その日、輝流ひかりは学校の屋上から飛び降りた。
脳天から地面に叩きつけられ、痛みに悩まされることなく、即死した。

死体が発見されたのは、翌日の早朝だった。
誰も彼が学校に入る姿を見ていない。その頃は宿直も校舎を一度見回りする程度で、異常には気づかなかった。
事件として通報され、校舎は緊急閉鎖。学校側は処理に追われ、三日間の臨時休校となる。
警察による捜査が行われたが、他殺の可能性はなし。単なる飛び降り自殺と結論づけ打ち切った。

息子さんが自殺した、という連絡は即座に彼の両親へと行き渡る。
電話を受けたのは母親。当然ながら、最初は何かの冗談かと思った。
しかし、丁寧な説明をされ、それが事実と認識した後、受話器を置いて彼女は泣いた。十分以上泣き続けた。
出社中の夫へ息子の死が伝えられたのは、ひかりの母が泣き終えてからだった。
当たり前だが、そんな状況で仕事をしている余裕などなかった。

通夜は翌日、葬式はその翌日。
参列する者は親族が大半で、あとは小、中学校と高校の教師面々。
制服を着た子供はほとんどいないと言ってよかった。ただ一人を除いては。
だから、彼女は浮いていた。大人達に囲まれながらも、泣き腫らしたような瞳で遺影を強く見つめるその姿が。

―――― 依月憐は、式の最中、一度たりとも涙しなかった。

悲しくないわけがない。
苦しくないわけがない。
単純に、流す涙が枯れただけ。今もずっと、泣きたい気持ちだった。
そしてそれ以上に、現実の唐突さについていけなかった。

何故なら彼女は、いや、家族さえも、彼の死の理由がわからなかったから。
こうして本当に死んでしまうまで、ひかりは欠片もそんな素振りを見せなかったのだから。










先天性心疾患。
生まれついた心臓の病気を総称して言う。
心室、心房などの異常、例えばそれらを隔てる壁が欠けていたり、血管が正常に機能しなかったりする、病というよりは欠陥だ。
手術で根本的な治療が可能なものもあれば、一生を掛けて付き合わなければならないものもある。

輝流ひかりの疾患は、治療のできないものだった。
心臓の構造自体に異常はなく、しかし心筋の働きが他人より弱かったのだ。
それはつまり、血液が上手く循環しないということ。"普通の人"と同じようには生きられないということ。
慢性的な貧血で倒れやすく、さらに、ふとした拍子で止まってしまう、そんな危険も孕んでいた。
そのため激しい運動は厳禁、薬を常備し、通院、場合によっては入院することも日常茶飯事だった。

彼が自分の身体のことを知りたいと願ったのは、比較的早い。
小学校に入る頃には既にある程度まで説明を聞き、その事実を受け入れていた。

不安定な日常のせいで、保育園にも、学校にも満足には通えなかった。
月に一度か二度、どうにか行けるくらいで。そんな些細な楽しみも、三年生に進級した時、途絶えた。
身体の成長に心臓が追いつかなくなり、さらに危うくなってしまったから。

見慣れた布団は、固いベッドに。
古い木造の壁も味気ない病室の白へと移り変わった。
八歳にして、完全な入院生活に突入。家から歩いて十五分もしない学校が、遙か遠くに感じた。

……彼は、生きることに疲れ始めていた。
何の楽しみもなく、朝を迎えて。個室で一人、暇を持て余さないために本を読み、窓から外を眺め、眠る。
繰り返して、繰り返して、終わらなくて。まるで地獄のようだった。
両親は仕事で忙しく、あまり見舞いには来れなかった。それが自分のためであるというのを彼は知っている。
僕をここに居させるために、生きていられるようにするために頑張っているのだと。
その優しさが、気遣いが、愛が、嬉しかった。そして、心苦しかった。

意識を失くし、目覚めたら数日後だったことが幾度もある。
真っ白な天井を目にする度、これは夢じゃないか、と思うのだ。
本当の自分はもうここにいなくて、どこにもいなくて――――

―――― なら、どこにいるの?

いつ死ぬかわからない、いつまで生きていられるかわからない。
医師に告げられ、事実と認め、怯えるのにも飽きて受け入れた現実。
彼には、自分が生きてここにいる、実感がなかった。


だから。
輝流ひかりが依月憐に出逢えたのは、正しく運命だったのかもしれない。

初め、義務的な、事務的な顔合わせだったのが。
少しずつ打ち解け、近づき、互いを知り。
語り合い、茶化して、笑い合うようになった。

憐はひかりの望むものを持ってきてくれたのだ。
学校での出来事。他愛ない日常の経過。昨日読んだ本の面白さ。季節の感触。
病室の中にはない、ひかりが得ることのできない全てを、彼女は惜しげもなく与えてくれた。

心臓のことも、自分がいつか死んでしまうことも、憐には言えた。
発作を起こして倒れた時も、起きたら傍らにいた彼女がほっとした表情で「よかった」と呟き、手を握られた。
泣き言も漏らした。逆に話されたこともあった。聞いて、聞かれて、答えて、答えられた。
変わらず、離れず、憐はひかりのそばにいてくれた。

受験をする、と決めた時だって。
二人で教科書を広げ、ノートを見せ合い、違う場所で試験を受けて。
同じところにいなくても、繋がっていた。力になった。

入学式。我が儘を言って、通うことが許され。
一日だけでも、夢のひとつが叶った。長らく忘れていた、学校の空気を味わえた。

こんなにも嬉しくて。嬉しくて。幸せで、幸せ過ぎて。
幸せだったから、ひかりは――――


―――― 憐を、愛しいと、思ってしまったのだ。










そして時間は全てを流し、薄れさせていく。
憐は緩やかにひかりの死を受け入れ、悲しみも、寂しさも、忘却していった。

どうして彼が自殺という決断をしたのか。
そんな疑問もまた、静かに、自然に記憶の奥底へと沈めていくことになる。


……一年後、その鍵を開けるまでは。



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