それを私に伝えたのは、他でもない彼だった。
自らの意思で、自らの決断で、私に伝えてくれたのだ。

「…………僕の病気はね。今の医学じゃ、治せないんだ」

不治の病。その言葉の、何と非現実的なことか。
一生、永遠に治癒されないもの。当人の生き方を、未来を縛るもの。
『いつかはみんなと同じになれる』。そんな希望すら存在しない、あまりに残酷な運命。

私は、いや、きっと私も、初め彼の言葉を、言葉が示した現実を受け入れられなかった。
日常とは程遠い、少なくとも今までは程遠かった世界がそこにはあった。

だって彼はここにいる。笑ったり困ったり焦ったり悲しんだりする。
当たり前のように、私達と同じように、生きている。
その全てを否定された気がした。私と彼は違うのだと、強く拒絶された気がした。

詳しいところまではわからない。
ただ、生まれた時から心臓が弱く、貧血気味で激しい運動も許されず、幾度か本当に死にかけたことがある、と。
彼から、あるいは彼の家族から、そして自分自身の体験から得た情報だ。

病院の敷地内で散歩に付き合っていた時、一度。
普段通りの時間に手紙を届けに来た時、一度。
私の見ている前で、彼は発作を起こした。

一度目は、ぐっ、と左胸の辺りを掴み、膝からくず折れ、苦しそうにうめきながら倒れていく様を、呆然と眺めているしかなかった。
幸いそばにいた看護士の人が適切な処置をしてくれた。
二度目は、冷静さを欠きながらもどうにかナースコールを押すことができた。
慌てて駆けつけた医師に個室を追い出され、結果の報告を待つだけだった。
共通しているのは、最後まで何もできなかった、というどうしようもない事実。

それはどんな言葉よりも強く、強く私に思い知らせたのだ。
日常の危うさを。絶望的なまでの儚さを。ふとした拍子で終わってしまうような、薄氷にも似た壊れやすさを。

なのに。自分が一番良くわかっているのに。明日になったら目覚めないかもしれないのに。
彼はずっと、変わらなかった。変わらずに生きていた。
そのままでいてくれたから、私も怯えて遠ざかることなく、接し方を変えないための努力ができたのだ。

長い付き合いの中、彼は多くを求めなかった。
無理なことは無理だと諦め、可能なことは可能な範囲で選び。
何かを頼みはしても、我が儘だけは決して言わなかった。
だから私ができたことは、風呂に入れない彼の清拭と、外出の付き添い程度。
それで少しでも、楽になってくれるなら。手を貸せるのなら、良かった。

小学校も、中学校も、優秀な成績を病室の中で残し、彼は特例として卒業証書を手にした。
高校に行くかどうかは自由で、両親は行かなくてもいい、きっと苦しい思いをすると諭したが、結局受験の道を取った。
志望校は私と同じ市立霧ノ埼高校。私はただ近いから決めただけだが、彼に訊いても理由は語らなかったのを覚えている。
中学側の干渉によってか、事情はともかく、高校は特殊な境遇にある彼の受け入れを許諾。
監視員付きを条件に、病室内での受験を認めた。万が一会場で発作が起きた場合を考えてのことらしい。

そして、彼と私は違う場所で同じ目的のために、ペンを持った。
運が良かったのか努力が実ったのか、二人して合格。
結果発表の日、静かに私達は喜び合って、笑った。

入学式当日。
担当医師から「まあ大丈夫でしょう」という許可の下、彼は数年ぶりに登校をした。
念のため式後のホームルームには参加しなかったが、それでも微かに、嬉しそうな表情で帰り道を歩いていた。
久しぶりに、学校に行けたと。憐ちゃんと一緒に行けたと。
もしもの時のサポート役としても隣にいた私が、自分のそんな立場を一瞬忘れてしまうほどに。
幸せそうで、あんなにも幸せそうで、これからも二人で行ければいいのに、そう、思ってしまった。

……以降、これまで通り、彼は病院での生活に戻った。
入学式での光景は一夜の夢だとでもいうような、呆気ないものだった。

高校入学後、変わったことがひとつある。
月に一度しか認められていなかった外出許可が、その二倍、二週に一度ほどの割合で出るようになったのだ。
それが医師の気遣いなのかはわからない。もしかしたら、諦念の表れなのかもしれなかった。
きっともう『その日』は遠くないだろうから、可能な範囲で自由にしてもいい、と。

時には一人で、時には家族と、時には私と、彼は出かけた。
無理のできない彼に行けるところは制限されていて、形としても散歩かそれに近いもの。長くもいられない。
でも、真っ白な病室から飛び出して外の空気に触れる度、季節の色を感じる度、微笑んで。
大丈夫だよ、僕は嬉しいから、と、優しく言っていた。

―――― なら、どうして。

私だけではない、他の誰も、ただ一人さえも見抜けなかった。
心の奥底で彼が何を思っていたか、どんな気持ちを抱いていたか。
わかったつもりで、実際は何もわかっていなかった。

―――― どうしてあなたはいなくなってしまったの?

その答えを、彼が自分で選んだ理由を、私は既に知っている。
だからこそ。もし、もしこの想いを伝える機会が与えられるなら。

私は――――










机に向かって、夜、冷たくなる手を温めることもせずに、私は鉛筆を走らせていた。
もう一時間ほどになる。書いては消し、書いては消し、納得が行くまで手を止めない。

伝えたいことを上手く伝えるのは、凄く難しい。短い間にそれを強く思い知らされた。
日本語の複雑さと、自分の気持ちの曖昧さが幾度となく言葉に迷いを作る。
その度にこれは違うああこうじゃないと消しゴムに持ち替えた手指が必要以上に力んで、紙を破いてしまったり。

自問自答。
私は、何をしようとしているのか。

……たかが噂に躍起になって、失った人の面影を重ねて。
挙句の果てに変な確信を抱いているのだから、おかしくなったと言われても仕方ないくらいだ。
けれど。冗談にも似たそれを、私はどうしても否定できなかった。
とても小さな、ほんの僅かな可能性だとしても。

書いて、消して。
書いて、消して。
そして、

「……できた」

丁寧に折り畳み、引き出しの中に仕舞ったのは一枚の手紙。
あんなに悩んだのに、最終的に五行程度しか必要なかったのがちょっと滑稽だった。
差し出す相手が本当にいるかどうかはまだ確定していない。明日、それを確かめに行くのだから。

「………………」

ふと、窓の外を見上げる。
今日は曇り空。月も見えない。
明日は晴れるでしょう、という天気予報のキャスターの声を思い出す。

「………………うん」

きっと大丈夫。私はそう信じる。
例え渡せなくても、自分の気持ちに、答えは出せると思うから。

忘れないように頭の隅に手紙の置き場所を留めて、布団の中に潜った。
冬の寒さで冷え切った手足がゆっくり温かくなっていくのを感じながら、私は静かに目を閉じた。



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