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 学校から西、駅の方へ続く道を、奏と唱子が歩いていた。
 空の色には少量の橙が混ざり始め、それが日暮れの近さを物語っている。

「………………」

 二人は無言だ。五時半、朋和の帰宅時間になって、正門で他のメンバーと別れてから、途中まで変える方向が同じである女子ペアは互いに一言も喋らず歩いている。
 何かを話そうと思い、言葉を紡ぎかけては押し黙る。その繰り返し。
 ――どうにも、気まずい雰囲気なのだった。
 会話の糸口が掴めない。一度固定してしまった空気を和らげるのは難しく、そもそも今の状況を脱するにはどうすればいいのか、いつもより無意識に遅く歩きながら、二人はずっと考えていた。
 誰が原因、というわけでもないのだ。

(だけど……)

 唱子は思う。
 この状況を作り出したのは、きっかけは、自分にこそあるのではないか、と。










 合唱にはとんと縁のなかった唱子だが、テレビはそれなりに見るし、音楽番組を通じて流行りの歌程度ならよく耳にする。ドラマには必ずどこの誰が作ったのかはわからないけれど場面に合ったバックミュージックが流れていて、ついでに最初か最後には大概主題歌がついている。
 世を儚んで機械文明から遠ざかっているか、もしくはポリシーか何かでテレビの類は一切見ないとか、そういう個人レベルの取り決めがない限りは、日常で歌を聴く機会なんて山ほどあるものだろう。
 形式がどうであれ、だいたいの人間は音楽と共に生きているのだ。
 唱子にだって、意味もなく鼻歌を歌いたくなる時はある。テレビで琴線に触れる曲を聴いたらどんなものか知りたくなるし、オルゴールの繊細な音色に傾倒していた時期もあった。
 小学校の音楽授業でも決して音痴とは言われず、物覚えも割と速い方で、二年に一度学芸会と交替で催された音楽会などでは、親に褒められたりしたものだ。

 ……だから、勘違いしていた部分が、あったのかもしれない。
 きっと合唱なんて、そこまで難しくはないのだろうと、そう高を括っていた。
 甘かった。
 あまりにも、甘く見過ぎていた。

「えっと、その場所はね、ここで――――って感じなんだけど」

 歌う曲を決めてから、奏が中心となり、各々の声域に応じてパート分けを行った。
 皆がいったいどれくらいの高音、低音が出せるかはそれまでの練習でわかっていたので、混声四部合唱の割り振りに従い四つのパートにそれぞれが当てはめられる。
 最も幅広い声域を持つ奏はソプラノ。朋和はファルセットでソプラノに近い高音を出せる代わり、重い低音は無理なのでそれを考慮しテノール。逆に低音の響きが良い涼澄はバスで、奏よりも声域の低い唱子がアルトを担当することになった。
 ある意味、音を覚えるのが一番簡単なのは、ソプラノである。ほとんどの場合主旋律だからだ。とはいえ知らない曲ならどれを選んでも一緒で、別に唱子は奏が楽をしているとは思わない。条件は朋和も涼澄も自分と少したりとて違わず、だから並んで進めればいいのだと軽く考えていた。
 その分、唱子は圧倒されることになる。
 完全にとはいかないまでも、奏は他の三人に教えるため、全てのパートを記憶してきた。楽譜がしっかり読めるからかもしれないが、前から知っていて、覚えていたのかもしれないが、そんなことは関係ない。さしたる問題ではない。事実「唱子ちゃんはこんな流れだよ」と前置きをしてから、唱子の耳にはミスの一つもないように聴こえるアルトパートを、見事に歌ってみせたのだ。

 才能の差。経験の差。そう言うのは、簡単だろう。
 だが、努力をしなければ高みには至れない。奏も例外ではなく、唱子とは比べ物にならないほど長い期間を、上手く歌うために費やしてきたのだから――それは、当然の結果だった。

 ……自分は。
 まだ、並ぶことすらできてない。

 唱子は愕然とした。奏の指導を聞き逃さないよう集中し、試行錯誤しながら何度も何度も歌った。それでも一日では二割、しかもおおまかにしか覚えられなかった。
 奏の言動は、自分のことを考えてのものだ。その優しさに対し逆上するほど唱子は馬鹿でもない。それで嫌気が差すような捻くれた性格もしていない。
 ただ、素直に悔しい、と思った。

(……みんな、あたしよりよっぽど上手い)

 朋和も、涼澄も、勿論奏も、唱子にはない力を持っている。唱子よりもひたむきに、頑張っている。
 そんな三人を見ていると……急に不安が湧き上がるのだ。
 歩く速度が違えば、遅い方は次第に離され置いてかれるだろう。
 いつか、そうして足手まといになってしまうのではないか、と。

(足を引っ張るのは、嫌)

 簡単なことなんて、何一つ存在しない。
 奏達にとってはそうでないのだとしても、唱子からしてみれば、合唱は酷く険しい壁に感じた。










 要するに。
 自己嫌悪で凄い顔をしていたらしく、どうやらそれが「話しかけないで」といった風にしか見えなかったのである。
 そのまま二人が別れる道に着き、示し合わせたかのように揃って足を止める。

「………………」
「……ん、と」

 何となく、先に動いた方が負けみたいな状況になった。
 微妙に視線を逸らしながら向かい合う。

「……あの、唱子ちゃん」
「……何」
「わたし、もしかして何かしちゃってた……かな?」

 その空気に耐えられず、奏が口を開いた。

「えっとね、ほら、練習の時、ちょっと強く言い過ぎちゃったかも、って思ってたの。だから、もしわたしのせいで気を悪くしちゃったなら、謝らなきゃって」
「…………はぁ」

 そんなことはない。
 そんなことは、ないのだ。

「あんたねえ……全っ然違うわよ。的外れ。正解には程遠い」
「う、そこまで……?」
「だいたいあれで強く言い過ぎてると思うんなら、教えるのには向いてないわ」

 強いどころか、優しささえ窺えた。
 相手に気を遣っているからできる教え方だ。指摘も的確で、非難するような部分はどこにもない。

「……ならどうして、あんな顔してたの?」
「ん……別に、誰が悪いとか、そういうことじゃないのよ。自分が嫌になってただけ」
「本当に?」

 目を見ずに言う。しかしにゅっと奏が回り込む形で正面に立ち、手を後ろに組んで前屈みの姿勢を取り、下から唱子を見上げるようにして問うてきた。
 思わず、言葉が詰まる。

「……本当」
「じゃあ、よかったら話して。人に言えば、少しは楽になるかもしれないよ?」
「………………」
「無理にとは言わないけど」
「……ああもう、わかった。話すわよ」
「うん、お願いします」

 軽く頭を下げる奏を見て、普段は自分が奏の位置、聞き手の立場にいることをふと思い出す。
 慣れていないのだ。愚痴やら悩みを、引き出されるのには。

「――最初はさ、日に日に上手くなってるっていう実感もあったし、素直にみんなすごいな、って感心してたのよ。睦宮さんみたいになりたいとも、ちょっと思った」
「そう言われると、何だか恥ずかしいね……。あ、今更だけど奏でいいよ。わたしも唱子ちゃんって呼んじゃってるし、さんづけだと堅苦しいから」
「ん、わかった。話続けるわね。……それで、あたしも自分なりに頑張ってきたんだけど」
「うん」
「今日、奏や他の二人を見てて、気づいたのよ。ああ、あたしはこの中じゃ一番遅れてるな、って」
「そんなことないよ……」
「ありがと。でも、あたし自身がそう思ったの。小野君みたいな真っ直ぐさも、先輩みたいな過去の下積みも、奏みたいな情熱もない。経験だって、あたしは三人よりも少ない」
「………………」
「足りないだらけの自分は、どうすればいいのかわからなくてね」

 苦笑交じりに愚痴を終えると、奏は俯き、黙った。
 喋らない方が良かったかも、と唱子が後悔し始めたところで、再び顔を上げた奏と目が合う。

「唱子ちゃん。ちょっと今から、厳しいことを言っちゃうけど……いいよね?」

 ……それはどこか真剣で、迷いのない表情。

「前に話したかな。わたしのお母さんは昔合唱団に入ってて、家のことをしながら、紅咲市だけじゃなくて、もっと他の地方でも歌ってたりしてたんだ」
「いや、あたしはその話、聞いてないわよ」
「あ、そっか。これカズくんに言ったんだった。ごめん、勘違い。……えっと、それでね。小学校に入学した頃、お父さんの仕事が忙しくなったというか、単身赴任で離れることになっちゃって。まだ小さいわたしと、もっと小さい弟の世話をするために、お母さんは合唱団を抜けることになったの」

 これはまだ、朋和にも話していないことだった。
 奏の母が選んだ道。あんなに好きだった歌から遠ざかった、経緯。

「生活のためのお金は、お父さんが働いて送ってきてくれてたみたいだから問題なかったんだけど。わたしも弟もご飯だって作れなかったし、一人じゃほとんど何もできなかった。お母さんを縛りつけちゃったんだ。でも、そんなわたし達をお母さんは絶対責めなかった。どころか、わたしには歌を教えてくれたよ。家事が終わって空いた時間、わたしに優しく手本を見せてくれたりした。弟にも同じくらい構ってたから、いつでもってわけにはいかなかったけどね」
「母子家庭みたいな、ものじゃない」
「ううん。帰ってこられる時はお父さんも帰ってくるから。あ、今はまた別のところで頑張ってるんだけど……弟がどうかはわからない。でもわたしにはお母さんがいるから、寂しくないよ」

 唱子の家は、そういう意味・・・・・・では恵まれていた。
 父も母も、現在外の大学に通っている四つ上の姉も健在だ。欠けたことは、一度もない。

「あ、話逸れちゃったね。……不幸自慢してるつもりはないよ?」
「それくらいはわかってるわよ」
「うん。……それでわたしが言いたいのはね。唱子ちゃんがわたし達の友達になるずっと前から、もう本当にずっと前から、わたしは歌を歌い続けてきたってことなの。やってきた時間が違うんだから、唱子ちゃんがわたしより上手くないって思うのは当たり前」

 ともすれば、傲慢にも取れる言葉だが。
 奏が口にすると、不思議とすんなり受け止められた。

「その上で、理想論みたいだってわかってるけど、言うよ。足りない分は、頑張って埋めないと駄目。唱子ちゃんが人より遅れてるなら、追いつけるように努力しないといけないんだ」
「努力、ね」
「押しつけるつもりはないし、押しつけちゃいけないと思う。誰かに強制されてやったら、それはもう努力じゃないもの。全部、唱子ちゃんが決めること。……こういう言い方、卑怯かな?」
「……ん、大丈夫。むしろざっくり刺さった感じ」

 胸の辺りを擦る。
 奏の言葉を聞いた時、きゅっと締めつけられたような気がして、唱子は自分が甘えていたことを知った。

「ごめん。ちょっと色々、軽く見てた」
「いいよいいよ。わたしだって、どうして頑張ってるんだろう、って考えることもいっぱいあったし、そうだね、例えば勉強なんか、全然努力してないよ」
「しなさいよ。もうそろそろ試験期間じゃない」
「う……そ、そうなんだけどね。何かやる気になれなくて……」
「それは押しつけられてでもやらなきゃいけないことでしょうが」
「あう、唱子ちゃんのいじわる……」

 拗ねる奏に「あーはいはい、ごめんごめん」とおざなりな謝罪をしながら、微笑。

「……奏も、頑張ってきたのよね」
「へ? 何か言った?」
「何でもない。ほら、そろそろ帰るわよ。ずっと立ち止まってて、馬鹿みたいじゃない」
「そうかなあ……」
「そうなの。はい、さっさと行く」
「わかった。じゃあね、唱子ちゃん。また明日!」

 ひらひらと手を振って、見送る。たぶんあのまま続けていれば、お互いどこで切り上げようか迷った挙句、ずるずると陽が落ちるまで話し込んでいそうだった。

(……帰るか)

 一人でいても仕方ない。奏とは逆方向へと足を進める。
 歩きながら、頭の中で先ほどの会話を反芻する。

(人より遅れてるなら――)

 確かに、少々辛辣な叱咤だと思った。
 努力した分、全てが身につくとは唱子は信じていない。そしてそれは事実だ。報われる場合と報われない場合は半々で、積み重ねてきたものが一瞬で水泡に帰すことも、世の中には少なからずある。
 失敗や挫折を経験すると、努力なんて無駄だという考えが出てきてしまう。
 誰しも平等には生きられないから、実力の差を知ると諦めの心が湧いてきてしまう。

 ……それでも奏は、追いつくためには頑張らなければならないと言った。
 何もせず上に立てる人間など存在しないのだ。目標がどんなに遠く見えたとしても、届かないかもしれないのだとしても、追いつこうとする意思さえないなら可能性はそこで潰える。
 自分はどうしたいのか、と唱子は悩んだ。
 みんなより劣ってて、遅れてて、離れていく背をただ見つめているだけの自分は、どうしたいのか。

(決まってるじゃない)

 追いつきたい。叶うなら、抜き去ってしまうくらいの速度で。
 やっと見つけた居場所なのだ。やっと出会えた、情けない自分を叱り、励まし、ぽんと優しく背中を押してくれる、大事な友達なのだ。荷物を預けられるだけの関係ではなく、互いに重荷を分け合う関係でいたいのではなかったか。
 なら――するべきことは、一つしかない。

「信頼には、応える」

 合唱は一人でやるものではない。誰かが欠ければ、それだけで崩れてしまう脆いものだ。
 けれど、一人ではないからこそできることだってある。示せる答えだって、ある。
 台無しにはしないように。みんなの努力を徒労にしないためにも。
 その瞬間、唱子は確たる向上の意思を、持った。










 家族の話をしたことを、奏は後悔していない。いずれ言おうと思っていたし、正直、外に出して少し楽にもなった。どうしたって、父の不在という欠落は、心に残るものだから。

「はぁ……」

 だから、今の溜め息は全く別物だ。なかなか我が家に顔を出せない父、奏や弟が家事手伝いをするように、できるようになってから昔ほど負担は掛けなくなったが、それでも学校に行っている間は家の一切を取り仕切っている母、現在中学生で姉に対し反抗気味の弟を思い返してのものではない。

「どうしよう……」

 奏は合唱同好会の中心人物、リーダーである。知識や経験は他の三人よりも多く、そもそも朋和と涼澄を引き込んで同好会を作ろうと最初に提案したのは奏自身だ。
 放課後の活動として行っている練習でも、奏は専ら教え役に回っている。決してもう学ぶことがないとは言わないが、まだ最低限のラインにさえ四人は辿り着けていない。
 いくら課題曲が決まったとしても、合唱をする以前の問題なのだから、個人練習に時間を費やすのも当然だった。
 とはいえ、練習の成果はきちんと表れているし、もう少し時間を掛ければ合同練習もできると見ている。そこは心配していない。

「わたし、行き詰まってるよね……」

 ……合唱をするに当たって、今の状況では足りないものがある。
 指揮者と、伴奏者だ。
 どちらも絶対に必要なわけではないが、曲のリズムや強弱、表情をコントロールする指揮者、主旋律と和音を奏で、音に厚みと幅を持たせる伴奏者の二人がいると、格段に歌の出来は良くなる。

 だが――それを探すとしても、奏にはどうすればいいのかがわからなかった。
 既に、学校中を訊ね回ってみたのだ。目ぼしい生徒や教師は逃さずチェックした。声も掛けてみた。しかし芳しい返事は一つも得られず、途方に暮れている。
 誰だって、自分の時間があるのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。
 初対面の人間のそんな一種図々しい申し出をすんなり受けてくれるような人はそういない。
 冷静に考えずとも――現状、三人も集まった時点で、奇跡に近かった。

「………………」

 不意に、母の顔が浮かぶ。
 今でこそ合唱団を抜け専業主婦となっているが、一度築いた関係がそれで途切れるはずもなく、その方面での繋がりはまだ強く残っていて、もしかしたら、頼めば誰かを紹介してくれるのかもしれない。

(ううん、でも)

 ここで頼れば、中途半端なところで投げ出すことになるような気がした。

「唱子ちゃん、きっと頑張るよね。頑張ろうと、するよね」

 奏は、ほんのちょっと前に進む手助けをしただけだ。かつて母が色々なことで落ち込む自分を気遣ってくれたように。
 最終的に、唱子は上手くなっていくだろう。勿論努力を放棄する可能性もないとは言えないが、それを大丈夫と信じられるのが友達だと思う。
 朋和も。
 涼澄も。
 みんな懸命なのだから。

「もうちょっと、自分の力でやってみよう」

 問題を、一人だけで解決しようとするのがいいこととは思えない。
 けれど余計な心配だけは掛けたくなかった。
 先頭に立つ人間として、それは奏自身が答えを出すべき問題だ。

「……発表の場も見つけないと」

 今は孤独な、小さな決意。










「小野。少し、歩こうか」

 そう言い出したのは涼澄だった。
 朋和ほどではないが、学校から家までは涼澄もそれなりな距離があるので、自転車通学を許されている。帰る方向がおおよそ一緒ということもあり、二人は同好会の活動が終わると並んで帰路に就く日が多くなった。
 人通りの邪魔にならないよう自転車を引きながら、お互い無言で道を行く。

「……ここでいいだろう」
「あの、先輩?」

 涼澄が止まったのは、あまり人気のない喫茶店前。そこで自転車を置き、施錠して、目線だけで中に入ろう、と朋和に伝える。時間的には厳しいとわかっているはずなのだが、珍しいその申し出を断るのは忍びなく、怪訝に思いながらも朋和は続いた。
 扉を開けて店内に足を踏み入れると、カウンターの方からいらっしゃい、と気の抜けた声が飛んできた。適当な席に座り、慌しさの感じられない店員に注文を告げる。
 涼澄はコーヒー、朋和はオレンジジュース。程なくして飲み物が運ばれてくると、見るからに熱そうな黒々とした液体を、ろくに冷まさず涼澄は少し啜った。

「すまんな、引き止めて。なるべく早く済ます、それまで付き合ってほしい」
「あ、はい」

 つられて朋和もグラスを持ち、口元に持っていった。
 安っぽい甘味。多少渇いた喉は潤うが、特別おいしくもない。
 向かい側、テーブルの上のコーヒーカップを見つめながら、朋和は涼澄の言葉を待った。

「その……だな」
「……どう、したんですか?」
「む……」

 誤魔化すようにコーヒーを再び口に含む。
 あからさまに、らしくない姿だった。

「先輩、何か……悩み事が、あるん、ですか?」
「悩み事……だな。これはおそらく悩みなのだろう」
「よかったら、話してください。……あんまり、時間はない、ですけど」

 朋和は話の続きを促してみる。
 そのおかげか、迷いながらも涼澄は口を開いた。

「……小野。どうすれば、お前や睦宮のようになれるのだろうか」
「え?」

 思わず訊き返してしまった。

「えっと……どういうことですか?」
「そのままの意味なのだが」
「………………」
「前に、歌が好きになれるかわからない、と俺は言ったが、覚えているか?」
「あ、覚えてます」
「困ったことに、今もそうだ。自分の気持ちがよく理解できない」
「……自分の、気持ちが?」

 話の流れが掴めず、オウム返しばかりになってしまう。
 しかし涼澄は顔を顰めることもなく、淡々と言葉を並べる。

「小野や睦宮を見ていると、お前達がどれだけ熱心に努力しているか、力を注いでいるかがよくわかる。先日加入した白坂も、二人とはまた違った方向性だが、白坂なりに足掻いているように感じた。皆、頑張っている」
「そう……なんでしょうか」
「まあ、俺が個人的に感じたことだ、あまり気にするな。続けるぞ。うむ、何と言えばいいのか……そうだな、取り残されているように思えたんだ。俺だけが、確たる目的も決意もないまま立っている」
「そんなこと、ないですよ」
「別に仲間外れにされているというわけではない。俺は小野をある意味尊敬しているし、好ましく思ってもいる。ただ、俺には中身がないような気がした」
「中身って……」
「小野は歌が好きだろう」
「……はい。すごく、好きです」
「睦宮も同じだろうな。好きだからこそ、同好会を立ち上げようとしたのだろう」
「それは、間違いないと思います」
「白坂は……少しわかりにくいが、あの場所を大事にしているように見える」

 三者三様。
 行動理念は違っていても、皆一つの意思を持って集まっている。

「だが、俺にはそういうものが足りない」

 歌声に芯が通っていない、と涼澄は言う。
 だからどうにも自分の声が軽く聴こえてしまうのだと。

「恥ずかしい話だがな……。俺は小野が羨ましく見えて仕方ない」
「……ぼくだって、先輩が羨ましい、です」
「そうなのか?」
「誰と話してても物怖じしなくて、いつも、堂々としてて……ぼくはずっと、倉本先輩みたいになりたいって、思ってるんです」
「隣の芝生は、青いものだな」
「……はい」

 一人だけで完成できるのなら、どんなに楽なことか。
 けれど人間はどうしようもなく何かが欠けていて、互いに補うことでしかそれは埋められない。

「………………」

 朋和がオレンジジュースを飲み干す頃には、涼澄は二杯目のコーヒーに手をつけていた。
 カップに残った残りの半分ほどを一気に流し込み、一息。

「小野、一つだけいいか」
「何、ですか?」
「しばらく……学校で、俺の話し相手になってくれないだろうか」
「……それって、えっと」
「難しく考える必要はない。昼休みや放課後、今日のように少しだけ、付き合ってくれればいいんだ。小野と向き合うことで、俺なりの答えが見つかるかもしれないと思った」
「………………」
「勿論、嫌なら断ってくれていいが」
「いえ。ぼくで、よければ」
「そうか。……すまない」

 朋和は苦笑した。
 ――本当、変なところで不器用な人だ。
 こんなことで謝らなくてもいいのに。

「帰るか。もうそろそろ小野は行かないとまずいだろう」
「……ですね」
「会計は俺がしておく」
「え、い、いいですよ、ぼく、ちゃんと出します」
「相談の礼と思え。年上の気遣いだ」
「あ、う……」
「行くぞ」

 朋和が言葉に詰まっている間に、涼澄は店の外に出ていた。
 ……不器用で、妙に気が利いて。
 そして、本当にマイペースな人なのだった。










「……話し相手、かあ」

 普段よりさらに遅い、暮れかかった西日に翳る帰り道を、気持ち足早に自転車で通り過ぎる。
 歌も歌わず考えるのは、涼澄のことだ。

「先輩も悩み事とか、あるんだ」

 朋和には涼澄を神聖視している部分があった。
 自分のように口篭もらず、人前に出ても緊張せず、慌てる素振りさえ見せずに堂々としていられる一つ上の先輩は朋和の理想だし、目標にもしている。
 いつかはあんな風に強くなりたいと。自分自身を誇れるようになりたいと。

「……うん」

 幻滅したわけではない。
 そういう見方をしていたこともあり、今までは少し、近寄り難いと思っていた。

「同じ、なんだよね」

 それが急に、身近に感じた。
 悩んでいるのは自分だけではないと知ったから。
 涼澄にも、抜けたところがあるのだとわかったから。
 五月の空気を思いきり吸い、朋和は歌う。

(……この声は、どこまで響いてるんだろう)

 目の届く範囲に誰もいないからできることだ。
 もしどこかで人を見かけたらすぐに旋律は途切れてしまう。
 まだ、朋和には恥ずかしくて、不特定の相手の前では歌えない。響きが良くなっているような気はしたが、それも聞かせる人がいなければ意味のないものだ。
 ……これから、練習時間は徐々に減っていく。

 高校初の定期試験はもう目と鼻の先で、一週間前まで来ると部活や同好会の活動は停止となる。ついでに言えば、大半の生徒に部活動をしている余裕はない。猶予が与えられるのは、大会前の運動部くらいである。
 もう一つ、朋和は実家の仕事を手伝う約束をしていた。
 この時期になるとおおかた田植えは終わり、しばし様子見になる。
 水量を調節し、育ちが悪くならないよう気をつけたり。
 土を芳醇にするため肥料を撒いたり。
 機械の導入をした両親だが無農薬栽培は続けると決めたので、除草や管理は一般的な農薬散布を行う栽培よりよほど手間が掛かる。僅かでも気を抜けば、稲はすぐ駄目になってしまう。基本的に、あまり強くないのだ。
 特に雑草の取り除きは人手が要る。決して狭くない広さの水田、その全てを定期的に見て回り、どんな小さなものでも逃さず抜き取る必要があるのだから。
 また、いもち病を始めとする稲特有の病気や害虫に対しても注意を払わなければならない。
 家庭で当たり前のように食べられる米を作るのにも、農家の人間は尋常でない労力を込めるのである。誇りを持って育てるのは、大変なのだ。

「…………ん」

 一曲が終わった。
 搾り出した酸素を取り込むために大きく息を吸い、吐く。呼吸を整える。
 そうして思うのは、いつになるかも定まっていない本番だ。どこかのステージに立って、観客の視線に晒されて、ピンと張り詰めた空気の中、奏、涼澄、唱子と一緒に歌う自分の姿を想像する。

「……怖い、なあ」

 夢見るだけならば、何度だってできるだろう。そこでなら理想の自分を描ける。凛と構えた小野朋和でいられる。
 でも、外の景色に目を向けてしまうと、駄目だ。空想の中でさえ足は震え身体は揺れ、声もガタガタになる。
 理想とは、あまりにも遠い。

 ――考えることは、いっぱいで。
 やるべきことも、たくさんで。

(でも……頑張らないと)

 朋和は知っている。
 悩んだり困ったり、苦しんだりしているのは、涼澄や自分だけではない。
 奏も、唱子も、それぞれ何かを抱えているはずだ。
 だから。
 怖いで済ませてはいけない。その先に、一歩先に足を踏み出そう。

「やろう。……やってみよう」

 声に出すとほんの少しだけ、力が湧いてきた気がした。
 ハンドルを一層強く握る。ぎゅっと、離さないように。
 とりあえず――帰ったら、まずは試験勉強をしよう。










 部活動は試験日の一週間前から停止になったが、昼休みは四谷教諭の温情(単に適当なだけともいう)で社会科室は四人に解放された。問題の作成をしているため準備室に入ることはできずとも、ノックをすれば反応してくれるので、在室していれば鍵は確保可能なのだった。
 帰る時、部屋を繋ぐ扉の近くにでも置いておけば四谷教諭が鍵を回収するという親切ぶり。唱子などは何か理由あっての優遇ではないかと疑っているのだが、実際はただの気まぐれである。

「唱子ちゃん、テストどう? いけそう?」
「程々には。別に勉強放棄してるわけじゃないし。奏は?」
「えっと……あはは」
「もしかして、ヤバかったりする?」
「ううん、一応大丈夫……だと思うけど」
「思うって何よ」

 どうしても、間近に控えた中間試験の話題になる。
 何だかんだでしっかり集まった四人は昼食をつつきながら、無事乗り切れるかどうかの談義をしていた。ちなみに、涼澄は一人購買の惣菜パンを豪快にかじっている。

「あ、先輩はどうです?」
「英語は苦手だ。他は現状問題ない」
「得意教科とかあるんですか?」
「中学校の時は、数学なら平均点よりは高いな」
「あたし数学苦手……」
「わたしはそれなりに、かなあ。カズくんは?」
「……平均点の、ちょっと、上だった」
「何点くらい?」
「八十五点、とか」
「小野君、それちょっとじゃないわよ」

 流れで誰が一番良い成績か、情報の提示を要求される。
 一年生組三人は中学校時代のものを、涼澄だけは高校一年生時のものを参考に。
 結果、

「カズくん優勝ー……」
「え? え?」
「数学の点数聞いた時そんな予感はしてたけど……」
「ほう。優良だな、小野」

 朋和は平均八十点オーバーで、図抜けて一位。その次が涼澄。手堅く平均点のやや上を保っている。奏と唱子は、言ってしまえばどんぐりの背比べだった。

「何で小野君はそんなにできるのよ……」
「毎日家で、予習と復習してるから、だと思う」
「……参考までに、どのくらい?」
「だいたい、二時間前後」
「……わたし、三十分もやってないよ」
「……あたしも同じようなものね」
「先輩として言っておくが、少しは小野を見習え。留年するつもりなら話は別だが」
「うぅ、先輩の方がわたし達より成績いいから言い返せない……」

 大袈裟にぐったり突っ伏す奏と、さり気なくその肩を叩いて自分が上の立場であることを強調しようとしている唱子を一瞥し、涼澄は勉強会の一つでもやっておくべきかと思案した。
 一人、朋和はいまいち状況を飲み込めない。日々こなしている二時間の勉強時間は、朋和にとっては至極当然のことであり、感心されるようなものだとは露ほども思わないのである。

「ま、まあ、困った時には小野君にご教授頼むわ」
「わたしもー。カズくん、その時は先生って呼んでいい?」
「え、っと……」

 困惑する朋和。女性陣に熱い視線を向けられ、どう返答したものかと迷う。

「小野を困らせるな。……しかし、実際二人には一度みっちり教える必要があるだろう」
「ちょ、ちょっと先輩、そんな迷惑掛けられないですって」
「そ、そうですよ。あたし達だって何とか一人でもやっていけますから」
「睦宮、遠慮しなくてもいい。迷惑だとは思わん。白坂、本当にそうなら俺は何も口出ししない」

 そこでフォローを入れた涼澄に対し奏と唱子は反応したが、両者共に一刀両断。
 示し合わせたかのようなタイミングで同時に「う」と言葉に詰まり、降参代わりの溜め息を漏らした。勉強会、決定。

「あーもう、これ以上考えないようにしよう」
「睦宮さんも、苦手なもの、あったんだね」
「そりゃわたしにもあるよ。完璧じゃないんだし」
「うん」
「……まずそうだったら本当に、勉強教えてくれるかな?」
「いいよ。お互い様、だから」
「ありがとね。……でも、お互い様って?」
「歌の練習……睦宮さんにいっぱい、お世話になってる」
「そうかな」
「うん。そこは、否定しないで、ほしい」

 はっきりとした口調で、朋和は言った。

「……初めて、カズくんからお願いをされたような気がするなあ」
「え、そ、そんなつもりは――」
「ふふ、ごめんごめん。冗談だって」
「うぅ……」
「でも初めてっていうのは本当だよ。カズくんって、いっつも受け身だから」

 滅多に自分の意見は言わなくて。
 相手が発言するとその言葉に控えめな同意を示して。
 なるべく波風を立てない、凪いだ水面のような、消極的な生き方をしている。

「だからちょっと、嬉しいかも」
「……どうして?」
「カズくん、きっと変わってきてるんだよ」

 それは傍から見れば進歩しているのかどうかもわからない、僅かな歩みだけれど。
 朋和は確実に、人見知りな己の弱さを拭い始めていた。

「ねえ」
「睦宮、さん?」

 ふっと、奏は朋和に顔を近づける。
 正面、驚くほどアップになった奏の、その真っ直ぐな瞳に目を奪われた。
 化粧の有無や一般的な美醜感覚と比べてどうとかはわからない。
 ――ただ朋和には、強い力の篭もった瞳だけが印象的で。
 胸が、高鳴る。

「カズくん」
「………………」

 身体は動かなかった。
 石化したかのように朋和は固まって、

「はいそこまで」

 ……唱子のひとことで解けた。
 そのまま、背筋を伸ばした状態でぐらりと後ろに倒れる。

「む」
「…………あ」
「大丈夫か?」
「あ、はい」

 危うくちょうど後頭部の位置にあった机にぶつかりそうなところを、椅子から立ち上がり先読みして回り込んでいた涼澄に支えられる。背を押され、元の姿勢に戻ってから、朋和は奏に目をやった。

「何あたしと先輩がいる中でピンク色の雰囲気出してるのよ」
「そ、そういう気は全然なかったよ!」
「本当にぃ? 嘘っぽく聞こえるわね。キスでもするつもりだったんじゃない?」
「違う、嘘じゃないー! これっぽっちもやらしい気持ちはないの!」
「充分誤解するに足る状況だったと思うが」
「うー、カズくん、二人がいじめる……」
「………………」

 助けを求めて奏が朋和の方を向くと、まだ朋和は呆然としていた。

「……あれ、カズくん大丈夫? もしかしてちょっと頭とか打ったりした?」

 返事がないことを訝しみ、心配そうに顔を覗き込む。
 一瞬恥ずかしさから首を捻って背きかけ、それを寸でのところで制止し、平気、と返す。
 そんな朋和の仕草に涼澄が何かを感づいたようにも見えたが、追求はしてこなかった。

(ぼく……変わってる?)

 実感はない。言われても、ああそうか、とすら思えない。
 それでも――奏の言葉に嘘は感じなかった、から。

(変わってる、のかな)

 だとすればそれは、

「週明けには試験の一日目だ。日曜、市の図書館に集合しよう」
「本気でやるつもりだったんですか勉強会……」
「皆にとって俺が仲間であるのなら、俺にとってもここにいる三人は仲間だ。そして正直、俺は仲間の中から補習者が出てほしくはない」
「ストレート過ぎますよ先輩!」
「時間までに来なかった場合、五分毎に携帯を鳴らすから忘れるな」
「……こんな強引な先輩、初めて見たわ」
「わたしも……」
「ぼくも手伝うから、二人とも、やろう」
「……まあ、小野君にまで言われたら、断ろうにも断れないわね」
「うん。先輩、カズくん、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「教えるのはあまり得意ではないが……尽力しよう」

 ――間違いなく、居場所を共有する仲間が、友達がいるからだ。

「ちょいちょい」
「……?」

 昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴り、荷物を片づけていると奏に肩を叩かれる。
 ちょうど朋和は立ち上がろうとしていたが、座ったまま斜め後ろの奏を見上げた。

「放課後、ちょっとだけ時間ある?」
「……大丈夫、だけど」
「さっきの話の続き、するから」

 訊き返すより早く奏は、すーっと遠ざかってしまった。
 置いてあった鍵を取り慌てて追いかける。

「ん、まだいたのか」
「……先生」

 そこでかちゃりと準備室側の扉が開き、四谷教諭が顔を出した。

「さっさと行かなきゃ授業間に合わねえぞ」
「う、わかって、ます」
「鍵パス」
「あ、はい」

 手を差し出され渡す。
 頑張れよー、という気の抜けた激励を背に、朋和は社会科室を後にした。
 五時限目には、ギリギリ間に合った。










「今日もよく晴れてるね」
「風が弱くて、眠くなりそう」
「さすがにわたしは立ったままじゃ寝られないなあ……」

 同好会の活動がないと、帰宅時間は四時前になる。なのでまだ空も青く、明るい。
 もうほとんど出入りのなくなった正門前で、朋和と奏は立ち止まり会話をしていた。

「……えっと、それで、さっきの話の続き……なんだけど」
「あ……うん」

 最初は軽い雑談で気疲れなく向き合えていたのだが、いざ本題に移るとなると、お互い身構えてしまう。昼の雰囲気がまだ尾を引きずっていて、特に奏は今更ながらに何てことをしたのかと後悔していた。
 ……本当に、無意識の行動だったのだ。

「ご、誤解しないでね。唱子ちゃんが言ったみたいに、キッ、キスするつもりだったとかそういうのは全然ないから。本当にないから」
「……う、うん」

 上擦った声でそこまで言われると普通は傷つくものだが、幸い朋和も混乱していて、勿論奏があれ以上顔を近づけるとは少しも思っていなかったので、頷くだけに留まった。
 奏はそれに納得し、ごめんね、と呟く。

「でね、その……わたし、あの時カズくんに、言おうと思ってたことがあったの」
「何を……言おうと、してたの?」
「うん。カズくんにはどうしても、聞いてもらいたかった」

 壁に預けていた背を上半身の動きで浮かせ、奏の足は一歩前に出る。
 トン、と軽い音を響かせてから、手を後ろに組み、朋和の方へ振り返った。
 陽射しを浴びて。
 薄く微笑む奏は、少しだけ眩しかった。

「ここまで付き合ってくれて、本当にありがとう」
「……え?」
「カズくんと会わなかったら、わたしは同好会を作ろうだなんてきっと考えもしなかった。先輩とも、唱子ちゃんとも出会わずに、一人ぼんやりと学校生活を送ってたよ」
「………………」
「今はまだ、どこまで行けるかもわからないけど……わたしには仲間ができた。一緒に歌ってくれる、かけがえのない仲間ができた。それってすごいことだと思うんだ。だってわたし、今が楽しい。みんな真剣に練習にも取り組んで、難しくても頑張ってる。いっぱい悩ませちゃってるかもしれないけど、それは歌うことと、ちゃんと向き合ってくれてるからだよね」

 ……カズくんも、色々考えてくれてる。
 そんな奏の言葉に、朋和は否定を示さない。悩んでいるのは確かだ。
 自分だけではない。涼澄と喫茶店に寄り道した日の帰り、そう結論づけたことを思い出す。
 奏にも、少なからず悩みはあるのだ。

「だからわたしは、みんなにきちんと応えたい。曲を決めても発表する場がないなら、なるべく早く……ううん、試験が明けたらすぐにでも、探して見つけてくる。足りないものは、わたしが集める」
「……睦宮さん」
「えっと、要するにね」

 一拍、

「わたし、頑張るよ。それをずっと、言いたかったの。なかなか物事が上手く進まなくて、そしたら気分がどんどん沈んじゃって。一人じゃ参っちゃいそうだったから、ちょっとだけ、肩借りた」
「……うん」
「大丈夫。あとは全部、わたしでやるよ」

 浮かべた笑みは、決して気丈な、無理に繕ったものではなかった。

「睦宮、さん」
「ん?」
「ぼくは、力になれない?」
「もう充分なってくれてる。肩の荷、軽くなったもの」
「そうじゃ、なくて。手伝えることは……ない?」
「……ううん。これはわたしがやらなきゃいけないことだから。カズくんはカズくん自身のことに集中して。お互い、自分でやってみよう。それでも駄目だったら、みんなの力を借りるから」

 これで話は終わり、と奏は切り上げた。
 朋和の自転車カゴに入れていた鞄を抜き取り、離れる。

「あ、ま、待って」

 帰ろうとしていた奏を、つい朋和は引き止めた。
 何を言おうとしていたのか。迷い、口篭もり、しかしはっきりと、口にしようと思った。

「ぼくも……ぼくも、睦宮さんに会えて、よかった」
「………………」
「ありがとう」
「……うん!」

 逆光で表情は見えにくい。
 けれど――朋和には、奏が弾けるような笑顔でいてくれたのだと、確信できた。

「また日曜! 勉強会、コーチよろしくお願いします!」
「テスト、頑張ろう」
「じゃあねー!」

 走り去る背を、ただ眺めていた。
 曲がり角の向こうに消えてしまうまで、いつまでも、いつまでも。
 恥ずかしくて……何故か、頬が僅かに緩んでしまう、そんなくすぐったさを感じた。










 試験期間が終わると、次は答案の返却期間が待ち構えている。
 どちらかといえば優秀な枠組みに入る朋和と涼澄には特別気にすることもない瞬間だが、そうでない二人には地獄の裁判にも似た苦行の時間だったらしい。昼休み、施錠された社会科室の前で顔を合わせた奏も唱子も、どことなくぐったりしていた。

「……どう、だった?」
「な、なんとか……」
「赤点だけは回避できたわ……」

 そう言うが、答案は、と訊いた途端全く同時にぶんぶんと首を振ったので、どうやらとても朋和には見せられない結果だったようである。横で会話に混ざらず聞いていた涼澄は嘆息し、

「日曜、勉強会を開かなければどうなっていただろうな」
「先輩には頭が上がりません……」

 再びステレオの発言。思わず朋和はくすりと笑みをこぼす。

「……一応訊きますけど、そういう先輩は?」
「少なくとも、全教科半分は超えているが」
「平均五十点以上ですか」
「カズくんは……いいや、訊かなくてもわかる」
「だいたい、平均七十五点、だった」
「嫌味に聞こえないところが凄いわね……」
「これに懲りたなら、日頃から机に向かう習慣を身につければいい」

 涼澄の説教じみた言葉で締め。
 じゃあ先生に鍵もらってくるね、と奏が準備室にノックをしようとしたところで、涼澄が制止した。唐突なことに不思議がる三人の注目を集めた涼澄は、朋和をじっと見て、言う。

「すまんが、小野を少し借りていっていいだろうか」
「え? ぼく……ですか?」
「ああ」
「わたしは構わないというか、わたし達が占有してるわけでもないですし、カズくんがいいなら全然問題ないと思うんですけど。唱子ちゃんも、いいよね」
「そうね。必ず四人でいなきゃいけないなんてことはないし。こっちはこっちで、大人しくテストの結果を反省しておきましょ」
「小野、いいか?」
「あ……はい。大丈夫、です」
「悪いな。ではまた、放課後に」

 軽く手を上げて、涼澄は朋和を引き連れて行く。
 階段の方へ向かった男子二人の後ろ姿を眺めながら、奏は首を傾げた。

「先輩、カズくん連れてどこに行くつもりなんだろう」
「さあ……。でもまあ、悪いようにはしないでしょ。あたし達はいつも通り、中で食べればいいんじゃない。もしかしたら戻ってくるかもしれないしね」
「そうだね。……本当に反省するの?」
「……しないとまずいような気がするわ。高校の授業、甘く見過ぎてたところもあるもの」

 手に提げた鞄から、おもむろに答案を取り出す唱子。
 つられて奏も引っ張り出し、ひとしきり眺めてから、またもシンクロして重い溜め息を吐いた。

「留年だけは、絶対避けないと」
「同感……」



 屋上は一般開放こそされているものの、あまり人気はない。
 ベンチの一つもない上に、四方は飛び降り防止用の返しがついた鉄網に囲われ、その様子は一種の脱出不可能な牢獄か何かを想像させる。尤も、ペンチの類で網を切られれば、囲った意味もなくなるのだろうが。
 そんな殺風景な場所ではあるが、空はとても近い。高層ビルには遠く及ばないものの、それなりに周囲は拓けているし、東の方には山も見える。五月も終わりになるとツツジの花は散り始め赤色も薄くなってくるが、今度は瑞々しい緑が映えるのだった。
 涼澄が鉄製の扉を開けると、風が勢い良く入り込んでくる。
 小さい朋和を守るように自分の身体を風除けにして、一歩前へ。そうすれば視界に広がるのは、無機質な網に遮られた街並みと、抜けるような青空だ。
 勝手なことだとわかっていながら屋上側の鍵を閉め、適当なところに腰を下ろす。敷き物は持ってきていないので少し汚れてしまうだろうが、構わない。
 廊下に座るのと何が違うのか。むしろ、人がほとんど訪れない分屋上の方がまだ綺麗な地面かもしれなかった。

「屋上が開いてるだなんて、知りません、でした」
「閉まっているとも言ってないがな。学校側は明言しないが、何人かはここに一度は来る。そして大概一度きりだ」
「どうして、ですか?」
「こんな何もないところより、校庭や裏庭の方がまだいいと思うのだろう」

 それに、校庭にはバスケットのゴールなどが設置されている。余った時間を運動に費やしたい人間が屋上よりも広い場所を選ぶのは、当然のことだ。
 二人は弁当箱を開き、食べ始める。普段とは別のところで摂る昼食は、気持ちの違いからか箸の進みが若干速いように思えた。半分ほどを朋和が食べ終えた頃、涼澄は口を開いた。

「最近、小野には色々と時間を取らせて申し訳ないな」
「いえ……ぼくが、好きでやってること、ですから」

 先日の一件以来、四人でいることの多い昼休みはともかく、途中まで同じである帰路では、時間が許す限り話をするようになった。試験期間中も、奏や唱子(二人も随分仲良くなったらしく一緒に帰っている場面をよく見る)と別れてから、一年生より遅い二年生の涼澄を待ち、合流してから帰宅するようにしていた。
 会話の内容には一貫性がなく、合唱同好会のことからその日の夕食の献立、互いの趣味、休日の過ごし方など、本当に他愛ない、特筆するような部分がない内容だ。
 しかし涼澄は、朋和が何を話しても真剣に耳を傾け、頷き、疑問を向け、時には否定し、苦言を漏らすこともある。その返答の一つ一つに見え隠れする誠意を感じて、朋和は前よりもさらに、倉本涼澄という存在を理解するに至った。
 どこか超然としていて、表情はほとんど変わらなくて、けれど感情がないわけでもない。
 言葉少なに真理を突くことも儘あり、年齢不相応な大人びた面を見せると思えばどこか間の抜けた発言で場を和ませたり妙な空気にさせたりもする。
 出会った時には完璧なように見えた涼澄も、付き合うほどにそうでないとわかってくる。
 同じ一人の人間だ。足りないところもあって、それを埋めようともがいて、苦しむことだってある。そう気づいて、朋和は涼澄をより好きになれた。だからとは言わないが、本当に、本心から力になりたいと思っている。

「小野。図々しいかもしれないが、一つ、頼み事がある」

 鉄網に背を預け、空を見上げながら、涼澄は呟いた。

「ここで、歌ってくれないだろうか」
「……え?」
「小野にとって、一人で歌うのが、誰かに聞かせるのが恥ずかしいことであるのは、理解している。だが、それを承知で頼みたい」
「………………」
「勿論無理なら嫌と言ってくれていい。強制するつもりはないし、したくもない。ただ……俺は小野の歌声だけを聞いたことがなかった。だから、聞いてみたいと思った。歌を好きだという、小野の歌声を」

 同好会の活動に於いて、奏は誰か一人だけを晒し物にするかのように歌わせることはなかった。朋和の例もある。それに誰だって、自分が下手だと思っているものを目立つ形で表に出すのは嫌がるだろう。わざわざ際立たせなくとも、奏には全員の歌声を聴き取れる耳があるのだから、尚更。
 朋和が人前で歌ったのは、家族を除けば奏の時が最初で最後だ。
それも、意識してのものではない。悪い言い方をすれば、勝手に奏が盗み聞きをしていただけ。意図して聞かせたわけでは断じてなかった。

 だからこそ――朋和は、迷う。
 涼澄が、信頼できないのではない。そんな問題はとっくにクリアしている。
 頭ではわかっていても、それでも、これまでできなかったことをやるのには、抵抗がある。

「どう、だろうか」
「………………ぼく」

 目を閉じる。涼澄の前で歌う自分の姿を想像しただけでも、心臓はばくばくと跳ね、顔が熱くなり、段々何も考えられなくなる。制御不能な緊張感。
 ――無理だ、と思った。
 思い、ごめんなさい、と言おうとして、

『わたし、頑張るよ』

 奏の言葉が、脳裏に浮かんだ。

(あ……)

 そうだ。あの時彼女は、確かに言った。
 手伝えることはないかと、そう訊ねた朋和に対し、はっきりと。

『……ううん。これはわたしがやらなきゃいけないことだから。カズくんはカズくん自身のことに集中して。お互い、自分でやってみよう。それでも駄目だったら、みんなの力を借りるから』

 留まる。開きかけた口を閉じて、声を抑える。
 自分のすべきことは、何だったか。決意したことが、あったのではなかったか。
 みんなと一緒に、いつかステージに立った時、朋和は否応なく不特定多数の視線に晒される。知らない人達の前で、歌う必要が出てくる。
 でもそれは、朋和自身が選んだ道だ。苦しいから、辛いからと言って、逃げてはいけない。どんなに怖くても、恥ずかしくても、目を背けてはいけないのだ。
 胸に手を当て、服をきゅっと握る。少しでも、鼓動が治まればと願って。
 それで何かが変わるわけではなかったが――心を決めるには、充分過ぎる力だった。

「すぅ――」

 息を吸って、朋和は歌い始める。
 誇れるようなものではない。上手いと言える自信もない。
 声は小さく、きっと屋上の向かい側までは届かない程度の音量だろう。
 ただ、目を閉じたまま、歌うことだけを考えた。
 誇れなくたっていい。下手でも全然構わない。
 純粋で良かった。好きだから歌う、それだけで良かったのだ。

「――は、ぁ」

 最後の音を緩やかに消し、朋和はそっと目を開ける。
 服を掴む手には、じんわりと汗が滲んでいた。
 余韻を流すように風が吹き、そして、たった一人の観客は、大きな拍手を鳴らした。

「……見事だった」
「あ、あぅ……」

 さっきの自分を顧みて急に恥ずかしくなり、真っ赤になって俯く朋和。
 その頭をくしゃりと撫でて、涼澄はよくやった、と囁いた。

「感謝する。恥ずかしい思いをさせて、すまなかった」
「だ、大丈夫、です。ぼくも……大事なことに、気づけました、から」
「そうか。奇遇だな、俺もだ」
「先輩も?」

 微かに顔を綻ばせて、涼澄は頷く。
 なるほど、と一人納得したように呟いて、

「いつの間にか……随分歌が好きになっていたらしい」










 四谷春雄にとって、音楽というのは決して縁遠いものではなかった。
 今でこそ担当は日本史だが、大学中途までは、音楽科を専攻していた。
 その中でも音楽教育学科、つまり教師になるための授業を受けており、少なくとも二十歳の頃までは、一途にその進路をひた走っていたのである。

 ――けれど、自分には向いてないと思ったのは何故だろうか。
 進路を変更したのは、大学三年生の時だ。
 子供は好きだった。近くに住んでいた従兄弟が自分より年下で、その子の父親、叔父に当たる人物に世話を任されることが多く、散々扱いに困って泣かせたのも懐かしい記憶だ。
 大人になると色々な方面の理解は深まるが、視野狭窄に陥ってしまうこともある。子供と大人は全く違う生き物だ。一見理不尽に見える我が儘さも、世間の汚れを知った今では眩しく見える奔放さも、しがらみがないからこそ言えるような自由な発想も、かつては自分も持っていたもので、それは尊重すべき美徳だろうと春雄は思う。
 間違った部分は、先人が正せばいい。先生と言うくらいなのだから、先に生きている側として、相手を気遣い、慮り、大事にするために必要なことは何か、それを示すのが務めではないのか。

(……んなこと、子供だったら誰だって考えるだろ)

 小学校から生徒として通っていれば、様々な人格の教師にも出会う。そしてその誰もが子供達のことを第一に考えているわけではない、ということを理解する。
 同じ子供でも、優しい奴がいれば、性根から嫌味ったらしい最悪な奴もいるのだ。幼子同士の諍いに対し、見て見ぬふりをする大人だって少なくはない。だから、そういう馬鹿にはなるまいと誓った。相手を泣かせるにしても、きちんとした理由で叱れる大人になりたかった。
 そうして大学を目指し、中学の時から吹奏楽をやっていたこともあって音楽教師になろうと思った。他に何がいいかだなんて考えもつかなかったからだ。勉強して、一流とは言えないまでもそこそこの成績でそこそこのところに入り、知り合った友人と程々に遊び歩きながらも、抱いた夢だけは見失わなかった。

 学生のオーケストラに参加しないか、と誘われたのは、そんな折だった。
 当時の春雄はいい加減繰り返しの毎日に飽き始めていて、刺激が欲しかったこともあり、二つ返事で了承した。特別音楽に傾倒しているわけでもなく、楽器一つで食べていこうと息巻くメンバー達とは一線を画していた春雄だったが、心血を注ぐような厳しい練習に混ざるのは意外と新鮮で、過労で倒れない程度に楽しんでいたのは確かだ。
 ……だが、溶け込んではいなかった。目には見えないが、春雄と他のメンバーの間には深い断絶があった。それが顕在化したのは、春雄が参加してから初めて行われた公演である。
 楽器を扱えない春雄はしかし専攻している学科故、音楽全般に関する知識が他人より豊富だったので、指揮者を任されていた。
複雑な楽曲を綺麗に纏め上げ、演奏そのものを操作する重要な役。指揮のノウハウも授業で学んだので、自分なら大丈夫だろうと春雄は信じていた。
 過信、していた。

 結果は最悪、とまではいかなかった。ただし良いものでもない。音楽を知らない一般客ならほとんどわからない程度の、しかし多少耳の肥えた者ならすぐにわかってしまうほどの、失態。
 それは致命的でこそなかったが、明らかなミスだった。
 ……緊張からかもしれない。小規模ながら観客は決して少なくはなく、演奏前には心臓が萎縮するような静寂を味わう。その中で最初に動きを見せるのは指揮者で、舞台の中心に立つ春雄は一挙一動を仔細に晒すこととなった。……あるいは、仲間の無言の期待からかもしれない。それは裏返せば失敗を恐れる彼らの後ろ向きな圧力で、表情にこそ出さなかったものの、春雄にとっては胃を痛めるようなストレスだった。
 それら全てを乗り越えなければ、プロにはなれやしないだろう。
 ただ、春雄はそちらの方面で上を目指す気はなかったし、目指せるほどの実力も才能もなかった。
 どんなに努力をしても、懸命に練習を重ねても、結果が出せなければ意味はない。
 ――きっとその時、諦めたのだと思う。自分にはそこまで教えられない、と。
 急な路線変更に、当時春雄の担当をしていた教授は「無茶だ」と声を荒げた。が、本人にそれ以上音楽教師の道を進む気がないのだと知ると、疲れた溜め息を吐き、

「好きにすればいい」

 と放り投げた。事後のあれこれに手を回してくれたのには、今でも感謝している。
 代わりに選んだのは日本史。音楽教師が無理ならこっちだと決めていた。
 その代償として一年免許を取るのが遅れたが、念願の教職に就き、初めに務めた学校から任期で飛ばされて次に就任したのが咲穂高校だ。
『親しまれる先生』を目指して数年。生徒受けは適度に良く、時には相談に乗ることもある。話しやすい、と思われていることが、春雄には誇りだった。今はもう大きくなって、彼女も作り結婚間近らしい従兄弟とたまに顔を合わせては仕事の愚痴を聞いてやる度、まだ目の前の従兄弟が小さかった頃を思い出しては教師になってよかったとしみじみ感じる。
けれど――

(……まあ、昔のことなんてそう簡単に忘れられねえよな)

 奏達から合唱同好会の話を持ちかけられた時、一瞬、春雄は断ろうかと思った。
 どうしたって、その姿は過去の失敗を想起させる。明確な非難こそなかったとはいえ、じっとりとした冷たく重い無数の視線を浴びせられた、舞台裏での出来事を。

(でもな……あんな目ぇ見て、断れるかよ)

 真っ直ぐな意思。突き進もう、という、心の強さ。
 それを挫きたくはないと思った。できることなら、叶えてやりたいと思った。
 ――そして今、春雄は迷っている。
 つい先ほど奏が持ち出した、一つの提案を受けて。

「先生、音楽の経験とか、ありませんでした?」
「……いや、ないな」
「そうですか……。あの、指揮者と、できたらピアノ奏者も探してて。当てはないかなって思ったんです」
「他の奴らには訊いたのか?」
「声は掛けてみましたけど……」
「いい答えは得られなかった、か」
「はい」
「……紹介できそうな知り合いもいないが、ま、忘れてるだけかもしれないからちょっと考えとくよ」
「ありがとうございます。わたしももう少し探してみます」

 頑張れよ、とは言えなかった。
 嘘を吐いた罪悪感に苛まれながら奏が出ていった扉の方をじっと見つめ、額に手を当てる。
 典型的な、馬鹿な大人がそこにいた。

「………………」

 目を閉じて空想の指揮棒タクトを握り、両手を振り上げると、あの時の情景が甦る。
 観客だけではない。全ての奏者も指揮者たる自分の動向を窺っていた。圧倒的な全能感。形のない旋律を思いのままに動かせる、ある種絶対の権力者にも近い立場。
 昔の自分は、楽しんでさえいた。恍惚を覚えていた。それが一度の失敗を経て、情けなくも腕から震える始末だ。これではまともに振れはしまい。指揮なんて以ての外だろう。

「俺に、できるかよ……」

 この手はもう、指揮棒を離したのだ。
 だから。
 だから――

(情けねえな俺は……!)

 準備室で仕事をしていると、放課後、隣の部屋から四つの歌声が聞こえてくる。
 きっと、賑やかな練習風景だ。直接見なくても楽しそうな姿を想像できるような、そんな歌声。
 お世辞にも、特別上手いというわけではない。奏はともかく、他の三人は素人もいいところだ。ちょっと真剣に聞いてみれば、指摘したくなる点はいくらでも見つかる。
 しかし、一ヶ月半ほどの間で、四人は確実に上達していた。声も良く通るようになっていたし、音を外す回数も減ってきている。一曲を歌いきるには、完成させるには程遠いとしても、そのままのペースで上達していけば、もしかしたら、舞台の上でも望む結果を出せるかもしれない。

 ……それは春雄には成し得なかったことだ。
 結果的に仲間の努力まで潰してしまった春雄には、叶えられなかったこと。

 小野朋和、睦宮奏、倉本涼澄、白坂唱子。誰も彼も、春雄からしてみればまだまだ子供。未熟なところしかない。大人を名乗るには早過ぎる、弱々しい雛鳥だ。
 だが、彼らには上を目指そうとする気持ちがある。今は報われるように思えなくとも、それぞれの速度で、それぞれの方法で、空に向かって羽ばたこうとしている。
 途中で墜落してしまうだろう、と大人は考える。それならまだ地上にいた方が安全だと、無難な道を選ぶ。きっと賢く生きるとはそういうことで、ある意味では正しいことだ。
 けれど子供は、大人ほどに挫折を知らないから、失敗を恐れない。

(もっと能天気にやってみても、いいじゃねえか)

 自分に指揮者を探している、と言った奏は、縋るような目をしていた。でも落胆の色を見せたのはほんの一瞬、求めた返答を得られなくても気丈に振る舞って、言ったのだ。
 もう少し探してみます、と。

「あいつら、頑張ってるよな……」

 奏が指揮者なり奏者なりを見つけられればいい。が、見つけられなかった時、彼女達は現実に苦難を強いられるだろう。指揮がない合唱はおそらく、相当の修練と度胸がない限り、ちぐはぐなものになってしまうからだ。そこで奏者もいなければ、無残な結果を晒す可能性は、高い。
 結局――春雄を動かしたのは、自分が一番嫌っている情けない馬鹿な大人にはなりたくないという、そんな、男のつまらない意地だった。



 日曜。唱子はある家の玄関前で、インターフォンに指を触れさせては離す、という動作を繰り返していた。表札には、睦宮、と書いてある。奏の自宅だ。
 他人の家に招かれるのは初めてではなかったが、それが友達(今までの相手をもう唱子は友達と見られなくなっていた)相手となると、妙に緊張してしまうのだった。

「あっ……」

 五度目で指は深く沈んだ。定番と言えば定番な、ぴんぽーん、という呼び鈴が鳴る。途端に心臓が跳ね上がって、柄にもなく背筋が伸びてしまった。

「はーい、どちら様ですか?」
「……白坂です」
「唱子ちゃん? ちょっと待っててねー」

 応対したのは奏で、そのことに安心しながら唱子は肩の力を少しだけ抜いた。
 そのまま待機。数秒後、内側から扉が開けられる。

「いらっしゃい」
「お邪魔するわね」
「うんっ」

 弾むような奏の声。それが嬉しそうに聞こえて、ああ、奏も同じ気持ちだったのかしら、と唱子は苦笑した。靴を脱いで廊下の奥へ向かう奏の背を追い、歩く。

「……あたしの家より広いわね」
「え? 何か言った?」
「ううん、何でも」
「それにしても、唱子ちゃんが来てくれて嬉しいよ」
「そうなの?」
「うん。人を家に呼んだのなんて久しぶりだから」
「あたしも……誰かの家に行ったのなんて久しぶりよ」

 休みの日に会えないか、と言ったのは唱子の方だ。それを奏は快く了承し、ならどこで会おうかという流れになって、奏がわたしの家はどうかな、と提案した。
 試験が明けてからは特に似たり寄ったりの成績だった二人はさらに意気投合し、親睦を深めた。いつか涼澄を(できたら朋和も)見返してやろうとお互い誓っているのだがそれはまた別の話である。

「こっち」

 奏の案内で居間の方に入ると、台所で包丁を握りトントンと小気味良い音を響かせている人物がいた。背の中程まである艶やかな黒髪を軽く結い、踊るように野菜を刻んでは水に浸けている。

「お母さん、友達連れてきたよ」

 奏が呼ぶと、エプロン姿の女性が振り向く。
 唱子を見つけるや否やにっこりと微笑んで、

「あらいらっしゃい。よく来ましたね。奏の母の静音しずねです」
「ど、どうもはじめまして。白坂唱子です。お邪魔してます」
「ふふ、そんな固くならないで、どうぞゆっくりしていってね」

 笑顔の似合う素敵な人。それが唱子の静音に対する第一印象だった。
 夕食の下拵えだろうか、食材を次々と切っていく手つきは随分と慣れたもので、普段あまり料理をしない唱子はただ感心するばかりだ。

「唱子ちゃん、麦茶は平気?」
「好きだけど……」
「そっか。良かった。わたし飲み物持っていくから、ちょっと先にわたしの部屋に行ってて。階段上ってすぐのところね」
「あ、うん」

 見惚れていたとはさすがに言えない。静音にお辞儀をしてから、唱子は一人奏の自室に向かった。僅かな荷物を片手に二階へ行くと、奏の言葉通り部屋の扉はすぐのところだった。
 唱子の自宅はマンションの一室だ。二階建て以上の一軒家に住む知り合いがいないわけではないが、やはり家の中の階段を使うというのは新鮮なものである。

「麦茶お待たせー」

 中に入って腰を下ろすと、二つのコップを持った奏が現れた。
 唱子と自分の前に冷えて結露した麦茶を置き、唱子の横に座る。

「意外に綺麗ね」
「……意外って何。意外って」
「言葉通りの意味だけど」
「うぅ、わたしってそんな片づけ苦手そうなイメージなの……?」
「だって奏、鞄の中とかすごいじゃない」
「……実は唱子ちゃんが来る前に急いで掃除しました」

 奏の部屋はそれなりに広く、ベッドのスペースを除いても、二人が腰を下ろすには充分だった。何とはなしに見回せば、まず目につくのは本棚。色々な種類のものが雑多に並べられており、背表紙に書かれたタイトルも少女系コミックから文庫本、音楽関連の書籍まで、良く言えば幅広く、悪く言えば節操がない。勉強机の周辺は小綺麗だが、綺麗過ぎる気もする。使用している形跡がほとんどないのだ。

「あたしの机と一緒ね……」
「一緒って?」
「全然使ってない」
「や……やっぱりそう見える?」
「参考書とか、買ったのはいいけど埃被りっぱなしでしょ」
「あう」
「教科書は鞄の中か学校の机の中に入れっぱなしでしょ」
「あうあう」
「……先輩を見返せる日は遠いわね」
「うん……」

 二人して落ち込む。

「えっと、そうじゃなくて。そんなことを言いに来たんじゃなくて」

 沈んだ気分を流すように唱子は麦茶を一気飲みする。
 ぷは、と息を吐いてコップを置き、

「今日は奏に頼み事をしに来たのよ」
「頼み事? 遊びに来たんじゃないの?」

 奏が悲しそうに俯いたので、唱子は慌てて弁解した。

「ちっ、違うのよ、頼み事が済めば終わりとかそういうことは考えてなかったの。正直昨日はわくわくしてたし、実はちょっとだけ眠れなかったし、って何言ってるのよあたし……」
「あはは、嬉しいな。わたしも、唱子ちゃんが来るの楽しみにしてたよ」
「そ、そう?」
「うんっ」

 じんわりと感動してしまう自分が馬鹿みたいだった。
 この状況はまずい、よくわからないけどとにかくまずい、と妙な雰囲気を振り払うようにぶんぶんと首を横に振り、唱子は強引に話を戻す。

「あのね……歌を教えてほしくて来たのよ」
「それって、同好会の練習じゃなくて?」
「ほとんど毎日そっちはやってるでしょ。でも、あたしにはまだ足りない」

 唱子は自分と他の三人との差を明確に自覚している。
 総合的な練習時間は、後で参入した唱子の方が明らかに少ない。ならそれを埋めるためには、開いた差を埋められるだけの練習をすればいい。
 勿論それは、言うほど簡単なことではないだろう。例えば同じだけの時間を二人の人間が一つの物事に費やしたとしても、その二人が全く同じ結果を出せるわけではない。人が皆平等ではないのなら、優れた者と劣った者がいるのなら、努力の量にも違いは出てくる。
 理不尽に思うかもしれない。頑張ること自体を、馬鹿馬鹿しく感じるかもしれない。
 けれど、決めたのだ。信頼には応えると。
 自分で望んで、頑張ってみせるのだと。

「でも、あたし一人じゃ大したことはできない。基礎的な練習は奏に教わって覚えてるけど、もっと細かい部分はどうにもならない」
「……そうかも」
「無理にとは言わないわ。できる時でいい。時間があればでいい。学校がない日、あたしにコーチしてほしいのよ」
「どうして、って訊いていいかな」

 試すような口調で、奏は問い。

「もう甘えるのは止めたの」

 唱子はきっぱりと答えた。
 その後で苦笑して、

「まあ、早速奏に甘えてるんだけどね」
「それはいいんだよ。できないことは、素直にできないって言わないと」
「……そうね。それは大事よね」
「うん」

 二人で顔を見合わせ、笑い合った。

「入っていいかしら?」
「あ、うん、いいよ」
「じゃあ失礼するわね」

 ちょうど気の抜けたタイミングを狙ったかのように、落ち着いた声が扉越しに聞こえた。
 部屋の主である奏の許可を得て、お盆を持った静音が現れる。

「クッキーを焼いたんだけど……一緒に食べてもいいかしら」
「はっ、はい!」
「あれ、いつの間にそんなの作ってたの? わたし知らないよ」
「それはそうよ、言ってないもの。じゃあ失礼するわね。紅茶は砂糖、何杯入れる?」
「わたし三杯ー」
「奏、それちょっと入れ過ぎじゃないの……?」

 三杯と言いながらだばだばと琥珀色の液体に砂糖を放り込む奏に呆れながら、唱子はひょいとまだ温かいクッキーを掴み、一口。

「わ、おいしい」

 さくさくとした絶妙な歯応えと上品な甘味。唱子は市販の物とは比べようもないおいしさに驚いた。紅茶もファミレスなどで飲めるティーバッグの類とは違い、どことなく滑らかだ。
 唱子が淹れた砂糖は一杯だが、クッキーと合わせて口に含めば苦味もちょうどいい。

「なら良かったわ。私も作った甲斐があったものよ」
「むぐむぐ」
「食べ過ぎよ奏。少しは遠慮しなさい」
「だってお母さんのクッキー、むぐ、おいしいんだもん」
「ああ、紅茶を水みたいに流し込んで……」
「おいしく食べてくれるのはいいけれど、うちの娘はちょっと上品さがないのよね」
「………………」

 人前でこうもクッキーを頬張る奏も奏だが、思ったことをはっきり言い過ぎている静音も静音だ。似た物親子なのかも、という言葉が頭に浮かぶがそれは考えるだけにした。
 代わりに、そんな食べると太るわよ、と釘を刺す。

「大丈夫大丈夫。わたしあんまり太らないから」

 唱子は初めて奏に殺意を覚えた。
 こいついつか泣きを見るぞと恨みがましい視線を送る。一グラムを笑う者は一グラムに泣くのだ。
 ――皿に乗ったクッキーは、三人で綺麗に片づけた。
 満足げに静音が持ってきた布巾で口を拭き、奏がごちそうさま、と呟く。

「おいしかったです」
「はい、お粗末さまでした」

 にこやかな表情を崩さぬまま、静音は唱子と向かい合う。

「それで、二人は何の話をしていたのかしら?」
「あー、それは……」
「実はずっと聞いてたんだけど」
「……ずっと?」
「ええ、白坂さんが奏に頼み事をしていた時から」

 疑いようのない盗み聞きの証拠だった。
 呆れを通り越して絶句する唱子に、平然とした顔でごめんなさいね、と微笑む静音。
 その上で、でも、と前置きし、

「コーチなら私も手伝えると思ってね」
「え? 本当、ですか?」
「奏のコーチは私よ? この家なら、あまり騒音も気にせず練習できるし」
「……お母さん、いいの?」
「勿論」

 ついてらっしゃいと言って立ち上がり、お盆を抱えた静音が奏の部屋を退室した。
 それを唱子が追う。奏は一瞬だけ複雑そうな表情を見せてから、駆け足で二人の背を目指した。
 階段を下りて一階へ。そこで静音が台所にお盆を置き、玄関から見てさらに奥の方へと向かう。他の部屋とは明らかに別物な重く厚い鉄製の扉を開けると、そこはピアノといくつかの譜面台、電子機器、それと棚に並べられた大量の冊子がある一室だ。周囲の壁には無数の小さな穴が開いており、それを唱子は何度か見たことがあった。

「学校の音楽室みたい」
「うん。防音処理がしてあるんだ」
「家を買う時お父さんに一つだけ、どうしてもって頼んだことがあったの。周りを気にせず練習できる部屋が欲しい、って」

 夜中にピアノを弾いても歌っても全然音が漏れないのよ、と静音は自慢げに言った。
 開け放った扉を奏に閉めるよう促し、それからピアノへと近寄る。
 簡素な椅子に座り蓋を上げ、軽く鍵盤に触れて音色を確認した。

「さすがにグランドピアノは高いし大きいから。電子ピアノはグランドピアノと比べるとちょっと音が駄目なのよね」
「はあ……」

 そう言いながらも、愚痴の類にはまるで聞こえない。楽譜もなく何か、唱子にはよくわからない曲を弾き始める。指の動きは最小限、音色もどこか機械的なものだが、優しい感じがした。
 まるで……子供に語り聞かせるような。

「よし、腕はあまり鈍ってないわね」

 勘を取り戻したのか、静音の声には嬉しそうな響きが混ざっていた。

「奏。あなた達が歌うつもりでいるのは、どの曲?」
「えっとね……」

 問いに対し奏が具体的な曲名を挙げると、静音は一旦椅子から腰を離して、棚の冊子から一つを取り出し、ピアノに置いて開く。
 そこに記された楽譜を一瞥してから、おもむろに伴奏が始まった。唱子も耳にしたことのある旋律。しかしそれは普段、同好会の練習では合唱曲の伴奏だけを集めたというCDの音源で流されるものだ。だからそのことが唱子には当たり前になっていたし、生で聞くのとはどう違うのかと思っていた。

「………………」

 が、やはりと言うべきか、明白な差がそこにはあった。何よりも、奏者の姿がここでは見られる。鍵盤に指を這わせる優しい動き、目を閉じて浸る表情、そのどれもが目の前で感じられる。音色に込められた感情を、より身近で知ることができる。

 ――確かに彼女は睦宮奏の母親だ。ピアノを弾きながら、楽しそうに歌っているのだから。

 唱子の耳がおかしくないのなら、それはアルトパート。他の誰でもない、唱子が担当する部分。主旋律であるソプラノを活かしつつも自らを主張することを忘れないよう要求される、そんな音域だ。それを静音は苦もなく歌う。伴奏とアルトの音色だけで、一つの楽曲として作り上げていた。
 声は力強くも澄んでおり、唱子が上手いと思っていた奏のそれをさらに鮮明かつ繊細に昇華させたもの。それ以上どこに行き着くこともない、完成されきった歌声。
 冗談抜きで、鳥肌が立った。こんな風に歌える人の教えを受けていたのなら、なるほどああも上手くなるはずだ。

(あたし、この人に教えてもらえるんだ……)

 一曲を終えて。
 余韻を残したまま、静音は唱子に呼びかけた。

「次は私と一緒に歌いましょう。……いいかしら?」










 練習は陽が暮れるまで続いた。友達の家に遊びに行っていた奏の弟が帰宅し、そろそろ夕食の時間にもなるので迷惑だから、と唱子は食事同伴の誘いを断り、睦宮家を去った。
 帰り際、玄関で靴を履く唱子に静音は言った。

「いつでも来てね。そうしたら私がまた教えてあげるわ」

 きっと彼女は来るだろう。元気に「はい!」と返事をして走っていった唱子の姿を思い出し、静音は自分が今とても唱子の再来を楽しみにしていることに気づいた。

「……お母さん」
「なあに?」
「楽しそう、だね」
「ええ。白坂さんを見ていると、昔の奏と重なるのよ」

 何も奏とて、初めから歌が上手かったわけではない。越え難い壁にだって何度もぶつかったし、練習そのものが嫌になった時もある。

「彼女、いい子ね」
「友達だもん。大事な、仲間だよ」

 高校に入学して少し経った頃から、奏はよく合唱同好会のことを話すようになった。朋和が小動物めいて可愛いとか、涼澄は変で面白いけどそれだけじゃないとか、途中から加わった唱子が段々自分達に慣れてきたとか、そんなことを嬉しそうに。
 また、活動内容についても仔細に語るので、静音はもう毎日奏達が何をやっているか、様子を見たことがなくとも手に取るように知っている。どれだけ真剣に向き合っているのかも、知っている。
 ……唱子はまだまだ未熟だった。今日の指導中だけでも、静音がミスを指摘した回数は両手の指でも数えきれないほどだ。自分が指導者なら、大舞台に立たせるのは無理だと判断する。しかし――実に、いい目をしていた。あれは挫けず、倒れても立ち上がり、上を目指そうという確かな意思の篭もった目だ。奏はもう通り越した、けれどかつては持っていた、そういうもの。

「ねえ、お母さん。わたし……」

 遠くを見るような静音の表情に、沈痛な面持ちで奏は口を開きかけたが、それは静音の指に遮られた。視線だけで静音は、いいのよ、と言う。

「私は合唱から身を引いたけど、でもそれで何もかも無くしたわけじゃないの。今だってサークルのみんなとは仲良くやってるし、たまに暇を見て遊びに行ったりもするわ。それに」
「それに?」
「今までもこれからも、いつだって私の心は歌と共にあるのよ」

 夫の単身赴任が決まり、自分が合唱から離れたことに関して奏が負い目を感じていたのを、静音は何となく感じていた。だが――誰が悪かったのでもないのに、それを気に病むのは間違っている。謝る必要だってない。静音はずっと、この道を選んだことに対して全く後悔していないのだから。
 優しい手つきで、髪を梳くように静音は奏の頭を撫でた。

「だから奏。悩んでることがあるなら遠慮なく言っちゃいなさい」
「え、な、何で気づいて……!」
「あなた嘘吐くのは昔から苦手でしょう? 顔に悩んでますって出てたわ」
「あう……」
「一人であれこれ考えるのもいいけど、意地張ってないで大人に相談しなさい」
「で、でも……わたしが自分の力でやらなきゃいけないことだから……」
「それで何もできなかったら世話がないと思わない?」
「………………うん」
「引き際を弁えなさい。あなたは充分頑張ったんだから、次は誰かに頼る番」
「……お母さん、ごめんね」
「謝らないの」

 ぺちっと額を手のひらで叩く。
 軽く仰け反った奏を置いて、静音は夕食を作るために台所へ向かう。

「あ、手伝うよ」
「じゃあご飯食べ終わったら話を聞きましょう。包み隠さず、ね?」

 奏は、心底思った。
 こんな母を持つ自分は、本当に恵まれていると。










 休日は両親達と一緒に農作業。腰を折り、稲の様子を確かめながらの重労働だ。
 小学生の頃からずっとやっているので慣れたもの、手早い動きで雑草を抜き取り、それが終わると水の調整、農薬を使わず作った病害虫予防の薬を霧噴きで丁寧に撒いていく。
 途中で祖母と母が握った昼食のおにぎりを頬張りながら、汗を首に掛けたタオルで拭いまた作業に戻る。神経は磨り減るが、ここで怠ると悲惨な結果が待っているので気を抜けない。

「ふぅー……」
「お疲れ、朋和」
「うん」

 母親に水筒を渡され、備えつけの器に冷えた麦茶を注いで飲む。
 だいぶ口の中が乾いていたので、含むだけでも心地良い。喉を通る感覚は尚更だ。
 陽射しは少し傾き始めているが日没まではまだ遠く、手元に時計がないから詳しい時間はわからないものの、おおよそ二、三時かな、と当たりをつける。今日はこれで終わり、あとは自由だ。どこかへ出かけるなり勉強をするなり、朋和の判断次第である。
 水田の底はほとんど泥のようなので、抜いた足には濃い土の色が纏わりついている。汚れることを前提としたサンダルを引っ掛け、家まで戻って水で洗う。じゃばじゃばとホースから出る水は六月になっても冷たく感じ、朋和は急いで泥を落としあらかじめ近くに置いてあったバスタオルで足周りの雫を拭き取った。
 裸足で玄関から上がり、縁側へ。近づけば聞こえてくるのは、賑やかな声。

「ねえねえばっちゃん、次は次はー?」
「ほら、あれ歌ってよ!」
「私は違うのがいいー」

 たくさんの子供達に囲まれて微笑んでいるのは、朋和の祖母だった。
 田舎と呼ばれる過疎地域では人口の減少が問題視されているが、それでもまだ自分の土地から離れられない大人は多い。彼らは子を産み、その子が後を継ぐことを望む。しかし農家の仕事を拒んでもっと栄えた町に出ると息巻く者が大半で、朋和の両親のように、誇りを持って頑張っている方がどちらかと言えば希少なのである。

 よって、紅咲市の東側、自然に囲まれた区域には、子供の数も少ない。近代的な娯楽、例えばテレビやゲームが普及してきた今は、あまり外で遊ばなくなった子もそれなりにいる。が、雪の積もる冬はともかく、ほとんど車も通らない、広い場所がいっぱいあるところなのだから、元気に走り回るのも楽しいのは確かだ。
 子供達は知恵を出し合って考えた、あるいは大人に教わった遊びをし、夜になるまではしゃぐ。道具があれば、野球やサッカーなどの球技も頻繁に行っていた。

 大人は今の子供が知らない色々な知識を持っているが、その中でも朋和の祖母は特別視されていた。初めは朋和だけだったが、段々と人が集まり、時には観客に大人が混ざることもあった。
 地方特有の御伽噺や、戦争時代の経験。そしてとても年老いているとは思えないほど朗々とした、力強くも丁寧な声で奏でられる唱歌や童歌。
 朋和にとって、縁側は祖母の舞台でもあった。自分が幼かった頃と何一つ変わらない光景を見ていると、懐かしさと、それからほんの少し、寂しさも感じる。

「……おや、朋和」

 縁側の木床は体重を掛けるときぃっと軋み、その音に祖母が気づいた。
 振り向く祖母の視線を追って、集まった子供達も朋和を捕捉する。

「あ、朋和兄ちゃん、おかえりー!」
「おかえりなさーい!」
「うん、ただいま」

 もう何十回も会って話した顔触れだ。年下ということもあり、緊張はしない。
 自然な流れで、祖母の隣に座る。近くに立っていた一人の頭をそっと撫でると、他の子も羨ましそうに朋和を見つめて、ねだってきた。順番に優しく撫でてみせる。それだけで喜ぶのだから、可愛いものだなあ、と思った。
 ひとしきり撫で終えると、子供達は再び祖母に続きをせがむ。
 祖母は少し考える仕草をしてから、歌声を響かせた。

(……おばあちゃんの歌)

 きっと、朋和の前で祖母が歌わなかった曲は、もう一つもないだろう。
 百を超える唱歌や童歌を、朋和は全て覚えている。毎日のように聞かせてくれた。朋和が歌詞を頭に入れると、今度は一緒に歌ってくれた。それを繰り返して、朋和は歌がますます好きになった。
 学んだ全ては、きちんと心に仕舞ってある。大事に、大事に。
 その上で、今の朋和は多くのものを得た。奏や涼澄、唱子からたくさんのことを教わった。

(頑張ろう)

 少しずつでもいいから。また一歩、前へ。
 涼澄の前で歌えたのだから、今度は――

「おばあちゃん。次、ぼくが歌ってみて、いいかな」

 朋和の言葉に、祖母は笑みを深くして小さく頷く。
 それだけで充分だった。目を閉じて、胸に手のひらを当て、きゅっと握り、思う。
 ……勇気を出して、息を吸って。
 幼い観客に向けて朋和は歌った。頬を赤く染めて恥ずかしそうに、けれど、楽しそうに。
 二度目の舞台。そこで朋和に与えられた拍手には、前回に負けずとも劣らない価値があった。

「……大きくなったねえ」

 祖母に撫でられて、ほろりと、涙が溢れた。

 それぞれの思惑と決意、答えを胸に。
 五月の空が、暮れていく――。





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何かあったらどーぞ。