それまで私は、大病院に入ったことがなかった。 生まれた時には産婦人科のあるところにいたらしいが、当然覚えているわけもない。 だから病院というと、一人ずつ名前を呼ばれて聴診器を胸に当てられて、なんてイメージだけを持っていたのだ。 小学校三年。 二年に一度の、クラス替えがある時期。 私の通う学校は基本的に三組で、その分入れ替わりが激しい。 半数以上の子と別々になり、代わりに新しいクラスメイトができる。 彼らと親睦を深めたり全く関わらなかったり、つまりこれまでと同じような日常を始めた私は、その頃あることを気にしていた。 ひとつだけ、誰も座らない席があったのだ。 しかもそれは私の隣だった。 何故空席なのか。先生は病気で休んでいるんだ、と言っていた。 私達はその事実のみを受け止めて、どうして、とかは考えなかった。 いないものはいない。そう、私の隣には誰も座ってない。それだけで良かった。 ずっと、隣席不在のままでも平気で。 本来そこにいるはずの子がどんな人間で、どういう事情を持っているのかなんて知らずにいても平気だったのに。 ……六月に入る少し前。 何を思ったのか、先生は今まで自分でしていたことを、私にやらせようと決めたらしい。 理由はひとつ。隣の席なのが運の尽き。私は、毎日の手紙の配達役に選ばれた。 病院の位置と部屋番号を教えられ、三枚ほどの紙束とも言えない手紙を渡されて、頼む、と送り出され。 ランドセルを背負った姿でたった一人とぼとぼと歩いて、気づけば真っ白い大きな建物を見上げていた。 広いロビー。看護婦の人に案内され、辿り着いた部屋のネームプレートに書いてあった『輝流ひかり』の文字。 開いたドアの向こうで、私を迎えた声は「いらっしゃい」。 それが、私と彼との初めての出会いだった。 室内の半分を埋めるサイズのベッド。棚。花瓶。物の少ない、殺風景な場所。 ほとんど自由な外出も許されない彼の娯楽は、読書と会話しかなかった。 少なくとも彼は私が来る度に本を読んでいて、ジャンルはいつもばらばらであったのを覚えている。 たまに自分も読んだことのあるのが置いてあったりすると、三十分も本の内容を語り合うこともあった。 最初はどちらかというと義務的な、行って手紙を渡して帰るだけの作業だった。 でも、いつの間にか。私は彼との触れ合いが楽しくなってきたのだ。 お見舞いと称し、陽が沈むギリギリのところまで話し込む毎日。 彼は必ず私に学校の話をせがんで、それがどんなに何もなくつまらない日のことであっても、喜んで聞いてくれた。 そして最後には満足した、とばかりに微笑んで。小さく、儚く、微笑んで。 ……今でも私は、彼の在り様を忘れられない。 思い返せば十年近くもずっと変わらず、そう、既にあの頃から―――― 目の色にも、表情にも、確かな諦めが満ちていた。 もう少し親密に関わるようになって、彼の両親ともある程度の交流を持つようになってから。 私は彼がここにいる理由を、病院というものが内包する『重さ』を理解した。 悲しみ。哀れみ。虚しさ。切なさ。寂しさ。その時抱いた感情は数知れない。 会わない方がいいのかとも考えた。私自体が彼にとって負担に、迷惑になっているのだろうか、とも。 それでも。彼の優しくも弱い笑みを思い出すほど、離れたくはなかった。 泣き言を語り、語られ、慰め合い、普段家族にも晒さない気持ちすらも見せ合って。 互いに寄り掛かりながら、近づきながら、嫌だとは感じなかった。むしろ嬉しかった。 思い違いでないならば、私と彼の心は通じ合っていた。 義務感から始まった関係は、いつしかかけがえのないものへと変わっていった。 彼が見られない景色を私が見て。 彼が知らない世界を私が知って。 ある時は本に、ある時は写真に、ある時は言葉に込めて伝えていく。 それで、それだけで、よかったのに。共にいられる時間があれば、他には何もいらなかったのに。 全ては出会った瞬間から、あるいはそこより前から始まっていた。 私達の日々は終わることが運命づけられていたのだ、ということがはっきりわかったのは、中学卒業前のことだった。 十二月十四日。三年生である私にとって、最後の終業式の日まで、残り二週間を切り。 そこでようやく、噂の発信源、一番最初の目撃者とコンタクトを取ることができた。 一時期色々と大変だったけど、現在はちゃんと登校しているそうで。 友人経由で話が行き、おかげで全く縁がないにも関わらず機会を得られた。 頼み込んだ末渋々仲介役を引き受けてくれた友に感謝しつつ、放課後、その男子生徒の教室へ向かう。 「こんにちは。あの、お話は行ってますか?」 「ああ、うん。聞いてる。……笑ったり、しないか?」 「はい」 これまでまともに取り合ってくれた人がいなかったのか、前置き付きで話し始めた。 ちなみに、私は新聞部の一年生新入部員で記事の参考として、ということになっている。 嘘も嘘、大嘘だけど、彼は私のことを知らないし、興味本位だなんて言ってしまえば喋ってくれそうにないと思ったから。 「あの日、俺は机の中に大事なノートを忘れたのに気づいて、どうしても必要だったから取りに行ったんだ」 「時間はいつ頃でした?」 「えっと……確か、家を出たのが十時半過ぎ。着いたのは十一時前だな」 「それで?」 メモ用の紙に要点を短く書きながら質問を続ける。 「警備員の人に許可を貰って、玄関で上履きに履き替えて教室に行った。 当たり前だが電気が点いてないから暗かったな。でも、教室の中は月明かりでそれなりによく見えた。 俺は屈んで自分の机からノートを出して、無事に見つかったから安心したんだ。 それですぐ帰ろうと身体を起こしたら、」 「……起こしたら?」 彼は当時の光景を思い出したらしく、微かに震え、次の言葉までに間を置いた。 噂だけでは冗談めかして語られることでも、当人にとっては事実、恐ろしい体験だったという証明のように。 「―――― 想像してみる。 「……それは。確かに、幽霊みたいですね」 「そう。そうだよな。あの時の俺も、幽霊だ、と思った。見た目は完璧に普通の人間だったけどな」 「噂では小さな女の子、と聞いてます」 「ああ。背丈は小学生か、あるいはそれより小さかった。顔つきがどう考えても男じゃなかったし」 「どんな容姿を?」 「あー……白い薄手の、ほら、上と下が繋がってるやつ。子供がよく着るような」 「ワンピース?」 「それそれ。ワンピース一枚で、裸足。でも全然寒そうにしてなかった。平然としてた。 あとは……長い、膝くらいまである髪に、滅茶苦茶白い肌。顔色はあまり良くなかったな」 「随分覚えてるんですね……」 「印象強かったからかもな。怖かったからこそ、なんだろ」 「なるほど」 「……そういやあれ、何だったんだか。いやな、左手に何か刺さったような痕がいくつも見えたんだよ」 「―――――― え?」 「普通に怪我したんじゃああはならないだろうし。どうでもいいけど妙に気になってて」 「…………たぶんそれは、注射痕だと思います」 「注射痕?」 「はい。私、前に見たことがあるので」 ……そう。私は前に見たことがある。 痛々しい名残。消えては新しく付けられる針の痕跡。 ようやく私は、抱いていた違和感の正体に気づいた。 目の前の彼が語る少女は、まるで―――― 「ありがとうございました」 「いや、こっちこそ。何というか、話して、真面目に聞いてくれて……楽になった」 そして教室に一人残った私は、途中で用を足さなくなったメモ帳を懐に仕舞い、目を閉じる。 幽霊少女の姿を思い浮かべ、その隣にもうひとつの姿を並べる。 膝辺りまである黒い髪。白過ぎるほど白い肌。少し青ざめたような顔。左手の注射痕。 それは、あまりにも見事な、偶然のひとことで片づけるのは難しい、一致。 おそらく私にしかわからない、見抜けない、答えへの重要な手掛かり。 ―――― まるで、ひかりくん、そのものだ。 back|next |