最近はあまり遅くなることもなくて、だから夜は少しばかり賑やかだ。
将来がどうだとか、明日のご飯がどうだとか、そんな話。
毎日のように繰り返して重ねて、家族の触れ合いにしていく。


真朝の母は娘に優しかった。
生まれた時からこれでもかと可愛がり、その仕草に喜び、時に苦しくも思いながらずっと大事に育ててきた。
小学校の頃は時間を割いて授業参観にも必ず出ていたし、行事の類は逃さず見に行った。
夫の仕事が忙しく、彼女が見に行かなければ真朝の姿を写真に残すチャンスがなくなってしまうから。

真朝の父は娘に少し甘かった。
もしかしたら妻よりも子の誕生を嬉しがり、育児の手伝いができない代わりに仕事に精を出した。
けれど娘との関わりを忘れることはなく、夜は一緒に風呂へ入り、朝は必ず一度抱き上げた。
我が儘を叱る厳しさも持ち合わせていたが、最後には負けてしまう甘さがあった。

夫婦二人はアルバムに思い出を詰め続けた。
初めて真朝が立った時。家族旅行。運動会や学芸会。中学校の合唱コンクール。
生徒の中でも優秀な真朝は提出した作文を読まれることも多かった。学校から渡された多くの賞状もそこに挟まれている。
遠足。修学旅行で彼女が取ってきた写真。家族で海に行った時。
重ねた記憶の数だけ、白紙のアルバムは埋まっていった。一年経って、二年経って、五年経って、十年経って。

そうしていつの間にか、真朝は大人に近くなり、父母の手から少しずつ離れていく。
思うほどに子供ではないと、幼くはないと、気づくのだ。

しっかりと未来を見据える娘の姿は、親である二人が誇れるくらい立派なもので。
だから、だから、もう、大丈夫だと思ってしまう。錯覚してしまう。


冗談で父は「どうだ、久しぶりに風呂に入らないか」と掛け合う。
真朝は笑って遠慮し、その様子を見て母が可笑しそうにくすくす声を漏らす。

絵に描いたような家族の団欒。
箱庭の中で演じられるような偽りの劇ではない、現実の出来事。
自然で優しい両親のコミュニケーションに、真朝は心から感謝していた。

なのにひとつだけ、拭えない感情がある。消えない不安がある。
それはどこまでも彼女に付き纏い、ゆっくりと負担を増していく。
土の上に撒いた水の如く、染み込んで侵蝕していくのだ。

娘の抱く感情に親は二人とも気づかない。
思うほどに大人でもないと、そんな単純なことをわからないでいる。


夜が深くなる前に眠り、朝規則正しい時間に起きて。
真朝より先に、父も母も家を出る。彼女が口にする言葉はいつも「いってらっしゃい」。
制服に着替えて、教科書やノートやその他色々が詰まった鞄を持って、靴を履いて、誰もいない家に向かって「いってきます」。

声は虚しく響き渡った。彼女の耳と、無人の玄関に。










「雛野さん、ほら、鍵落としたよ」
「あ……ありがとうございます、如月さん」
「葵でいいって言ってるのに。ホント、律儀というか几帳面というか」

如月葵は、クラスメイトの中でも比較的真朝と関わりの深い人間だ。
特に一部の人間からは"憧れ"の対象としてまで見られている彼女と親しげに話せる者はなかなかいない。
そういう意味では真朝にとって、葵は貴重な存在だった。

「いつもはお財布に入れてるんですけど、今日は忘れちゃってたみたいです」
「珍しいねぇ、雛野さんがそんな風にボケるなんて」
「ボケてなんかいませんよ」
「そりゃまだ十七歳だからね。早過ぎるさ」

高校生にしては老成していたり落ち着き過ぎていたりする二人。
教室の中でも実際浮いており、存在感の強さで言えば学校内でもトップクラスである。

自発的に他人の手助けをする真朝に対し、葵は先輩後輩問わず何らかの相談を受けることが多い。
姐御肌な性格のためか、それとも歳に合わないほど大人びた雰囲気のためか、とにかく真朝とは別の意味で頼りにされる。
本人も慣れたもので、しっかり話を聞いてしまうのだから、時には休み時間、彼女の前に列ができることもあったり。

他人に対して能動的な真朝と、受動的な葵。
そんな正反対な部分のある二人だからこそこうして気が合うのかもしれない。

ちなみに、葵は名字より名前で呼んでくれた方がいいと公言しているのだが。
いつまで経っても真朝は呼び方を変えないため、半ば諦めているのが現状である。

「……そういえばさ」

不意に葵は意地の悪いような表情になり、

「昨日、雛野さんが男の人を家に入れてるのを見たんだけど」
「っ!」

楽しそうに放った台詞を聞いて思わずびくりとしてしまう真朝。
脈ありと見たのか、鬼の首を取ったとでも言わんばかりの笑みで質問を投げかけられる。

いったいあののんびりしてそうな人は誰なのか、とか。
どうして突然家に連れ込んだのか、とか。
ぶっちゃけ恋人だったりして、とか。

心の底から嬉しそうに、答えを返す間もなく訊いてくる。
ついには真朝が珍しく慌て始めた様子を確認してから、

「いやいや、そんな慌てなくてもいいって。あはは、珍しいものを見させてもらったよ」
「心臓に良くない冗談ですよ……」
「悪い悪い。でもさ、なんか、ちょっとだけ暗い顔してるように思えたから」
「え…………?」
「何か悩んでるんだろう? どっかに引っ掛かるものがあるとか、ね」

真朝は改めて、葵の慧眼を知った。
周りの評価よりもずっと、彼女は鋭く聡い。
自分の心の中を見透かされているような気がして、しかし恐れよりも、一種の安心感を得た。

それはきっと彼女が、他人のために何かを考えてくれているからなんだろう、と思う。
多少なりとも付き合いのある真朝からしても、底の読めない友人だった。

「遠慮はしなくていいさ。無理に抑え込む必要はないよ。後で辛くなる」
「……いえ、抑えてなんか、いないですよ。大丈夫ですから。今は」

そう、今は。今は平気。
誤魔化すように真朝は自らを納得させるため言い聞かせる。
声にはせず、何度も、何度も。
表情にも出さないあたり、感情の抑制は完璧だった。

怖いくらい落ち着いて見える真朝の様子に、葵は溜め息をついて苦笑。
改めて真朝と向き合い、

「……まぁ、いいか。でも」

そこで少し考えてからひとこと。

「本当に辛くなったりしたら、いつでも愚痴や悩み事は聞いてやれるから、ね」
「……気遣い、ありがとうございます。その気持ちはとっても嬉しいです」

対等の立場で話せ、大事だと思えば遠慮なく踏み込める。
あらゆる意味で真朝にとって、如月葵は貴重な存在と言えた。


余談だが、一連の会話は囁き声で行われていたりする。
周りから怪訝な目で見られていないのは、葵の人徳かそれとも日常の一部なのか、判別はつけ難い。










ほとんど日課みたいになってしまった、日向との関わり合い。
探せばだいたいあの公園で読書なり絵画なりをしているか、桜の近いベストスポットでひなたぼっこをしているかだ。
それ以外の場所にも行っているのだろうが、今のところ運良くどちらかで見つけられている。

見つけたら隣に並んで話をする。他に何も望まない。
昔のことやこれからのことを訊いて。彼の言葉と同じ数だけ彼女も自分のことを語る。

家族といる時とは違う。
同級生といる時とも違う。
不思議なほど、穏やかで暖かい時間。

彼が何かをしている場所には、必ず陽が射していた。
雨が降ったらどうなるかはわからないけれど、きっとどこか屋根のあるところで一日中のんびりしているのだろう。
ひなたが好きでなければ、ひなたぼっこを大好きだと公言できないはずだから。
だからいつでも陽の下にいて、青空の中にいて、微笑んでいる。

そこが自分の居場所だとでも言うように。
家がなくても、定職がなくても、隣に誰もいなくても。

真朝がいなければ、日向はいつでも一人だった。少なくともこの街にいる間は。
そもそも真朝と会ったこと自体、完全な偶然以外の何物でもない。
この町に来る前だって、顔も知らない誰かと関わることはあっても、それは刹那のものだったはずだ。

彼のそんな生き方は、強く、寂しく、柔らかで……真朝からすれば、憧れの対象に為り得た。
自分も寂しさに負けないような心の強さを、きっとどこかで欲しいと願っていた。


家族。友達。先輩後輩。
クラス。委員会。部活にサークル。

それら全てには人の輪がある。何かの共通点を持つ人が集まる。
同じものを求め、違うものを探し、皆でひとつのことを成す。

孤独はそこにない。もともと孤独を無くすための輪なのだから。
ならば、どの輪にもいない人は。いつも一人であるとしたら。


「日向さんは…………いませんね」

初めて真朝は、そのどちらでも日向を見つけることができなかった。
他に彼のいそうな場所は知らない。よくよく考えてみれば、普段の彼の生活は全くわからないのだ。

いつもいたから、当たり前のように思えてきて。

夕焼け近く、黄昏の色を含み始めた陽射しが溜まる場所。
ぽっかりと世界から切り取られた風景の中、真朝は立ち尽くしていた。
穏やかな陽光を浴びながら、けれど心中はまるで穏やかでなく。

きっとタイミングが悪いのだ。
ちょうど一番不安な時に、こうしてひとりでいるから。

―――― ふと、涙がこぼれた。

「……あ、あれ……?」

ぽつり、ぽつり、地面に落ちていく。
すぐにそれは止まったが、悲しい気持ちは一緒に流れてくれない。
久しぶりの、もう中学校に入ってから一度も見なかった自分の涙を見て、真朝は限りなく慌てた。

桜の匂い。風に揺れる葉のざわめき。
自然の音だけが響く、他に誰もいない空間で、たった一人俯いている。


結局真朝が帰るまで、日向は現れなかった。



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