/5 放課後、他の三人に先行して社会科室の鍵を受け取りに来た奏は、初め耳を疑った。 フックに引っ掛けるための鉄製リングのみがついたそれを渡され、それじゃあ、と反転して準備室を出ようとしたところで、四谷教諭に呼び止められ、こう言われたからだ。 「なあ、睦宮。……お前こないだ、人を探してるって言ったよな」 「あ、はい。指揮者とピアノ奏者を。えっと、後者はもう見つかったんですけど、まだ指揮者は当てがなくて……」 「その件だが、俺に当てがある」 「そうなんですか!? 教えてください、わたし交渉に行きますから!」 「……俺だ」 「へ? えっと……今、なんて?」 「俺が、指揮者をやろう」 一度は断られた、という以前に、初心者と思っていた相手である。奏が驚くのも当然で、ある意味予想通りだった反応に四谷教諭は自嘲の笑みを漏らした。 「先生、音楽の経験なかったはずじゃ……」 「嘘吐いた。悪かったな。本当は昔、音楽教師を目指してたことがあったんだよ。そん時にだいたいの知識は頭に入れて、一回学生オケの指揮を任されたこともある」 「うわ、それ凄いじゃないですか!」 「失敗したけどな」 何気なくこぼすと、奏が絶句するのがわかった。それを若いな、と思う。 「それなりに努力はしたんだが、あの世界はそんなに甘くなかったってこったろ。舞台でみんなに情けない演奏させちまって以来、指揮棒は握ってねえ。四捨五入すれば十年もだな」 「……無理、してませんか? わたしがあんなこと言ったから、その」 「馬鹿か」 「あうっ」 割と強めの力で頭をはたく。ぱしん、といい音がして、奏は軽く仰け反った。無言で頭頂部を押さえ、何するんですかと視線で訴えてきたので再度、次はがら空きの額に一発。 「生徒が教師を心配すんな、百年早い。いいか? 誰かに強制されたわけじゃない、俺が決めたんだ。仕方ないなんて気持ちは一切ねえよ」 「じゃあどうして……」 「腑抜けた自分を殴りつける意味合いと、あとはまあ、そうは見えないかもしんねえけど、教師だからな、俺は。困ってる生徒には大人らしく手を差し伸べるべきだろ」 「……ありがとう、ございます」 「おう。仕事もあるからあんまりそっちの練習には顔出せないが……こっちはこっちでリハビリしとくし、暇があったらなるべく付き合ってやる。ほれ、携帯出せ。番号教えるから」 「はいっ。……あ、先生」 「何だ?」 「実はさっきの昔音楽教師をやってて、っていうのは口実で、わたしの番号を入手してどうとか、そういういやらしい目的じゃないですよね」 四谷教諭は奏に何も言わず強烈なデコピンをかました。 額を押さえて悶絶する奏。それを睨むように目を細めて眺め、呟いた。 「そうされたいんならもっと成長しろ。お前にゃ全てが足りない」 三人の中で最初にやって来たのは朋和だった。 奏を見つけ小走りに駆け寄り、不思議そうな表情を浮かべる。 「睦宮さん……何だか、顔がにやついてる」 「え、そうかな? やっぱりそう見える?」 「うん。すっごく、嬉しそう」 どうしてかを訊こうとするが、奏はみんなが揃うまで待っててと朋和を制止したきり口を開かない。時折うふふ、と忍び笑いを漏らしては頬を緩ませている。正直、ちょっと不気味だった。 朋和に少し遅れて唱子が続き、涼澄はその二分ほど後に現れた。どうやら唱子は途中で軽い面倒事に巻き込まれ、それで同クラスの朋和よりも遅かったらしく、雑談は愚痴から始まった。 「名指しで担任に荷物運ぶの手伝えって頼まれたのよね」 「うわ、災難だったね唱子ちゃん」 「すぐ教室出ちゃったから、ぼく、気づかなかった……」 「小野君の薄情者ー」 「うぅ、ごめんなさい……」 「あ、いや本気で言ってないからそんな申し訳なさそうにしなくても」 「睦宮は随分早かったようだが」 「ホームルームがあっという間だったんです。先生急いでたみたいで」 「そうか。逆にこちらは長話をされてな。クラスメイトが嫌そうな顔をしていた」 集まってすぐに練習を始めるわけではない。だいたいはこうして会話で和んでから、奏がさあ今日も頑張りましょう、と立ち上がっての活動になる。 しかし、まとめ役たる奏は雑談に一区切りがついても動く気配を見せなかった。 「みんな、ちょっといいかな」 「ん、何かあったの?」 「あったんだけど……あのね、今、この合唱同好会に足りないのは何だと思う?」 唱子の問いに奏は頷き、悪戯心を多分に含んだような声で、逆に問い返した。 「え? えっと……伴奏者?」 「カズくんはどうかな?」 「必要なのかどうか、わからないけど……指揮者、とか」 「先輩は?」 「練習の成果を発揮する場所も、まだ決まってなかったと思うが」 三人の答えに満足し、奏はにんまりと微笑む。 「みんな正解。でも、先輩だけ惜しいんです。それはこれから、わたしだけじゃなくてみんなに意見を聞きたいと思ってました」 「今からか?」 「いえ、先に言わせてほしいことがあって。……カズくんと唱子ちゃんの言った通り、わたし、指揮者と伴奏者が足りないと思ってから、ずっとそれができる人を探してたんです。指揮も伴奏も、一応ないならないなりに何とかなるけど……でも、きっとわたし達だけじゃ難しいだろうな、って」 「そうね。実際やったことはないからはっきりとは言えないけど、ガタガタになりそう」 「……うん。両方ないと、ぼく達の声だけで頑張らなきゃ、いけないから」 「なるほど。つまり、探し物が見つかったということか」 「はい」 「それで……どんな人なの?」 「奏者の方は、唱子ちゃんも知ってる人だよ」 不意にそんなことを言われ、唱子は戸惑った。知り合いにピアノ弾ける子なんていただろうかと脳裏にいくつもの顔を浮かべ、半数以上を見当違いと潰したところである可能性に思い至った。 「もしかして……」 「うん、たぶん唱子ちゃんの考えてる通り」 「えっと……二人とも、どういうこと?」 勝手に納得、完結した女性陣に朋和が疑問を向けた。涼澄も怪訝そうな表情を見せ、無言で説明を求める。種類の違う二つの視線に晒され、奏はじゃあ言うね、と前置きをしてから、 「わたしのお母さん……睦宮静音が、ピアノの奏者をやってくれることになりましたっ」 「睦宮の母君か。一応訊くが、問題はないのか?」 「その辺は大丈夫です。専業主婦だからそれなりに自由な時間を作れるし、専門の人には及ばないけど、腕は結構いいんですよ」 「そうね。静音さんなら信頼できるし」 「……白坂さんは、どうして睦宮さんのお母さんのこと、知ってるの?」 「あ、ううん、ちょっとね。……休みの日にコーチしてもらってるから」 最後の方は声が尻すぼみになっていたが、唱子の答えにとりあえず誤魔化しているところはないと朋和は理解した。同時に、少しだけ羨ましくも思う。社会科室にピアノは持ってこられないから仕方ないけれど、生の伴奏で歌ってみたいという気持ちもあったから。 「今度、カズくんと先輩にもお母さんに会ってもらいますね」 そんな朋和の思考を知ってか知らずか、奏はそう提案した。迷わず二人は承諾する。 それで一段落したと見て、唱子が続きを促した。 「で、指揮者は誰に決まったの?」 「えっとね、ふふ、誰だと思う?」 またもうきうきしたような、教えるのが楽しくてしょうがないというような声。 答えを知らない三人はそれぞれ考えてみるが、全く予想がつかない。 もっとも、正解を当てられるとは奏も思っていないので、早々に解答を出した。 「四谷先生が、やってくれるって」 「…………マジ?」 「それは……意外だな」 「………………」 何より、涼澄の心底驚いた顔を見られたことが奏にとっては最高の収穫だった。 が、しかし―― 「……先生はブランクあるからしばらくはリハビリだって言ってたんですけどね。あんまり楽観視はできないです。何か、わたしがちょっと強引に引っ張り出しちゃったような気もするし」 誰かに強制されたわけじゃない、と言ってくれたものの――過去に嫌な経験をして、それを奏が思い出させてしまったのは間違いない。 自分のために、仲間のために、相手の傷を抉るような真似をして、本当に良かったのだろうかと。 「いや、あの人は嫌なら嫌とはっきり言うだろう。それを敢えて請け負ったのだから、おそらく四谷教諭自身が考えて選んだことだ。睦宮が気に病む必要はない」 「先輩……はい、ありがとうございます」 礼を告げると涼澄は少しだけ照れ臭そうな顔をした。 有り難い、と思う。これが仲間というのなら、何と心強いものだろうか。 「じゃああとは……」 「……発表の、場?」 「うん。それについてもいくつか候補は考えてきたんだけど……」 学校生活に於いて、部活や同好会が活動の成果を示すのに最もよく使われるのは、文化祭だ。 中学の学校祭ではクラスや部活毎に出し物を決める。それは高校でもおおよそ同じなのだが、規模も自由度も桁違いで、中学では許されていない調理系の出し物も高校では許可が下りる。調理室を使える数が限られているため、比較的手間の掛かるものはあまり作れないという制約こそあるものの、義務教育である中学とは歴然の差だ。金が絡む点で、責任もかなり重い。 そんな中、部活や同好会も普段の活動内容を万人に見せる良い機会なのは確かで、大会出場を主眼に置く運動系はともかく、特に文化祭で張り切るのは文化系である。資料の展示や冊子の販売など、気軽に立ち寄って見ることのできるものから、体育館の舞台を使用して行われるパフォーマンスにも、生徒や保護者、来賓の人間はそれなりに入る。音楽系列、例えば軽音部や吹奏楽部、各種ダンス部は毎年ステージで曲や踊りを発表している。 当初、奏はそこで前に決めた二曲を歌うつもりでいた。仮にも顧問がいる正式な同好会である以上、応募数が多過ぎて時間が取れず抽選になった結果漏れた、なんてことにならない限りは比較的簡単に舞台を確保できる。入学前、文化祭の見学に行った時、一番短いものでも十五分はあったことを考えれば、一曲五分前後なのだから二曲を歌いきっても余裕だろう、と判断していたのだ。 ただ、たった四人で頑張るには、色々とシビア過ぎるとも思っていた。体育館にぎっしりと並べられる椅子、その全てが埋まることはないにしても、観客の数はかなり多い。当然、相当な緊張を強いられる。奏や涼澄はともかく、唱子、そして特に朋和は、人の視線に晒されるのには慣れていないのだから……最悪、致命的なミスを犯す可能性も低くはない。本番になって声が出なかった、なんてことになれば、一番辛い思いをするのは、他ならぬ本人だ。それだけは、絶対に避けたかった。 しかし、他に選択肢があるのかと言えば、首を傾げざるを得ない。幸い予定日である十月下旬まではまだまだ長く、頑張れば何とかなるかと思っていた。その考えを変えたのは、奏が母と四谷教諭に相談してからだった。 『それなら……そうね、もっと小規模なところ、知ってるわよ?』 『お前、ほら、あれならいいんじゃねえのか?』 両者の口より意図せず出た、同じ単語。 それを頭の中で反芻しながら、奏は皆の前で言った。 「夏祭りなんて、どうかな?」 「ほう」 感心したように呟いたのは涼澄。朋和と唱子も、はっとした表情をし、揃って納得する。 「あー、それは考えつかなかったわ」 「確か……小さい、ステージみたいなのが、あった気がする」 紅咲市の東に並ぶ山々の一つ、その麓よりもやや高い位置には神社がある。随分昔から存在していた、由緒ある歴史深いところらしく、長い階段を上った先にある建物は、幾度もの改装を経て年月を重ねた末に獲得したのだろう風格が備わっている。神木と呼ばれる大樹も境内には植えられており、周囲を木々に囲まれた土地は相当広い。前に奏が来た時は、掃除が大変だ、と思ったのを覚えている。 そこでは年に一度、八月の頭に夏祭りが開催される。秋の豊作を祝うというのが起源のようで、儀式めいたこともするが、基本はただの馬鹿騒ぎだ。列を作る屋台と、それ目当てで訪れる人々が売ったり買ったりで楽しむためのもの。たった一日、こじんまりとはしゃぐことのできる場所。 唯一にして最大の欠点は交通の不便さで、都市部から車で二十分は掛かる距離。徒歩だと軽くその二倍強は必要なので、よほど暇か祭り好きでないと行かない。昔はまだ農家の人間が多く賑わっていたという話だが、今となっては客の入りも半減し、当時を知る年寄り達にとっては少しばかり寂しく感じるようになった。とはいえ紅咲市での祭りはそれしかなく、主催者もどうにか派手なものにしようと近年簡素なステージを作るようになり、事前にパフォーマーを募っている。これがまた大して面白くもない見せ物ばかりで、ほとんど観客は集まらない。 ……だからこそ、奏達にはぴったりの舞台と言えた。 「たぶん、ものすごく小さいし、人も少ないと思う。だけどその分文化祭で舞台に立つよりは気楽に構えられるんじゃないかな。……みんな、どう?」 平静を装いながらも、奏は早い鼓動を抑えられずにいた。 誰だって、同意を得られないかもしれないと想像すれば怖くなる。 無意識にごくりと唾を飲んだ。唱子に、涼澄に、朋和に、心の中でお願い、と祈る。 「……ま、あたし達にはちょうどいいと思うわよ」 初めに頷いたのは唱子だった。 「背伸びをすることはない。かといって、気を抜き過ぎるのも困り物だがな」 わかりにくい言い回しで涼澄が続く。 そして、 「まだ、ちょっと怖いけど……みんなで頑張ろう。いっぱい練習して、歌おう」 ――朋和の言葉を聞いた瞬間、奏はぱあっと、破顔した。 舞台に立つという、ささやかで明確な一つの終わりが、見えたのだった。 「じゃあ行くぞ」 指揮棒が持ち上げられ、空気は一瞬で張り詰められたような緊張を纏った。 誰もが細く白いそれを注視し、僅かな動きさえ逃さないと意識を集中する。 視線を集めながら、ふっ、という呼気と共に、指揮棒は振られた。まずはピアノの前奏。流れるようなその旋律を、朋和はもう数えきれないほどに聴いて覚えている。自分の歌声が入るタイミングも、全て。 前奏が途切れた。余韻を残しながらも音は薄れ、朋和は 練習の際、とにかく何よりもするべきは、楽譜を頭に入れることだった。歌詞のみならず、リズム、旋律、休符や息継ぎのポイント、声の強弱を定めている部分。 ただ抑揚もなく一定の音量で歌っていても、いい曲にはならない。楽譜に書かれていることの全てをきちんと守れば作曲者の意図通りになるし、下手なアレンジは却って逆効果だ。 律儀に、愚直なまでに再現する。練習とは即ち、少しでも理想に近づくためのものなのだから。 曲の流れは『 それが今は、微動だにしない。自信を持って歌える。 (楽しい) 途中で『 ……人が言葉で気持ちを伝えるのと同じように、歌曲にも感情は込められている。悲しい旋律で喜びを歌うことはないし、逆もまた然りだ。名だたる著名な過去の作曲家達が自らの人生、経験を音楽に組み込んだのも、そうして表現したいことがあったからだろう。 音楽は、言語だ。国や思想の壁も軽々と飛び越える、剥き出しの想い。だから響く。朋和の心を、こんなにも震わせる。 ピアノの伴奏に身を任せ、まだ僅かにぎこちないながらも的確な指揮に導かれながら、朋和は仲間と共に歌う。高らかに、声を張り上げて。 ――四月。入学して間もない頃、奏と出会った。ひた隠しにしていた歌声を盗み聞きされた、なんて間抜けな始まりだけれど、今となっては、それで良かったと心から思っている。 あの時二人で口ずさんだ歌を、朋和は忘れていない。誰に強制されたのでもなく、学校の行事やら何やらを抜きにすれば、他人と一緒に歌ったことなんて一度もなかった。 そう。一度もなかったのに――歌ってみたいと思ったのだ。友達と言ってくれた彼女なら、こんなにも綺麗な歌声をしている彼女となら、きっと素敵な歌が歌えるに違いない、と。 同好会を作ると奏が言って、ほとんど面識のなかった先輩、涼澄に話を持ちかけ、四谷教諭に顧問を頼んで。最初はまだ何をしていいのかもよくわからず、遊んでいるような感覚で奏に発声法を教わった。目に見えて上手く声を出せるようになっていく自分にびっくりした。 唱子が加入して四人になって、課題曲を定めてからは急に合唱をするんだという現実味を帯びた。それをどこで、どういう人の前で歌うかも決まっていないのに、頑張らなきゃ、と気負って、焦って。そんな中、涼澄から相談を受けて、悩んでいるのは自分だけじゃないと気づいた。 涼澄は何か吹っ切れたのか、声にしっかりと表情が見えるようになっている。相変わらず歌っている時も表情は変わらないが、以前と比べれば一目瞭然だった。 奏の母のコーチを受けていた唱子は、朋和達より一ヶ月も後から入った初心者だとは全く思えないほど上達していて、溌剌と歌う姿は朋和の目にはとても眩しく映った。 かつて、楽しくやってるかという問いに、いまいちよくわからない、と答えた彼女が、今は本当に楽しそうな声を出している。唱子も唱子なりの答えを見つけて、ここまで来たのだ。 そして奏は、静音と四谷教諭、二人を連れてきた。きっと一人で駆けずり回ったのだろう。朋和は、そんな奏を見たから二人は力になってくれたのだと思う。指揮に嫌な思い出があったらしい四谷教諭も、奏と弟さんのために合唱団から身を引いたという静音も、安易に助けを求めていたのなら、手を貸さなかったかもしれない。 奏がいたから、朋和はここまで来れた。信頼できる、大事に思える仲間を得られた。 試験前の、あの日に交わした――奏との誓いがあったから、朋和は頑張れたのだ。一歩を、踏み出せたのだ。 (……ああ) それは、 (なんて楽しいんだろう……!) 朋和達が歌っている、その曲名は『合唱讃歌』。 共に歌う喜びを讃える、代表的な合唱曲である。 「みんな、かなり上手くなったよね」 「……うん」 期末試験を終え、夏期休暇を間近に控えた休日。 奏と唱子の提案で、夏祭り本番まで学校がない日は睦宮家で練習することになった。ピアノ奏者の役を負ってくれている静音にとって都合がいいこともあり、また一般家庭にはない防音処理を施した部屋も合唱の練習にはお誂え向きだったからだ。 どうやら奏から話を聞いていたのか、最初の訪問の際、あなた達とも一度会ってみたかったのよ、と静音に言われ、朋和は少しくすぐったい思いをした。やはりと言うべきか平然としている涼澄のことを、ちょっと羨ましくも感じた。 四谷教諭も、頻度はあまり多くないものの、暇を見ては参加している。指揮の経験があったというのは嘘ではなく、手つきはどこかこなれていて、譜面を覚えるのも早い。ただ、朋和の目には、肩に力が入っているようにも見えた。過去の失敗が当人を今も苦しめているのかもしれないが、そればかりは誰にも、どうしようもできないことだ。だから、日を追う毎にその強張りが抜けていっているのを知った時、朋和は心から、よかった、と思った。 伴奏と指揮、二つを加えた合唱は、格段にやりやすいものとなっていた。 静音の伴奏があるから四人は安心して歌えるし、多少のミスも音に紛れて顕在化せずに済む。指揮はある意味での楽譜代わり、歌の感情を表す指針だ。強弱や気持ちの方向性を丁寧に教えてくれる。初めはこれまでと違った感覚に戸惑いもしたが、もう六人での合同練習ではほとんど音の外れも、声の震えもなく、時折指揮者側や伴奏者側から飛んでくる細かい修正だけだ。完成度で言えば、十全に近かった。 勿論学校での練習も欠かしてはいない。基礎を忘れず、反復で身体に染み込ませ、それを歌うことで発揮する。それまでに費やした時間、重ねた努力は、ここに実っている。 「あと、一ヶ月もないけど……カズくん、どう? 緊張とか、してる?」 「今も……そのことを考えると、ドキドキ、する」 「じゃあわたしと一緒だ」 夏至が近づき、日没の時間もだいぶ延びてきたが、それでも朋和は遅くとも六時には帰るようにしていた。自然、解散もその時刻になる。いつもは睦宮家の玄関で皆と別れるところだが、何故か今日は奏が学校のとこまで送るよ、とついてきたのだった。 ちゃりちゃりと自転車を引きながら、朋和は徒歩の奏と並んで行く。背を照らす西日は気のせいでなければ春の頃より色が薄く、景色は淡い橙に染められている。ビルの隙間から覗く、遠く、朋和の家の方にある山々は葉の緑色で埋まっており、ふと朋和は奏と二人で見たツツジの紅色を思い出した。 楽しい日々は、あっという間だ。 「……睦宮、さん」 「何?」 「ぼく達、上手く歌える……と、思う?」 少しだけ、弱気が心に滲み出て、朋和はそんなことを訊いてみた。 情けなくもあるその問いに、奏は迷う仕草もせず微笑んで、 「絶対、大丈夫」 自信満々に、強い声で答えた。 「そう、かな。大丈夫、かな」 「当然だよ。だってカズくんも、先輩も、唱子ちゃんも。お母さんや先生も、みんな頑張ってる。それに――」 「それに?」 「わたしね、実はすっごいわくわくしてるんだ。どんなことになるか、お客さんの前で歌ったらどうなるのか、全然想像つかないけど……胸を張って歌えば、きっと楽しいよ。わたしはこんなに歌が好きなんだー、って思いながら歌って、それで聞いてる人に少しでもその気持ちが届いたら、もうそれ以上嬉しいことなんてない気がする」 手塩を掛けて育てた稲でも、ひょんなことで駄目になってしまうように。世の中に絶対という言葉は、どこにも存在しない。失敗する可能性を考えれば、キリがないだろう。 しかし、一番大事なのは、間違えないように歌うことではない。結果を出さなければならない大会ならそれを重要視すべきだが、当然他人に聞かせるのだからミスはない方がいいに決まっているが、そういうことではないのだ。 ……歌には、人の気持ちが詰まっている。そしていつでも、歌い手を突き動かすのはたった一つの衝動だ。 通学路で。人気のない教室で。見上げた空の下で。西日に翳る畦道で。朋和はずっと、歌ってきた。好きだから――歌いたいから、声を響かせてきた。 例えどれだけの視線に晒されても。間違いを恐れてしまうような舞台に立ったとしても。 その想いは朋和の中にあって、これまでもこれからも、変わらないもの。 「ぼくも……ぼくも、そう思う」 「先輩や唱子ちゃんも、そうだといいね」 「大丈夫。きっと、おんなじだから」 「そっか。そうだね、そうだよね」 奏が笑ったから、朋和も笑った。 この先何も心配することはないのだと、信じられた。 「あ、もう学校だ。話してるとすぐだね、本当」 朋和が頷き、別れるのを名残惜しく感じながらサドルに跨る。奏に背を向ける形で。 それじゃあね、と奏が呟いて、走り去ろうとしたところで、不意に朋和は声を掛けた。 「む、睦宮さん」 「今度はどうしたの? もしかして、別れるのが寂しくなった?」 「……それも、あるけど」 「………………」 「………………」 思わず本音が漏れ、お互いに赤面する。特別な意味では朋和は全く言っていないのだが、どちらにしろ恥ずかしいのは確かだった。 「えっと……一つ、訊きたいことが、あって」 「どんなこと?」 「……ぼく、近所の親しい人とかには、いっつも、トモ君って呼ばれてたから……どうしてぼくのことを、カズくん、って呼ぼうと思ったのかな、って」 奏は一瞬目を見開き、心の底から驚いた表情をしてから、くすくすと抑えた笑い声を漏らした。朋和が怪訝な顔を見せると、それはね、と前置きをして、 「朋和のカズは、和っていう字でしょ?」 「そう、だけど」 「ハーモニーって、どういう字を書くか知ってる?」 「え?」 「和声、和音、協和、調和……ほら、全部、和が入ってる」 「……本当だ」 「ね? ……わたしは、カズくんとなら素敵な その後の言葉は、続かなかった。 続ける必要も、なかった。 「また明日ねー!」 奏は走って帰っていった。それが恥ずかしさを誤魔化すためなのか、あるいは何となく急いだだけなのかはわからない。ただ一つ、間違いないのは――奏が去り際言ったように、涼澄や唱子と一緒に明日もまた、確実に顔を合わせるということだった。 「………………ふぅ」 本当は、別のことを言おうと思っていた。 もしそれを口にしていたなら、何かが、変わったろうか。 「ううん」 そんなことはない。きっと奏は、笑って喜んでくれただろう。 「……奏、さん」 親愛の気持ちを込めて、次は名前で呼ぼうと、そう決めた。 自分を、自分の名を大事に思ってくれた、その返答代わりに。 ペダルを踏んで漕ぎ出す。 風が、心地良い。 何かあったらどーぞ。 |