例えば、他のクラスの、話したこともない人が廊下で大量のプリントを抱えていて。
足下がちょっとふらついてて、何かの拍子で転んだりしたら悲惨な光景が広がるんだとわかっていたら。

手を差し伸べようと思えるだろうか?
「手伝いましょうか」と、そのひとことが言えるだろうか?

見ていればわかる。
休み時間、自分の教室に向かってプリントの山を運ぶ姿を。
廊下には生徒が通っており、その間を縫うように進んでいる。
注視してみれば、はらはらしてしまうほど不安定なのに、誰も気にはかけない。
自分には関係ないと、見て見ぬふりをして通り過ぎるのだ。

面倒だとか、時間がないとか、関わるのが嫌だとか、そういう理由で。
大変そうなその人に近づこうとする者はいない。
いるとすればきっと、物好きに思われるだろう。
好んで面倒事を請け負うような人間は本当に少ないのだ。

真朝がそんな"物好き"でいようとするのは、だからかもしれない。
単に性格が占める部分も多いが、彼女の心の奥底には、いつもひとつの願望があるから。


「あ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。困ってたみたいなので」

他人が思わず見惚れてしまうような笑顔をしながらプリントの半分を抱える。
少女―― どうして男に力仕事をやらせないんだろう―― は申し訳なさそうにお辞儀をした。
その表情には軽い戸惑いがあり、「なんでこの人は手伝ってくれてるのかな」とか思っているのかもしれない。

「あの…………」
「教室はどこですか? 一緒に運びますけど、ごめんなさい、私あなたのクラス知らないので」
「は、はい、四組です」
「二年の?」
「はい。あの……雛野さんですよね?」
「そうですけど、どこかで会いましたか?」
「いえ、わたしのクラスでもよく雛野さんの名前を聞くので……」

頻繁というほどでもないが、真朝に関する噂はどこででも聞くことができる。
曰く、善意の塊。誰もに親切。便利な人。良くも悪くも、他人に評価されていた。
真朝としては別に不満でもない。多少不快に感じるところもあるが。

誰にどう言われようとも。
真朝は変わらない。変わらないのだ。
なのに、

「……どうしたんですか? 顔色悪いですよ?」
「ああ、何でもないんです。さぁ、早く行きましょう」

何故こうも暗い気持ちが溢れてくるのか。


どれほど考えても、真朝には全く見当が付かなかった。










気づけば足が向いていて、あの公園を目指していた。
とぼとぼと歩きながら学校で抱いた思いを反芻する。それこそ何度も、何度も。

頼られる私。頼まれる私。
誰かに縋られたりすると見捨てられないのは性格でもあるけれど、喜々として聞いているわけでもない。
勿論、困っている人を手伝って、その結果として「ありがとう」と言われたり、感謝されたりするのはとても嬉しいこと。
でも。でも、そうして誰もやらないことを自分でやって、素晴らしい心掛けだ、と皆に評価される度に悲しくなる。
なんで? どうして? 今までずっと自問自答してきたのに、答えはまだ出なくて。

ついこないだまで知らなかった自分が、後ろから追いかけてくるよう。
必死に走っているのにだんだんと距離を詰められて、近づかれていくほどその気持ちが大きくなっていく。

「何なんだろう……」

もう飽きるほどした自らへの問いを口にしつつ、真朝は前を見る。
小さな公園の入り口。今日に限ってはその狭い門が彼女を拒絶しているように思えた。

少し、これ以上進むことを躊躇う。
拒絶されたまま帰ってしまおうか、一晩家でじっとしていればこの考えも消えるだろうか、と。

「……ううん」

それは錯覚だ。
きっと、明日になっても明後日になっても、暗い気持ちは消えはしない。
日が経つ毎に重くなって、いつか押し潰されてしまうかもしれない。

吐き出したかった。溜め込んでいるのが辛かった。
まだ知り合って一週間も経っていない、野上日向にこのもどかしさをぶちまけてしまいたい、と。
そう、思ったのだ。親よりも、学校の友達よりも、誰より先に頭に浮かんだのは彼の顔だったから。

聞いてくれる。そして彼なりの答えを教えてくれる。
そんな勘に近い確信があった。


止まった足を、もう一度前へ進めた。










「やぁ、いらっしゃい。……いや、いらっしゃいって言うのも変か。僕の家じゃないし、ここ」

果たして今日も、彼は変わらずそこにいた。
ベンチに座り真面目な顔で本を読んでいる。背表紙は見えないが、厚く、古めの文庫本らしい。
足を組みながら読む姿は妙に様になっており、月並みな言い方をすれば絵画のようだった。

真朝は軽い会釈のみをして日向の隣に腰掛ける。
少し強張った彼女の暗い表情を見て、彼も気持ちを身構えた。

「…………どうしたの?」

月並みだが、真朝にとっては有り難い言葉だった。
飾らず、ただ心配と思うからこその問い。

一瞬「何でもないです」と答えそうになる。
だが止めた。それはほとんど侮辱だ。折角の心配を無碍にする行為だろう。
考え、今の自分の気持ちを正直に言う。

「……不安、なんです」

口にすると、ああ、そうなんだ、と真朝は思った。

不安なんだ。自分の気持ちを不安に感じて仕方がないんだ。
その妙な気持ちの出所はわからないけど、私は、確かに怖がってる。

「何が不安なのかな? 何が……怖いのかな?」

日向は真朝の思いを的確に言い当てる。
彼の目はいつもと違い、どこか頼り甲斐のある強さを含んでいた。
無理に問い質すのではなく、慎重に、彼女自身の意思を引き出そうと訊ねる。

「…………あの」

静かに真朝は考える。さらに考える。
そうしていると、震えが来た。身体は小刻みに、心は激しく揺れてしまう。
駄目、と思っても止まりはしない。涙さえ溢れそうになり、ぐっと全てを抑えようとする。

「…………あの……」

喉まで来ているはずの言葉が出ない。
まるで、それは話しちゃいけないことなんだ、とでも言うように。

……ふと、彼女は学校での出来事を思い出した。
名前も知らない女生徒と一緒にプリントを教室まで運び、そこから去ろうとして。
「ありがとうございます」と、にっこり笑って感謝の言葉を向けられた。
今まで何度も、何十度も聞いたもの。聞く度に、嬉しく、そして悲しくなるもの。

―――― どうして悲しくなるの?

きっと、きっとそれは――――

「……大丈夫?」
「! ……あ、は、はい」

意識を引き戻す。
目の前には日向の顔。恥ずかしさで少し視線を逸らしながら、再び言葉を選んでみる。

「たぶん、私は……」

……凄いよね、雛野さん。嫌がりもせず色々やって。
……わたしもあんな風になれたらなぁ。
……文部両道、性格もいい、ホント非の打ち所がねえよな。

どこかでそんな声を聞く。
彼女を知る生徒が、上級生から下級生まで。
これっぽっちの悪意もなく、羨むような、求めるような言葉を並べて。
枠に嵌めようとするのだ。在り方を決めていくのだ。

そうして心が動けなくなっていく。
初めは望んで手を差し伸べていたのに、だんだん自発的だと思えなくなる。

周りがそう求めるから、と。
本心でもないことを、どこかで考えてしまう。
それはとても嫌で苦しい。自分の本当の気持ちもわからなくなってくる。

なのに、何故思いを拭い去れないのか。

「……孤独ひとりになってしまう気がして、怖いんです」
「ひとり? どうしてそう、感じるの?」

幼い頃から真朝は人より賢かった。有り体に言えば優れていた。
同い年の子供達が皆できないことでも、真朝にはできた。

だが、その能力はアドバンテージではなく、他人と付き合うための一手段に過ぎなかったのだ。
性格も相まって、実際彼女の周りには人が集まる。
ある者は慕い、ある者は好み、ある者は頼り。
それが彼女には嬉しかった。優越感などを抱くこともなく、ただ純粋に。

「きっと私は精神的に弱いんです。みんなが思ってるよりも、ずっと」

だがやがて気づくのだ。誰もが真朝自身を見てはいない。
彼女の優れた才能に、努力に、行動の結果に惹かれているだけなのだと。

「………………」
「違うと思っても、その気持ちが消えないんですよ。後ろから追いかけられてるみたいに」

何でも一人でできる。
真朝を取り巻く全ての人間がそう思っていた。わかったつもりでいた。
だから誰にも頼れない。頼られるだけの、一方的なもの。

「……ねぇ、真朝さん」
「…………はい」
「難しく考える必要なんて、ないんだよ?」
「え?」

不意の言葉で驚いた真朝を見て、満足したかのように日向は微笑んだ。

「ここに来てからずっと険しい顔してたからね。折角の可愛い顔が台無しだよ」
「か…………っ!」
「ふむ、そういう方面で褒められるのは慣れてないと見た」
「ひゅ、日向さんっ!」
「うんうん、ほら、その表情。自然が一番」

彼女を良く知る人がこの光景を知ればおそらく驚くだろう。
学校でも、家でも、声を張り上げることはまずない。心の底から恥ずかしそうな表情も見せない。

「……君の気遣いや努力は、必ず認められてるよ。もし誰も認めてないとしても、僕は認める。保障する」
「日向さん……」
「弱くってもいいさ。強くある必要なんてない。誰かに頼ったりしてもいい」

そこで一呼吸置いて、

「もうちょい肩の力抜いて、頑張っていこう」

柔らかい、ひなたのような笑顔で。
いい具合に気の抜けた言葉と声を真朝に向けた。


いつの間にか、真朝の中の不安はどこかに消えていた。



backnext