一周忌。去年よりも心なしか参列者の減った式が終わり、人が散り始める。
次第に静けさを増してきた部屋で、憐も折っていた膝を戻し、立ち上がった。
長居をしても仕方ない。むしろ事後処理に支障が出るだろう。
そう思い、下駄箱に向かおうとしたところで、声を掛けられた。

「…………憐ちゃん」

懐かしい呼び名。彼のものと同じ、呼び名。
振り返ると、そこにはひかりの母がいた。無論、喪服だ。
一年も経てば泣くこともなくなったらしく、しかし悲しげな表情は隠せていなかった。
ひかりが憐と仲良かったことを、彼の母は知っている。
だからこうして足を運んでくれているのは有り難いが、彼女は息子を必要以上に思い出させるのだ。

「どうしました?」

それがわかっているから、憐も何故、という意味合いを込めて訊く。
一年来、憐と輝流家の交流はあまりなかった。
誰が悪かったわけでもない。ただ、会うこと自体がどうにも気まずかったから。
橋渡し役だったひかりが不在の今、互いを繋ぐものは『輝流ひかり』という過去しか残っていない。

「……これを、見てくれる?」
「…………何です?」
「開けてみて」

渡されたのは、洋封筒。
糊か何かで軽く留められただけのものだ。紙だけではない重みを感じる。
憐は少し戸惑ったが、指を通し、くっついた部分を剥がして中身を取り出した。
二つ折りにされた手紙が一枚。封筒を右手指に挟んだままそれを開くと、

「…………え?」

並んでいたのは見慣れた文字だった。
依月憐様へ、という書き出しの文章。一番下まで目を通せば、輝流ひかりの名前。
筆跡も記憶と寸分違わない。言葉の使い方まで、間違いなく本人の書いたものだ。

「一年前、あの子の机の上に、置いてあったの。一年経ったらあなたに渡して、って書き置きと一緒に」
「私、に?」
「そう。他ならぬあの子の意思よ。……なんて書いてある?」
「あ、はい…………」

読み進める。
そこにはただ、憐に対する、父と母に対する、病院で世話になった医師や看護士に対する謝罪で満ちていた。
言葉を尽くしても決して許されない、でもそれが自分のできる精一杯のことだと言うような、ひたすらな謝罪。
ごめんね。ごめんなさい。申し訳ありません。彼は手紙のほとんどを謝って、謝って、謝ることに使っていて。

まるで、遺書だ。
けれど肝心なところだけが抜けている。

―――― 彼が自殺をした、その理由が書かれていない。

手紙の最後はこう締め括られていた。
憐ちゃんにだけは知ってほしい、と。
彼女は封筒を引っ繰り返し、感じた重みの正体を理解する。

「鍵? おばさん、これは……」
「……たぶん、あの子の机の引き出しを開けるためのよ。去年調べたけど、鍵が見つからなかったの」

小さく、素っ気ないシンプルなデザインの金属。
ひかりが何か、大切な何かを隠すために入れた物。

憐はそれを手紙と共にポケットに仕舞い込む。
そしてひかりの母と向き合い、

「…………この後、お邪魔させてもらっても、いいですか?」










きぃぃぃぃ、と軋む音が響く。
途端、閉じ込められていた急な冷気が流れ出し、憐は顔を顰めた。
時間が夜なのもあって部屋の中は暗く、ほとんど何も見えない。手探りでスイッチを探し、電気を点ける。
指先が触れたのを確認して、少し力を加えれば、一面の闇は板張りの室内へと切り換わった。

幾度か来たことのある場所。しかし、もうだいぶ訪れていなかった場所。
実に殺風景な一人部屋で、本棚と、机に椅子しか配置されてない。押し入れにも布団と少数の衣類だけのはずだ。
しかもそれらに触れた形跡が、例えば同じ輝流家の台所周りなどと比べて圧倒的に少なかった。

当然の話だ。
ひかりがここを自分の寝室として使ったのは、外出、宿泊許可を得て家に帰ってきた時だけなのだから。
多くても二週に一度、なんていう頻度では、そうそう汚くなるはずもない。

「……でも」

憐はこの場所に、廃屋の中にいるかのような印象を覚えていた。
捨てられた空間。人の匂いのない世界。
手入れは行き届いているらしく、さほど埃も積もっていないが、生活感のなさは拭えない。
こんなにも寂しいところだったんだ、と思い、記憶の薄れを実感する。

目的の机はドアの位置から見て左側に鎮座していた。
鍵穴が付いている引き出しはひとつ。他のいくつかよりも横に大きく、それなりに高さもあった。
一度力を入れて引いてみるが、突っ掛かって動かない。
確かに閉まってる、と納得し、ポケットの鍵を右手の親指と人差し指で固定して持ち、差し込み、捻る。

かちゃり。
軽い音がして、鍵は呆気なく開いた。

そっと、引く。ゆっくりと、中身が露わになっていく。
『憐ちゃんにだけは知ってほしい』。手紙に書いてあったそのひとことの意味が、ようやくわかる。
完全に引き出しを動かし終わり、そこに入っていたのは、

―――――― 紙の、束?」

数十枚にも及ぶ、積み上がった紙の束だった。
全て同じサイズで、きっちりと整い揃えられている。
一番上の紙には何かが記されていて、おそらく、下にある他のもそうなのだろう、と憐は思った。

持ち上げ、取り出す。
机に置いて、椅子に座り、気持ちを落ち着け、読むための体勢を作ってから、憐は最初の一枚に目を通し始めた。



『僕の病気は治らない。
 だから、僕は間違いなく、親よりも、憐ちゃんよりも先に死ぬんだろう。
 それはずっと前からわかってたこと。ずっと前から、決まってたこと』

『憐ちゃんと一緒に公園を散歩した。
 特別なことは何もできないけど、憐ちゃんが笑ってくれてたからそれだけでいい。
 この外出が最後にならないように、と思う』

『本を読むのは嫌いじゃない。色々なことが一冊一冊の中に詰まってる。
 だけどそこには現実がなくて、本物は全部、部屋の外にある。
 もっと自由になれたら、そんな想像もするけど、無理な話だってことは自分が一番よく知ってるから』

『今、こうして字を書いてる手がすごく冷たい。
 その手を頬に当てる度、ああ、生きてるんだな、って感じる。
 冷たさにびっくりして止まると怖いから、心臓には触れないけど』

『母さんの作るご飯はおいしい。病院食とは段違い。
 あったかくて、味付けも全然別物で、何より三人で食べられるから。
 一人で食べるより、何倍もいいんだって身に染みてわかるんだ』


日記のように、彼の字はその時のことを、その時の思い出を切り取って残していた。
そしてそれら全てはひとつたりとも変わらず、遺書でもあった。


『今日があっても、明日があるわけじゃない。
 何もかもが不確かで、簡単に失ってしまえるものだから。
 僕も明日、そうなってるかもしれない』

『生きる、ってことは、実はとても難しいんだってことを僕は知ってる。
 机に向かって字を書くだけでも、ひやひやしながらで。
 本当、僕は生きてるだけで精一杯なんだと心から思う』

『神様が願いを叶えてくれるなら、こう願う。
 僕をみんなと同じにしてください、って。
 誰かと一緒じゃないのがこんなに寂しいなんて、きっと神様は知らないんだ』

『父さんも、母さんも、あまりお見舞いには来ない。
 仕事が遅いから来れないんだってことを、僕は誰より理解してる。
 入院するのは無料じゃないんだってことも』

『幸せになりたいと思った。
 だけど、幸せになれないと思った。
 なのに今、僕は自分を幸せだと思ってる』


ひかりの全てがそこには込められていた。
他人に隠し続けた想いも、痛みも、苦しみも、全て。


『憐ちゃん。優しい憐ちゃん。僕にたくさんのものをくれた憐ちゃん。
 あんまりにも優し過ぎるから、僕は、憐ちゃんを好きになってしまった。
 それが、何より、辛い』

『一緒にいたいよ。
 無理な話だってわかってても、それでも一緒にいたいよ。
 どうして僕はこんな風に生まれてしまったんだろう』

『毎日、明日が来ないんじゃないかと思いながら眠りに就く。
 怖かった。失ってしまうことが、怖かった。
 今ある幸せを突然奪われてしまう気がして』


めくる紙が、なくなる。
一番下にあったのは、遺書の体裁を取っていないものだった。


『今日から、この机の上で、遺書の代わりになるものを書いていこうと思う。
 僕がいつ死んでもいいように。
 少なくともそれは、僕の生きてた証になるから』


―――― ぽとり。
憐の瞳から、一粒、二粒、雫が落ちていく。

「あ、ああ………………」

言葉にならない。
この感情は、言葉にできるものじゃない。
視界がぼやけて、歪んで、何もわからなくなって、やがて開けているのが辛くなって、目を閉じる。
けれど抑え切れず、頬を伝うものがある。溜まり、流れ、こぼれていくものがある。

……生きていたいと思うのは、そんなにいけないことなのか。
どうして自分には、他の誰かには許されて、彼には許されなかったのか。

家族の、憐の重荷になりたくなくて。
きっと手に入れた幸せを唐突に失うのには耐えられなくて。
そうなる前に終わらせようと。せめて、死だけは自分の選択で決めようと。
それはひかりが、滅多に我を通さなかったひかりが望んだ、我が儘だったのだ。

「ひかりくん……、ひかりくん、ひかりくん、ひかりくん、ひかりくん…………っ!」

想いが、溢れる。溢れて、止まらない。
一年前よりも激しく、強く、子供のように泣いて、泣いて、泣き続けて。
みっともなく顔をくしゃくしゃにしながら、どうしようもないほど声を張り上げて、叫んで。


―――― それでも、憐は、思うのだ。
死んでしまったらそこで終わりだと。
私は、できる限り、ずっと、生きていてほしかった、と。


……まだ生きている憐が、もうどこにもいないひかりに願う、それがたったひとつの我が儘だった。



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