「それじゃ、行ってきます」 「いってらっしゃい。遅くならないうちに帰るのよ」 玄関を飛び出す私に掛けられるのは、母の声だ。 それに軽く頷いて、私は襟を締め歩き始める。 冬の夜は身体の芯に響くような寒さで、制服の上に二枚、手袋とマフラーまでしても隙間風からは逃れられない。 はぁー、と大きく息を吐くと、白い煙がゆるゆると流れて大気に溶けていった。 「……本当、寒いなぁ」 泣くほど寒さに弱いわけではないけれど、これはなかなか堪える。 せめて気分だけでもとさらに強く襟元を締めて、向かう先へと視線を移した。 目指す私の通う高校はここより少しばかり高地にあって、微かに屋上の辺りが見えるのだ。 今まで夜に訪れたことのない場所。近づくにつれてどきどきしてくる。 それは何故だろう。不安なのか、期待なのか、判別はつかなかった。 私はポケットにそっと手を入れてそこにあるものを確かめる。 くしゃっとした感覚。手袋越しのわかりにくい、紙の感触。 ……焦ることはない。 どんどん厳しくなってくる寒さを紛らわすように、もう一度大きく息を吐いた。 自分の吐息はやっぱり白く、儚く、そして微かに温かかった。 正門は固く固く閉ざされていて、その十数メートル右に警備員が立っていた。 すみません、と声を掛ける。途端、ライトの光を向けられて思わず目を手で覆ってしまった。 「ああ、すまんすまん。驚かせてしまったか。どちら様だい?」 「えっと、ここの生徒の者です」 「散歩ってアレじゃないな。校舎内に用が?」 「はい。その、忘れ物をしちゃって。どうしても必要なんで取りに来たんです」 「なるほど。しかし…………本当に入るのかい?」 真剣な顔で訊かれる。 十中八九、あのことだろう。目の前にいるこの人も会ったことがあるのかもしれない。 あるいは噂を知っていて、だから気遣ってくれているのかも、と思う。 私は強がりじゃない、という感情を含んだ声で、 「大丈夫です。私、怪談の類とか苦手じゃないですし、心の準備もできてますから」 「……そうか。ならいいんだが。ちょっと待っててくれな。―――― はい、どうぞ。帰る時には声を掛けるように」 「はい、ありがとうございます」 そういうと、若い警備員の人は微かに笑った。 嘘をついたことに対する謝罪の意も込めてお辞儀をし、私は玄関へ足を踏み入れる。鍵は開いているらしい。 手で押すと難なくガラスの扉は動いて、中に入れてくれた。 電気は点いていない。 足下がどうにも不確かで、転ばないよう気をつけながら下駄箱の上履きを取る。 土足で行っても咎める人間はいないだろうけど、その辺は個人的な礼儀とかモラルとかの問題。 靴を代わりに下駄箱へ仕舞い、爪先から足を入れる。大気に晒されていた上履きは物凄く冷たくて、背筋がぞくっと震えた。 我慢して踵まで踏まずにきっちり履き替え、立ち上がって歩き出す。 廊下を過ぎ、階段へ。 階段を上り、二階へ。 闇の中を、微かな月明かりだけを頼りに進む。 教室の扉は当然ながら閉ざされていた。 ふたつあるうち、黒板、教壇側の方に手を掛け、スライドさせる。がらがらがら、という音が殊更良く響く。 「………………」 寒気がするほど、人気のない世界。 静けさが耳鳴りとなって聞こえる、そんな気さえする。 二歩、前へ。軽く辺りへ視線を向けても、まだ自分以外の人影は見当たらない。 上着と手袋、マフラーを脱ぎすぐ近くの机上に置く。何となく、着込んだ姿では悪いだろう、と思ったから。 しかし、厚着の効果は想像以上だった。 あっという間に手がかじかんできて、染み込むような冷気が身体を震わせて、僅かに歯が噛み合わず鳴り始める。 心臓が縮み上がるような感覚。頭の中に浮かぶのは、寒い、というひとことだけ。 だから私は、その全てを抑えるために目を閉じて。 少し不規則になっていた呼吸を整え、息を潜め意識を、思考をクリアに。 三度深呼吸、そして閉じた瞳を開くまでの僅かの間、 ―――― 正面、教壇を挟んだ窓のそばに、小さな女の子が立っていた。 現れ方は正しく幽霊そのもの。 物音の一切を出さず、隠れていたわけでもなく、まるで初めからそこにいたかのように。 儚く、けれど確かに存在していた。 ふとすれば幼稚園児にも思える身長。骨と皮、なんていう表現がぴったりな身体の細さ。 月光を照り返す髪の色、瞳の色は曇りない黒。膝の裏側、ふくらはぎ近くまである長さ。 そして、左腕には痣にも見える痕。注射痕、いや……点滴痕。 自分自身ではっきりと見て、違和感は確信へと変わった。 目の前の彼女は、まるでひかりくんがそのまま少女になったとしか思えない姿をしている。 私は一言一句を聞き漏らさないように、神経を集中する。 思い出すのは最初に彼女に会ったという生徒の話。 少女は何かを消える間際に言ったのだけど、それは聞こえなかった、と。 単純に声量がなかったからなのかもしれない。……でも、もしかしたらそれは―――― ゆっくりと、小さな唇が開き出す。 あ、という口の動きから始まる言葉を耳にして、私は確信を得る。 それはたぶん、問い。私だけが知ることのできる、答えを求める問い。 「あなたのこころは、どこにあるの?」 内容の予測は全くできていなかった。 何も知らなくて、わからなくて、なのに迷いはなかった。 私が言うべきこと。出すべき答えは、たったひとつ、もう決まっていたから。 ひかりくんと過ごした日々も、 失った時のどうしようもない悲しみも、 少しずつ薄れていく思い出も、 それでも覚えていたいと思うたくさんの記憶も、 そしてこれからもずっと変わらない自分の気持ちも、 私の中の何もかもは、他のどこにでもない―――― 「私のこころは、ここにあるよ」 答えに、声は返ってこなかった。 代わりに、本当に微かではあるけれど、笑ったのだ。 しかしそれは僅かな時間のことで、彼女は胸元に両手を握る形で置き、 「……ずっとまってた。あなたがくるのを。あなたのこたえを」 見て、というひとことと共に腕を花咲くように広げ、 ―――― 瞬間、世界の景色が切り替わった。 夜の色は消え失せ、少女の姿さえも見えなくなり、周りいっぱいで何かが動き出す。 「これは…………」 動いているのは、無数の人と景色だった。 ある者は教室で楽しそうにクラスメイトと談笑している。 またある者は音楽室でピアノの伴奏に導かれ歌となる声を張り上げている。 さばさばとした話し方をする女生徒の前で、もう大丈夫です、と胸を張る人がいた。 帰る間際、中学生らしき子と校門で会って幸せそうな顔をする人がいた。 友達との会話の途中、少しだけ涙をこぼしながらも微笑む人がいた。 職員室で教師に向かって何かを、大切な何かを聞き出している人がいた。 閉ざされたはずの屋上で仰向けに寝転び青空を見上げる二人がいた。 ぎこちなくも自分の気持ちを隠さずにいようと頑張る人がいた。 仲睦まじそうに勉強を教え合う二人がいた。 校舎裏の人気ない場所で告白した女の子と、いいよ、と言った男の子がいた。 そして、ただ無為に日々を過ごした、けれど小さな希望に縋ってここまで辿り着いた、私がいた。 今、私が目にしているのは、学校の、あのひかりくんみたいな少女の記憶だ。 ここにいた、全ての人達の『こころ』の記憶。 ふっ、と夢から覚めるような突然さで世界が戻った。 目の前には広げた腕を下ろしまた直立の姿勢で立ち尽くす少女。 「…………あれは、あなたの?」 「そう。わたしはおもいでをもっていくの」 「彼の、ところに?」 「うん」 私は緩やかに、彼女の姿が薄れゆくのを見た。 ああ、もうすぐ終わっちゃうんだ、と思う。 けれどそれより前に、するべきことがあるから。 「ねぇ、あなたの名前は?」 「………………こころ」 「そっか。……こころちゃん、ひとつ、お願いがあるの」 上着に手を伸ばし、ポケットを探って取り出すのは、 「これをひかりくんに渡してほしいの。……できる?」 昨日の夜に書いた手紙。 差し出し、頷きと共に受け取ったところまで確認して、私は安心した。 本当に、届けばいい。心から願い、最後に。 「もうひとつ、言伝を頼める?」 「なに?」 私は目を閉じ、彼のことを想い、自分の選んだ言葉を信じて。 「―――― ばか、って言っておいて」 声は、聞こえただろうか。 もうここに彼女はいない。こころという名の少女は消え、何もかもが終わったんだと、ようやく納得できた。 どれほどの時が経っただろう。教室の時計へ視線を移し、一時半を過ぎていることを知った。 忘れ物ひとつにそんな時間は必要ない。 あまり長居をすると警備員の人や両親を心配させてしまう。 「さ、帰ろう」 机の上の上着や手袋、マフラーを着込み、気づかないうちに随分と冷えた身体を包む。 この寒さも家に着くまでの辛抱だ。帰ったら風呂に入ろうと決めて、私は歩き出す。 一度だけ、振り返って。 静かに右手を自分の左胸へと導き、 「大丈夫。私のこころは、ここにあるから」 この気持ちは伝わるだろうかと、そう思いながら、学校を後にした。 back|next|index |