、際立った見目でもない。

彼の良さは隠れた部分にある。
他人に公言するわけでもなく、胸を張ってしていることでもないが。

それは先日、一人になっても続けていた掃除のような。
誰もがやらない面倒事の片づけのような。
あくまでさり気ない、そして綺麗な心掛け。


「……よいしょ、っと」

丁寧に最後のダンボールを運び終えて、優都は溜め息をついた。
中に入っていたのは紙束だが、動かすにも数を重ねれば結構な労力が必要になる。
そんなに体力も筋力もない方なのに、どうして力仕事ばっかり頻繁にやってるのかなぁ、と少し自分の馬鹿さ加減に苦笑した。

何故か教室の端っこにダンボールが積んであり、気になったので担任に尋ねてみたら運んでくれと頼まれた。
終わってから報告しに行くと、いつもすまんなと謝られる。
いいんですよ、とこれもいつもの返答をして、学校を後にした。

こんな風に優都の帰りはときどき遅くなる。
部活動もしていないのに、下手な文化部より長い時間学校にいるのはどうかとも思いつつ。

見なかったふりをして素通りするのが賢いのだろう。
そうすれば厄介事の類を請け負うこともない。
けれど単純に、性格から彼はそういうものを見逃せないのだ。

誰もやらなければ残り続けてしまう。
面倒だからと放っておくばかりでは、何も解決しない。

だから自分だけは、皆が素通りするような面倒事をどうにかしようと。
ただ漠然と心にその思いを留めている。

それは偽善だと考えることも。
自己満足のための行為かもしれないと卑下することも。
今まで、数え切れないほどしてきた。

無論、そういう側面があるのも否定しない。きっと事実だ。
結果として感謝されたり、褒められたりしたいだけかも、と。

でも、それもまたひとつでしかない。
やっぱり、心のどこかには「どうにかしよう」という意思があるのだ。
周りに流されないような、信念というほど強くはないけれど、こうだと決めた気持ちが。

だから優都はそれに従う。
例え損をしていると言われても。

「……似合わないこと考えてるなぁ」

苦笑した。
どうでもいいようなことを真剣に思い悩む癖は万人が持っているのかな、なんて思いながら。

「さ、行こ」

誰に聞かせるでもなく呟いて、心持ち早足で歩き出す。
彼女はまた長い時間いるのかもしれないのだから。
待たせるのも、何か悪い気がする。だって、会おうと言ったのは自分だ。

結局、ちょっとだけ走った。










待っていたわけではない。
昨日と同じように、習慣にも似た思いで来ているだけだ。

けれど、

「こんにちは」
「……こんにちは」

桜葉優都と名乗ったその人の姿を見つけた時、ほっとしたのはどうしてだろうか。
言葉は絶対でなく、約束をしたのでもないのだから来ない可能性も少なからずあった。
そもそも約束ですらない。もっと一方的な、押しつけにも近いものだったのに。

「まだ猫、いるね」
「はい」
「誰か……ここを通って、この子を眺めて、大切にしてくれればいいのにね」

少女は答えなかった。
ほとんど表情にも出さないが、答えづらいことだった。

僅かに目を背ける様子を見て、優都は微笑む。
正直なんだな、と口には出さず思って、

「……もし、僕の家で猫が飼えるんだとしたら」
「え?」
「そっと抱き上げて、家まで連れていって、それから餌を買ってきてあげることができる」
「………………」
「……そう思うのは偽善なのかなぁ」

もしもの話なんてしてもしょうがないけどね、と付け加えて言葉を切る。
一度優都の方へ振り向き、それから俯いてしまった少女はただ口を結んでいた。

「……ホントは優しくしたい?」
「………………はい」
「でも何もできない?」
「………………はい」
「すごく、辛い?」
「……はい」

どんどん声が沈んでいく。
しかし、薄れて消えることはなかった。
それは暗くても、弱々しくても、確かな返事。

「……うん、君、やっぱり素敵な人だね」

勝手に彼は納得して、嬉しそうに笑う。
どうしてそんなに笑いかけてくるのか、彼女には理由がわからなかった。

私は何もできないのに。

澄んだ目で、可愛らしく見つめてくる子猫の声を聞く度に苦しくなる。
彼が言った通り、そっと抱き上げて、家まで連れていって、ご飯をあげたい。
でもそうしてしまったら、自分に懐いてしまったら、別れが辛くなる。どちらにとってもだ。

だから、ただ見ているだけ。
誰かがこの子をもらってくれるその日まで、見守るだけ。
それしかできない。……本当は、それさえも許されていないかもしれないけれど。
人間が関わらなければ、一人で生きていけるのかもしれないけど、それでも、

「……見捨てるのは、絶対に嫌なんです……っ」

泣きそうな顔と声で少女は言った。
掴んだ裾を強く握って。
それが自分にできる精一杯のことなんだと。

できることならどうにかしたい。
先日聞いたその言葉は、本当に本心からのものだったのだろう。

正直で、繊細で、優しくて、聡明で、そして強い。
歳に似合わない、その気持ちの在り方は綺麗だった。

優都は何も言わず、子猫の前に立ち。
それから少女の方を振り向いて、

「僕もそう思う。だから、一緒に見守ろう。この子がここからいなくなるまで」
「………………」
「……変かな? まだ二回しか会ってない人間にこんなこと言われるのは」
「あ、い、いえ、違うんです。なんか、その……ありがとうございます」

どうしてこんなに押しが強いんだろう、という疑問を彼女は心の中に仕舞った。
代わりに戸惑いを含めた表情で、会釈に近い礼をする。
そんな様子を見て、彼の笑みは深くなった。

はっきりとした答えは求めない。
ただ、明日この場所にまた来た時、彼女が今日のようにいてくれればいいと願う。

「……もう随分時間も経っちゃったし、帰った方がいいよ?」
「……そうですね」

軽く見上げた空は夕方の色になっていた。
薄紫と橙のグラデーション。夜が近い。

「じゃあね。できれば、また明日」

最後に猫を一瞥してから歩き出す背中を見て、

「あ、あの……!」
「え? 何かあった?」
「…………私の名前、知らないですよね?」
「……あーあーあー」

そうだ、知らないんだ、とひとりごとのように呟く姿は妙に滑稽で。
ついくすりと笑みを漏らし、そのまま言葉を続ける。

「対馬灯子です。……また明日、会えるといいですね。桜葉さん」
「……うん、そうだね」

優都は覚えた名を確かめるように頷き、小さく手を振って、

「またね、対馬さん」

今度こそ止まらずに歩いていく彼を見送りながら、本当に、明日会えればいいと、そう思った。



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