野上日向はひなたぼっこが大好きだ。
読書、絵画、料理、その他色々と結構多趣味である彼だが、ひなたぼっこは別格。
何よりも優先すべき、だなんて大袈裟なものでもないけれど、日々の営みには欠かせない習慣になっている。

未だ定住することのない彼は、滞在する度ちょうどいい場所を探す。
よく陽が当たり、かつ人通りや喧騒から遠いという条件を満たすところはなかなかない。
時には半日以上を掛けてようやく見つかった、なんてこともある。
都会や市街は特にそうだ。人間の住む世界は自然が少なくなったなと、事ある毎に思う。

いくら陽射しが気持ち良くても、コンクリートの上では寝たくない。
ひなたぼっこをする際に、日向がまず考えるのはそんなことだったりする。
程よく草が覆った地面はふかふかで、陽のぬくもりも蓄えやすい。
心地良くなくて何がひなたぼっこか。あの安心できる時間が好きなのだから、満足できない環境ではしたくないのだ。

妙なところで妥協を許さない彼にとって、そこは実に理に叶った空間だった。
ぽっかりと切り取ったかのように陽が射し込んでいる。
地面に生えている草もいい具合。広い公園の中の端っこで、俗世とも遠い感じ。

先日真朝と共に来たあの場所である。

発見したのは、彼女と会った次の日。
ある意味、真朝は日向にとっての幸運の女神だったのかもしれない。

「……それは大袈裟か」

ともかく。
昨日も今日も日向はひなたぼっこをしていた。
こうして横になっている間は、彼だけの至福の時。加えて春特有の柔らかい空気が気持ちをふにゃっとさせる。

本を読むのもよし、歌を口ずさむのもよし。ただぼんやりしているだけでもいい。
楽しみ方は日によって違うが、いつも例外なく気分は上々だった。

「ふわぁ……」

眠い目を擦りながら空を見上げる。青い。
薄く掛かる雲が太陽を隠し、眩しさを和らげてくれる。
遠くからは春の匂い。淡い桜の花の匂い。
どうしてこんなにも素晴らしいんだろう、と日向は思い、軽く微笑んだ。

「やっぱりここにいたんですね」
「ん、真朝さんかな?」
「はい」

身体を起こし、声のした方を向くと真朝がいた。
制服姿。時計を持っていない日向は時間がわからないが、たぶん学校の授業が終わる三時過ぎなんだろうな、と推測する。

「横いいですか?」
「どうぞ遠慮なく」

よいしょ、と真朝が座る。

「相変わらずですね、日向さんは」
「何のこと?」
「ほぼ毎日ひなたぼっこをしてるじゃないですか」
「ああ、まぁ、好きだからね。飽きないものなんだ」
「今日は何をしてました?」
「えっと、午前中はちょっとお仕事。それから少し散歩して、あとはずっとここにいるかな。真朝さんは?」
「私はずっと授業ですよ。部にも所属してないので帰りは早いんです」

静かに真朝は苦笑。
どうにもやりたいことがなくて、と呟き、

「とりあえず今は趣味に走ってます」
「どんなのか、訊いていいかな?」
「はい。日向さんと同じ、読書。それと……一応、ピアノを少し」
「へぇ……ピアノかぁ。レッスンに通ってたりとかするの?」
「母が昔講師としてやってたらしくて、子供の頃から教わってるんです。母ほど上手くはありませんけど」

と、照れを含む表情で続けた。
それが本当かどうかはともかく、彼女自身は自信を持っていない。
彼女の母に経験で劣るのは確かで、周りに比べる対象がいないこともあって声にも強さがなかったりする。

誰に聞かせるようなこともない、自己満足のためだけのもの。
弾いてて楽しいからなのか、考えるとわからなくなってきた。
音楽は聞かせるためにあるものなのに。誰かがいて初めて意味を持つものなのに。

苦い色を混ぜた真朝の言葉に対して、日向は薄く笑った。
嫌味な感じでない、ただ単純な微笑み。

「自分に自信を持った方がいいよ。もっとしっかりと」
「あ、…………はい」

真朝がいつもの表情を取り戻すのを見てから、起こした身体をまた横にする。
まだ若いなぁ、などと思いつつ、青く抜けるような空をしばし眺めた。


陽射しは相変わらず気持ち良かった。










旅をしていると強く感じるのだが、夕陽の色は地域によって違う。
それは季節にも左右されるし、付近に山があったり海があったりすればまた変わってくる。

赤。橙。蜜柑色。
淡い時や毒々しい時、眩しい時や綺麗な時。
日単位で姿を移り変えていく。同じ瞬間は存在しない。

日向が見る今日の空色は、薄い橙だった。
地平線を流れる雲が太陽の前に立ち塞がり、フィルタの役目を果たしている。
さほど厚くはない雲から透けた光だけが世界に降り注ぐ。
フィルタが取り払われれば、もっと眩しく映るのだろう。
目を刺すような陽射しではなく、緩い、優しい夕焼け空。

そんなのも、日向は好きだった。
その隣で真朝も、ただ綺麗だと思っていた。

「綺麗な夕陽がよく見られるのもひなたぼっこの利点かな」
「……そうですね。本当に、綺麗です」

住んでいる場所も歳も仕事も、何もかもが違う二人なのに。
こうして同じ空を見上げて、同じ気持ちでいるというのは、どこか面白くて素敵なことだと日向は笑った。

「……どうして笑ってるんですか?」
「あ、いや、真朝さんを笑ってるんじゃないよ。ただちょっと、人生は面白いなぁ、と」
「はぁ…………」

訝しげな表情をする彼女を見て日向は苦笑。
誤魔化しの意味を含めて視線を逸らし再び空を見上げ、


くぅー。


場の雰囲気に全くそぐわない、間抜けな音が聞こえた。
それがどちらかの、もしくはどちらともの腹の音だと気づいたのはしばらく後のこと。

「…………あははははははは」
「………………」
「………………僕?」
「私じゃないですよ?」
「じゃあ僕かなぁ。あ、そういえばお腹空いてるような気も」
「自分でわからないんですか…………」

真朝に呆れた目で見られる。

「どうもこう、ひなたぼっことかしてるとご飯のことを忘れがちで」
「……ひとつ提案があるんですが」
「え、何?」
「今日は両親の帰りが遅くて、一人で夕飯を食べることになってたんです。一緒にどうですか?」
「……今、僕は幻聴を聞いた気がするんだけど」
「もう一回言いましょうか?」
「あああ、ごめんなさい確かに聞こえました」

日向の慌てた顔は珍しい。
何というか、いつものらりくらりとしているので気の抜けたような表情が多いのだ。
ときどき厭に子供っぽかったり、あるいは怖いくらいに大人っぽかったり。
不思議なほど胡散臭い印象を受ける彼が本気で驚くことなんて、少なくとも彼女の前では今までなかった。

ちょっと得をしたかも、などと心の隅で思いながら。
もう一度、確かめるように訊ねる。

僅かの期待を胸に秘めて。

「……来て、くれませんか?」
「…………いいよ。僕でよろしければ。無料ただでご馳走してもらえるしね」

断る理由はない、と。
笑って日向は頷いた。


ひっそりと真朝はひとこと、感謝の言葉を呟いた。










雛野家は三人暮らしで、まあ個別の部屋があるくらいには広い。
真朝が生まれた少し後に建てたものだが、洋風ではなく和風中心だ。
完全木造とまでは行かないが、要所要所は木組みである。
床は畳、居間だけが板張り。秋頃になるとカーペットを敷く。
こたつは一ヶ月前に片づけた。もう四月なのだから、家の中もそれなりに暖かい。

夜八時も過ぎると、居間には真朝を含めて三人が集まる。
基本的には彼女の母が、稀に真朝自身が作った食事を囲んで食べるために。
家族の団欒は当たり前のもので、日常のひとかけら。

しかし今日は両親共に帰りが遅いとの連絡があった。
悪いけど一人で夕飯を食べてほしい、とも。

彼女がまだ幼い、例えば小学生の頃であるならばそんなことは言わなかっただろう。
だが、もう真朝は高校生。料理も作れる。当然だが戸締まりだってできる。心配事はない。

「はい、どうぞ。麦茶でよかったですか?」
「ありがとう。全然問題なし」

真朝からコップを受け取り、日向は軽く口に含む。
インスタントの、どうということのない味。しかし悪くはないと思う。

三人だけの家庭としては少し大きなテーブル。
そこで二人は揃って正座し、向かい合い、外にいた時と変わらない話題を交わす。
薄く陽射しの入る居間で、ときどき窓から空を眺めながら。


陽が落ち、夕方の眩しさが消え、欠けた月が夜闇に浮かぶ頃。
腰を持ち上げ、真朝は台所に向かった。もちろん夕食を作るために。
冷蔵庫にはそれなりに色々入っている。やろうと思えば結構豪華なものができるだろう。
ちょっと気合を入れてみるのもいいかもしれない、と何となく心の中で言ってみる。
彼女が家族以外の人間と食事を共にするのは、とても久しいことだから。

「あー、ちょっと待った」

台所に立つ真朝を、何故か日向が止める。
疑問の表情で理由を問うと、

「せっかく招いてもらったんだから、今日は僕が作ってもいいかな」
「はい?」

予想以上の答えに、彼女は二の句が告げなかった。
誘ったのはこちらなのにどうして客の手を煩わせることになるのか、と。

それに、はっきり言ってしまうのは憚られるのだが、彼の料理の実力に信用が置けない。
実際作っているところは見たことがないし、そもそもよく考えてみれば彼が食事している光景さえ知らないのだ。
初めて家へと招き入れた人間に食事を任せるというのも、いろんな意味で気が引ける。
どう断ったものかと真朝が考えをめぐらせていると、日向は「なら」と前置きして、

「真朝さんを手伝っていいかな。それくらいなら心配ないでしょ?」
「ですけど…………」
「僕のことなら気にしないで。好きで言ってるんだから、ね?」

そこまで言われて断れるような性格はしていない。
仕方なくというより感謝の意を込めて、真朝はわかりました、と口にした。










結論から言えば日向の料理の腕は大したもので、包丁を握る手も実に慣れていた。
野菜を刻む速度もやたらと速く、いったいどれほどの経験を積んでいるのか真朝にはわからなかった。

出来上がった食事は質素で、二人分ということもあり量も多くない。
真朝の両親はどちらも外で済ませてくるらしく、作り置きは必要ないことになっている。

―――― もし誘いを断っていたら。
そんな考えが日向の頭の中を過ぎる。
一人ぽつんと、話し相手もなく、黙々と箸を動かし続ける真朝の姿が容易に想像できた。

きっと彼女は何も言わないだろう。
寂しさの感情を欠片も表には出さずに、一人で片づけて、一人で皿を洗って。
両親が帰ってきても、微笑んで「おかえり」と出迎えるに違いない。

「……ねぇ、真朝さん」
「何ですか?」
「真朝さんのご両親って、よく帰りが遅くなるの?」
「はい。昔からそうでした。毎日のように、ごめんね、って言いながら朝出かける母と父の姿を覚えてるんです」
「……そっか」
「私、こう見えても鍵っ子なんですよ? たまに鍵を家に忘れて、親が帰ってくるまで立ち往生してたこともあります」

それが何でもないことのように真朝は笑う。
大したことはないんですよ、と。悲しい笑顔。


結局、日向はそれ以上のことを訊かなかった。
あとはとりとめのない、無難でありふれた日常を語って、終わり。

二人で皿洗いをし、彼女の両親が戻る前に帰った。


「おいしかったよ」と伝えた時の嬉しそうな顔と。
「それじゃあね」と別れを口にした時の、幼い暗さを持つ顔が、日向の記憶に一番強く残った。



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