/epilogue


 空は青く、雲も白く、雨なんて降りそうにもない。
 おかげで雨天中止という事態は免れそうだった。朝起きた時、すぐに部屋を飛び出して外の様子を確かめ、安堵したものだ。
 後で会って、自分以外の皆も同じ気持ちだったと聞いて少し嬉しかった。それは、今日を待ち焦がれていた何よりの証拠だから。
 四人揃って昼前に自転車で向かうと、既に境内には多くの屋台が並び、人で賑わっていた。とはいえはちきれそうなほどの数がいるわけではなく、例えば紅咲の駅前と比べれば喧騒の規模は些か小さい。
 しかし、そこには祭りの雰囲気があった。誰もが時間に追われることなくゆったりとした心構えで楽しんでいるように感じる。年齢層も様々で、年端もいかない子供から腰の曲がった老人までが、思い思いに声を上げ騒いでいる。
 前もって知らされた舞台までは、まだ余裕がある。朋和達もささやかな予算を手に、まずは祭りを楽しむことにした。昼も屋台物で済ませるつもりだった。
 スタンダートなところで焼きそばやたこ焼き、お好み焼きといった腹に溜まるものを買う。他はだいたい一種類につき一つの屋台だが、そういう定番の品物は違った値段、違った中身で出している場所がいくつもある。だから最初に見つけた屋台ですぐに、というのは早急で、一度境内をぐるりと回ってから良心的な値段をつけているところを見抜くのがいい。そう言ったのは涼澄で、三人はその言葉に従いそれぞれ好みのものを購入した。涼澄もささっと昼食を確保し、主催側が用意したスペースで腰を落ち着ける。

「俺達の出番は、確か二時頃だったか」
「はい。四番目くらいだったと思いますよ」
「結構物好きって多いのね……」

 ステージと呼んでいいのかどうかもわからない小さな台は、既に用意されている。
 予定では一時半からそこで事前に申し込んだ者が何らかの芸を披露する、という流れだ。
 前日、参加者を集めた簡単な説明会があったのだが、どうやら進んで舞台に立とうとする唱子曰く『物好き』は二桁の数もいるらしかった。勿論、合唱同好会もそこには含まれる。

「カズくん。あっちの方はどうなってる?」
「……大丈夫。お父さん、車のチェックとか、してたし」
「なら平気かな」
「今更疑問なんだけど、荷台なんかに乗せて壊れないものなの?」
「紐か何かで固定して起伏の少ない道を選び、速度を出さずに行けば問題ないだろう」
「まあ、もし上手く動かなかったら最悪伴奏なしで頑張ろう」
「そうね。何とかなる、か」

 夏祭りを発表の舞台とするに当たり、一つ重要な問題があった。
 休日、睦宮家での練習で伴奏に使われているのは、部屋に置かれた電子ピアノだ。どこかから持ってくるにしてもグランドピアノでは大き過ぎるし、幾分手軽だから本番もそれを使おうということになったのだが、その際考えるべきは、どうやって会場まで持っていくかだった。
 何しろそれなりに大きく、人の手では軽々しく運べない。自転車に括りつけるのも論外で、積載を目的とした車両に積んで移動させるしかなかった。高校生の四人では免許がそもそも取れず、大人二人の中で運転できるのは四谷教諭だけだったが、彼が所持しているのは一般的な四人乗りの物で、とても電子ピアノを載せられるスペースはない。仕方ない、レンタカーでも借りてくるか、という話になったところで、朋和が解決策を出した。

「……家に、トラックが、あります」

 刈り取った稲を運ぶために、朋和の父はトラックを使用している。それ以外にも買い物などでしょっちゅう都市部との往復に駆り出されているのだが、元々は大質量の積荷を載せる目的で使われているものだ。荷台の広さを考えれば、電子ピアノを積んでもまだ余りある。
 頼み込むのに、さしたる苦労は要らなかった。朋和の父は二つ返事で了承したからだ。
 ついでに当日は父親だけでなく、母と祖母も連れて見に来ると宣言された。正直朋和はちょっと困ったが、荷物運びをしてもらう礼代わりだと思って納得した。
 そうしてやるべきことは全て済ませ、今や抜かせない重要なメンバーとなった二人を朋和達は待っている。
 四谷教諭は午前中学校で仕事があるため、そっちで昼まで働いてから遅くとも一時までには来ると言っていた。学校まで自分の車で通勤しているらしく、交通手段に関しては心配要らない。一方静音は朋和の父が電子ピアノを運ぶために一度睦宮家に寄るので、その時に一緒に乗せてもらうという話になっている。神社前に着いたら携帯で知らせる手筈になっており、連絡が入った時には四人で協力してピアノを境内まで持っていく。階段を一度も落とさず丁寧に運ぶのは骨の要る作業だが、そこを頑張れば本当に万全、残るは本番だけになる。
 朋和の母と祖母は、徒歩で向かうとのことだった。自転車なら十五分も掛からないそうなので、小野家からはかなり近いのだろう。それでも歩きなら三十分近くを要するのだが。

「……ん、ごちそうさま、でした」

 四人の中では一番遅く食べ終わった朋和が、空になったプラスチックケースの前で手を合わせる。ゴミ箱に捨てに行こうと席を立とうとしたところで、長身の人影が現れた。

「悪いな、今来た」
「あ、先生。お疲れ様です」

 代表して奏が声を掛けると、四谷教諭は軽く手振りだけで挨拶をする。

「いや、ここの階段結構きついな……。俺すっげえ体力落ちてるわ」
「え、そんな上るの大変でした?」
「お前らまだ若いからそんなことが言えるんだよ。やっぱ煙草がまずいか……」

 そう呟きながら息を整えた四谷教諭は周囲を見回し、静音の姿がないことに気づく。
 まだ全員揃ってなかったか、と苦笑して、

「あと三十分くらいで最初の奴が舞台に立つんじゃなかったか?」
「はい、一時半から、だから……」
「もうそろそろお母さんも着く頃だと思うんですけど……あ、電話だ」

 テーブルに置いていた奏の携帯が震え始める。周りを気にしてかマナーモードにしていたそれを手に取り、通話ボタンを押して奏は耳に携帯を当てた。会話は十五秒程度、ほとんどはうん、うん、という相槌で、わかった、今行くね、と言ったところで切れたようだった。携帯をポケットに仕舞い、奏はトラックが下に来たことを告げる。
 五人は小走りに階段を下り(四谷教諭は疲れていたのか急がなかった)、一番下まで辿り着く。そこには動きやすそうな軽装をした静音と、トラックの荷台で固定用の紐を解く朋和の父の姿があった。

「ごめんなさいね。少し遅くなっちゃって」

 そのひとことに皆で揃って首を横に振る。それから荷台に載った電子ピアノを、まず朋和の父と四谷教諭が持ち上げ、一緒に載せてあった木板で地面と荷台を繋ぎ、ゆっくりとそこを通して降ろしていく。静音はその間不安定な木板を押さえ、四人は降ろした電子ピアノを受け取り階段の前まで運んだ。ここまでで一息。そして、いっせーの、の掛け声で同時に再び持ち上げる。足並みを揃えつつ、慎重に一段一段を踏みしめて上る。辛くなったら休憩し、また持ち上げを何度も繰り返して、どうにか境内まで電子ピアノを持ってくることができた。

「いつ落とすかって、すっごい緊張したわ……」
「わたしも……」
「二度ほど危なかったな」
「先輩、そんなこと、さらっと言わないで……」
「ふふっ、そんなに緊張したなら、きっと本番は落ち着いてできるわね」

 静音の冗談で、力が抜ける。
 しかしまだ、これをステージのところまで運ばなければいけないのだ。

「さ、もうちょっとだけ頑張ろう」

 励ますような奏の言葉に、朋和達は頷いた。
 実に息の合った、動きだった。










 心臓に手を当てると、やっぱり物凄く速く動いていた。
 どんなに努力しても、頑張っても、この緊張感だけはどうしても拭えないらしい。
 今、朋和達は舞台の後ろで待機している。目の前では歳の割に随分と身体つきの良い、老人と言うにはまだ少し若い男性が、奇声を上げながら頭突きで重ねた瓦を砕いている。気のせいでなければ額から血を流しているように見えるのだが、大丈夫だろうか。

「お母さん、ピアノの方は準備できてる?」
「ええ、さっき一通り弾いてみたけど問題なかったわ」
「先生はいけます?」
「久しぶりの舞台で、ちょっとわくわくしてきたくらいだ」
「じゃあ心配要りませんね」

 電子ピアノの後ろからはコンセントが延び、主催側が用意してくれた延長コードと繋がっている。まだケーブルには余裕があり、舞台まで動かしても抜けることはなさそうだった。それに触れている静音は経験の豊富さからか、まるで心は揺れていない。
 四谷教諭は、軽い口調ながらも普段より落ち着きがなく、右手に握った指揮棒の先を左手ですりすりと擦っている。それを見て、朋和は先生でも緊張するんだ、と思った。

「先輩は……大丈夫そうですね」
「ああ。自分で考えていた以上に、俺は図太くできているらしい」
「自覚なかったんですか……」
「それはどういう意味だ、白坂」
「いえ、何でもないです」
「……唱子ちゃん、初めての舞台は、怖い?」
「そんな、怖くなんて――ないわけじゃ、ないけど。ここまで来たんだもの、やるわよ」
「うん、一緒に頑張ろう」

 目を閉じて集中していた涼澄は、奏の評価にいつも通り表情を変えず答えていた。どころか、唱子の余計なひとことに突っ込む余裕すらある。
 逆に唱子は、普段と同じであろうとしていながらも、自分さえ誤魔化せていないようだった。けれど奏に見抜かれたところで本音が言えるくらいには、己を見失っていない。
 そして、皆の緊張をほぐそうと気を配っていた奏は、

「ん、どうしたの、カズくん」
「……奏さん、すごく、落ち着いてるな、って……思って」
「そう?」

 舞台を前に、笑みさえ浮かべている。
 一方の朋和はさっきからドキドキしっぱなしで、深呼吸をしても胸の鼓動は治まらず、今度は身体が強張ってきた。足は重く、上手く動かない。終いには震え始める始末。

「あ……」

 小さく細めた声も、ふるふると震えていた。

(こんなんじゃ、ぼく……)

 どんなに練習をしても、勇気を出しても、怖いものは怖い。
 学校の屋上で涼澄を前にした時も、祖母の代わりに近所の子供達に向けて童歌を歌った時も、ここまで緊張はしなかった。乗り越えた、と思った壁は、想像よりもずっと高く、今も朋和の心を挫こうと立ち塞がっている。
 ……失敗したらどうしよう。自分のせいで台無しになったら、どうしよう。
 そんな、弱い気持ちが噴き出して――

「……大丈夫」
「奏、さん」
「大丈夫。大丈夫だから」

 そっと、奏に手を握られた。
 包み込むような触れ方は優しく、温かい。そして、ほんの僅か、奏の手も、震えている。
 それを知って、嘘のように――朋和は落ち着いた。
 余分な力が、肩から少しだけ抜ける。重い息が口から漏れる。
 本番はもうすぐで、緊張して、身体は強張っていたけれど。
 でも、そんなものを全て塗り替えるほど強い感情が、朋和の胸を満たした。
 仕切りすらない向こう側、舞台上から、進行役の人の、ありがとうございましたー、という声が聞こえた。額をタオルで押さえた男性が降りてきて、すれ違い様、六人に頑張れよ、と言い残す。

「さ、行こう」

 奏が皆の気持ちを代弁した。
 電子ピアノと椅子を持ち上げた四谷教諭と涼澄が、穏やかに微笑む静音と苦笑いを浮かべた唱子が、揃って頷く。
 ……手を繋いだまま、朋和と奏は、前を見た。
 自分達がこれから立つ、舞台を。

 ステージの周りに集まっていた観客は、二十人にも満たなかった。
 彼らはまず男二人の手で運ばれてきたピアノに視線を移し、続いて現れた四人に注目する。
 合流した六人は無言で礼をしてから、各々の配置についた。
 静音は電子ピアノの前に座り、蓋を開けて鍵盤に触れる。
 観客から見て一番左に涼澄、そこから奏、朋和、唱子の順に右へと並び、指揮者たる四谷教諭は全員が見える位置、つまり舞台の最前面に立つ。観客に背を向けた格好だが、皆を見ずに指揮はできないのだから仕方ない。
 咲穂高等学校の合唱同好会である彼らのパフォーマンスが合唱であること、そしてどんな曲を歌うのかということは、六人が舞台に上がる以前に、予め進行役の者が告げていた。
 観客達は初めて聞いた曲名に、どんなものだろうかと思いながら、静寂を守った。
 ぴんと空気が張り詰める。祭りの喧騒まで止むことはなくても、ステージの周囲だけにはその瞬間、確かに緊張が走った。
 舞台上で朋和は、自分達を囲む人の中に両親と祖母を見つける。
 目が合い、自然と薄く笑みがこぼれた。
 ――もう平気だった。
 四谷教諭が指揮棒を掲げる。唾を飲み、今はただ、それだけに集中する。
 前奏が、始まった。

 四人の声を、観客は聞いた。
 マイクも拡声器も使わず、綺麗に音を響かせる四人の声を。
 凛として透き通るような、ソプラノの奏。
 拙いながらも自信に満ちた、アルトの唱子。
 ボーイッシュで芯の通った、テノールの朋和。
 曲の存在感をぐっと深く強める、バスの涼澄。
 それをあまり主張せず、しかし見事にフォローするのは静音の伴奏だ。
 時折音が揺れそうになるが、そこを整えるのは四谷教諭の指揮。
 決して、特筆するほど上手くはない。激しく心に訴える何かがあるわけでもない。
 ただ、彼らは最初から最後まで、胸を張っていた。
 緊張の残っていた表情も、歌が進むにつれ、楽しそうな笑顔に変わっていって。
 一曲を終え、二曲目、奏と朋和が高音パートを、涼澄と唱子が低音パートを担当する変則的な混声二部合唱を披露した時にはもう、どこにも強張りの色は窺えなかった。六人全員が、満面の笑みを見せていた。
 まるで――歌うことが、奏でることが、本当に、本当に楽しいのだと言うように。

「………………」

 伴奏と伸びた四人の声が、同時にフェードアウトする。
 指揮棒の一振りでそれも断ち切られ、無事に二曲が歌い終わった。
 時間的には、十分経ったか経ってないか、そんなものだろう。だが朋和にとっては気づけばいつの間にか歌いきっていた、というくらい早く感じたのて、少し驚いた。
 静音が椅子から立ち上がり、奏の隣に並ぶ。四谷教諭も唱子の横へ移動した。
 目配せだけをし、六人で揃って、礼。
 観客はまだ無反応。それを恐ろしく思いながらも、朋和はゆっくり、頭を上げる。
 ……初めに、誰かが手を叩いた。朋和の、祖母だった。
 その音に続くように、次の誰かが、また次の誰かが、連鎖的に拍手をする。
 ぱち、ぱち、ぱちぱちぱち――
 それは喝采というほど大きくもない、ささやかなものだ。
 けれど、

「……ありがとう、ございます!」

 奏の、感謝の言葉が全てだった。
 ふっと、朋和は足から力が抜けるのを感じた。
 膝を折って地面に尻餅をつく。

「わ、カズくん、大丈夫!?」
「う、うん。気抜いたら、力、入らなくなっちゃった」
「小野君、立てる?」
「……ごめんなさい、無理そう」
「ほら倉本、背負ってやれ」
「そう言おうと思っていたところです。小野、乗れ」
「先輩……はい」
「奏、ピアノ運ぶの手伝って」
「わかった。じゃあみんな、戻ろうっ」

 背負われながら朋和は、少しだけ、振り向いた。
 まだ続く小さな拍手。それが自分達を祝福しているように聞こえて、

「……奏さん」
「何?」
「また、やりたいね」
「………………」

 一瞬。
 奏は酷く驚いたような顔をして。

「……うん、またみんなでやろう!」

 それから嬉しそうに、頷いたのだった。





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何かあったらどーぞ。