購買で手に入れたパンを頬張りながら、校庭の一角で遠くを眺める。
昼休み、それなりな数の生徒はサッカーやらバスケやらの運動に励んでいて、楽しそうにはしゃいでいた。

子供のような戯れ。
そこから離れた場所で、一人黙々と昼食中の優都は微笑ましそうに人々を見る。
加わることはなく、ぼんやりと景色のひとつとして捉えるだけ。
けれど彼は満足そうに、千切ったパンの欠片を口に放り込んでいた。

「……明日は寝坊しないようにしないと」

普段は弁当持参なのだが、今日に限って目覚まし時計を寝惚けて止めてしまった。
優都の母親は極端に朝が弱く、父親は逆に強いのだが料理がてんでできない。
だから朝食と弁当を作るのはいつも彼なのだ。その本人が寝坊してしまうと、もうどうしようもない。
家が校舎から離れているため、早めに出なければ間に合わない。それも一要因である。

……もう少しゆっくりしていられるのなら、母さんの朝食が味わえるのに。

たまにそう思うこともある。しかしそのために母を起こすのも優都にとっては忍びないのだ。
結局毎朝の朝食は優都に一任されており、稀に"こういうこと"があると父と優都は一日二食になる。

今回のような場合、優都は父に昼食代を渡される。
起きられなくてごめん、と言うのだが絶対に責められることはない。
自分が作れないのも悪いな、と彼の父は苦笑する。学校から帰ると、いつも迷惑掛けてごめんね、と母が頭を下げる。

愛されている。
それくらい優都にもわかることだ。
有り難いな、とも思う。そのおかげで我慢できることだってあるから。

明日は何が何でも寝坊しないようにと自分自身に誓って、思考を完結させる。
いくら珍しい出来事とはいえ、また同じ間違いを繰り返さないとも限らない。

「母さんが七時前に起きるなんて、半年に三回あるかどうかだし」

それも休日ばかり狙ったようにだから性質たちが悪い。
朝台所に立つ比率は圧倒的に優都の方が多いので、どこか安心しきっているのかもしれない。

任されっぱなしは癪だ。
今度弁当を作ってもらえるように頼もうと優都は決意を増やした。

「……もふ」

またパンを頬張りながら。
購買での昼食もたまにはいっか、そう小さく呟いた。










靴を履き替え、上履きを下駄箱に仕舞う。
少し歩けばそこは校門。体操着姿で駆けていく生徒を見やりながら通り過ぎる。

優都が所属している部活はない。
料理部とか家庭部とかそういうものがあれば入っていただろうが、生憎この学校にはなかったりする。
そういえばクラスメイトの一人が「読書部、あるいは文芸部がない」ってぼやいてたなぁ、とふと思い出した。

どうしてか、優都は料理をするのが好きだった。

きっかけは朝の弱い母親絡みだ。けれど、それはあくまできっかけに過ぎない。
何度も朝食を作り、自分の弁当を包んでいるうちに、悪くない、好ましいと感じられるようになっていた。

この手で作ったものを食べて、喜んでくれる人がいる。
おいしいと言われることに対しての嬉しさは、今まで彼が知らなかった、浮き上がるような幸せだ。
料理に掛けた手間や苦労が心地良く思える、そんな素晴らしさがあった。

それに、彼には忘れられない記憶がある。
昔、両親が買ってきたパンだ。何てことのない、ただの食パン。
焼きたてで、とてもあたたかく、柔らかい味だった。こんなおいしいものがあるんだと感動した。
不意にちょっとだけ泣いてしまって、二人を困惑させたのを覚えている。

パン屋に連れてってもらい、実際に作る工程を特別に見せてもらったこともある。
ただの生地をひとつひとつ確かな形にしていく。
そういう光景を目の当たりにして、その奇跡を現実にする名も知らぬおじさんを心から凄いと思った。

そしていつか、自分もその立場に立ちたいと。
当時小学生だった優都は、今までのどんな願い事よりも強く祈ったのだ。

その日から彼の夢はパン屋を経営することで、何年経っても変わることがなかった。
少しずつではあるが、夢のための努力もしている。自分の力で叶えられるように。

「今日は早く帰ろっか」

何となく夕食も作りたくなった。
母に言って手伝わせてもらおうと、冷蔵庫の中身を頭に浮かべつつ先を急ぐ。

「…………あ」

しかし、ふと足が止まった。
先日見た一人と一匹のことを思い出す。
ただ気になって、家に向かっていた気持ちが逸れた。


優都はほんの僅かばかり、寄り道をすることに決めた。










果たして子猫と少女はいた。
あの時優都が見たのと全く同じ構図で。

相変わらず複雑な表情。子猫を見下ろすその視線も、冷めた色だけではない。
どこか、迷いがあるようで。ふとすれば泣いてしまいそうな弱さも含んでいた。

子猫はただ真っ直ぐに少女を見つめる。
あまりにも純粋で、幼いが故に、何も知らないが故にできる瞳。
疑いも不安もないその視線を向けられて、それでも少女は目を逸らさずにいた。

優都の心中に疑問が湧く。
きっとこの猫を見つけてから、彼女は毎日ここに来ているのだろう。
それがいつからかはわからない。けれど、どうしてこの子猫の前で立ち尽くしているのか。

拾って飼うための決意がないからかもしれない。
通り過ぎることに後ろめたさがあるからかもしれない。

疑問は膨れ上がり、抑え切れなくなって。
ゆっくりとその背に近づき、優都は驚かさないように気を遣いつつ声を掛けた。

「……ねぇ、君」
「…………何ですか?」

声に問いかけの意図が混じっているのに気づいたのか、少女は振り向き訊き返した。
友好的な色はない。初対面の人間に対して、あまりいい感情を持たないのだろう。

「こないだも、この子猫の前に立ってるのを見たけど……」

しかし構わず言葉を続ける。

「なんで、ここに?」

返答は無言だった。
しばらく沈黙のままで、少女は口を開かない。
一度優都に向けた視線を子猫へと移し、少しだけ目を閉じてから優都と正対する。

「……家では、動物は飼えません」

……ならどうして、と優都が言う前に、

「でも、できることならどうにかしたいと思います」

理由がさらに続く。
それはある意味決意の表明にも聞こえるのに、やはりやりきれないような表情は消えない。

子猫が寂しそうに鳴いた。
けれど少女は振り向かない。振り向かずに俯く。

「……本当は餌をあげたいけど、毛布で包んで家に連れていってあげたいけど、何もできないから何もしないんです」

そして最後に優都が聞いた声は、偽らざる少女の本心だった。
何もできないから、何もしない。
責任も持てないのに情を与えれば、かえって残酷な結果を招くから、と。

優都は思う。
きっとその言葉は、

「優しいんだね」
「っ!」
「あ、ごめん、癇に障った?」
「いえ。……その、そういうことを、あまり言われたことがないので」
「そっか」

偽りのない想いだったのなら。
親が子に向ける厳しさにも似た、優しさなのだろう。

「……うん、素敵だ」

少女に聞こえないくらいの音量で、呟く。
自分の気持ちを確かめるように軽く頷くと、

「また、ここに来る?」
「この子猫が……いなくなるまでは」
「じゃあ明日、会おう。僕はここに来るから」
「え……?」

戸惑う彼女を気にせず優都はにっこり笑う。
疑問を投げかけられる前に背を向けた。

「またね」
「あ、あの……!」
「なに?」
「…………あなたは……?」
「……ああ、そういえば、初対面なの忘れてた。僕、桜葉優都っていうんだ。よろしくね」

一方的に自己紹介をし、そのまま去っていく。
遠ざかる後ろ姿を見て、少女はさらに問いを重ねることを諦めた。
少しだけ子猫に視線をやり、それから帰るために歩き出す。


残された子猫は全く状況を理解しておらず、小首を傾げるようにしていた。



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