他の生徒は何だかんだと理由をつけて帰ってしまい、だから一人寂しく教室の掃除をしていた。
机を動かし、箒で床を掃き、机を戻してゴミを捨てに行く。
さらに本来日直の仕事である黒板の掃除も一緒にやって、全てが終わった頃にはもう一時間近く経っていた。

「ふぅ…………」

桜葉優都は溜め息をつき、鞄を抱える。
少し疲れた表情ではあるが、どことなく清々しい。

「……どうしてみんな帰るかなぁ。掃除をしないと困るのは自分なのに」

けれど言うことは憂いを含んでいて、何が何だかわからなかった。
一人で掃除をしたことによる疲労と、終わったことによる達成感、帰ってしまった人達への気遣い。
みっつの気持ちがごっちゃになった複雑な姿だった。

失礼します、と誰もいない教室に声を響かせ、廊下を歩く。
別に急いで帰る必要もなく、ふわぁ、とあくびをひとつしながら学校を後に。

帰り道はとても静かで、そして長い。
ときどき知らない誰かとすれ違ったり、飛んでいく鳥を眺めたり。
かと思えば五月の晴れ渡った空をふと見上げ、ぼんやりと何かを考える仕草をして、

「……そうだ、公園に行こう」

不意に思いつきを口にしたりする。
ちょうど家に帰ってどうするかを決めかねていたので、そのアイデアは悪くないと優都は喜んだ。
何となく、すぐに帰りたくはなかったから。


目指す先へと、足は向かった。










四月の頃は桜並木周辺にひしめき合うほどいた人も、桜花が散ればすぐに消えてしまう。
閑散とした自然の光景が普段の様子であり、今は一面の緑が立ち並んでいる。
落ちた花びらはもう綺麗に掃除された後で、春の名残はどこにもない。

草の青い匂いがする中を、優都は適当に歩いていた。
公園を一周したら今度こそ帰ろうと思いつつ、知った道をのそのそ通る。

「やっぱりここは気持ちいいなぁ。空気が清々しく感じる」

すぅっと深呼吸。
それだけで身体が澄んでいく気がする。

こないだ降った雨の匂いや、陽に当たった葉の匂いが鼻につく。
いろんなものを混ぜた空気は馴染みがなく、しかしアスファルトの上にいる限り体験し得ない。
ここにしかないものを感じられるだけでも来た意味はあったと優都は思った。

公園を一周して、並ぶベンチのひとつに腰を下ろす。
眠気を飛ばすようにごしごしと目を擦り、背もたれに身体を預けて空を見上げる。
天気は快晴。視界に見える雲は僅かで、中天に昇る太陽はとても眩しい。

「……昼、どうしよう」

ただ何となくで帰宅を延長してみたが、だからといって空腹感がなくなるわけでもない。
今は正午過ぎ。土曜の午前授業は普段嬉しいものなのに、こんなところでちょっと恨みたくなる。

一度決めてしまったからか、意地でも何かしてからじゃないと帰りたくなかった。
ちなみに懐は寂しく、買い食いをするような余裕はない。

しばらく考えてみたがそれですぐ思いつくような都合のいい頭は持っておらず。
結局もう一周分歩いてから帰ることにした。


考えていた時間が勿体無いと気づいたのは、公園を出た数分後。










その瞬間、目が離せなくなって立ち止まった。

大通りではないけれど、それなりに人の往来がある道。
今は誰も通らないような中途半端な時間に、同じく中途半端な立ち位置でいる優都はひとつのものを見る。

それは猫だ。
濃い灰色とこげ茶色の斑をした、まだ幼さを宿す子猫。

しかしただの野良猫だったならば目を留めることもなかっただろう。
優都が気にした部分は、その猫の在り方だった。

ダンボールの中で、毛布に包まれながら世界を見上げるその姿。
大人が書くような流麗な字で、ダンボールの正面には「拾ってください」とそれだけが記してあった。

捨て猫か、あるいは生まれた子猫の一匹を"こういう手段"で誰かに託そうとしたのか。
全ては推測にしかならないが、こうして寂しく道端に佇んでいることは確かだ。

そしてもうひとつ。

子猫の前には、一人の少女が立っていた。
制服姿で、その服に優都は見覚えがある。確か近くの中学校だ。
そも、二年前までは自分が通っていたのだから見間違えがあるはずはないのだが。
学年まではわからない。上履きか体育着の色でしか判別できるものはなかったはずだから。

少しだけ懐かしさを感じながら少女を見つめる。
子猫の斑と同じ、こげ茶色を含んだ三つ編みの髪にまず目が行った。
髪の色を除けば、これといった特徴はない。すれ違っても軽く視線をやるだけで通り過ぎてしまうだろう。

けれど、少女の表情には何かがあった。
立ち尽くして、見下ろすように子猫を見つめるその顔。

複雑だった。
やりきれなさと、悲しさと、その他諸々を詰め込んだ無表情だと優都は思った。
別の形容は思いつかない。それが一番しっくり来る表現。

声を掛けようとして、しかし躊躇う。
何となく今は訊けなかった。


先客が去るまではあまり長くなかった。
遠くに消えていく背中を見送りながらしばらく無心でいる。

にゃー、と子猫が鳴いて、意識をそちらに移した。
ただ無垢な瞳で視線を返してくる。じっと、こちらが目を逸らしても。
それは縋る気持ちなのだろうか。優都にはよくわからなかった。

猫は家では買えない。父が駄目だからだ。
唯一の、そして最大の理由。苦笑するしかない。

「……ごめんね」

思う。この言葉は偽善だろうか、と。
もう一度苦笑して、優都もその場所を去った。


今更になって、空腹を思い出した。



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