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 合唱と一口に言っても、その種類は多岐に亘る。
 通常、複数の人間が『合わせて歌う』ことを指すが、当然ながら、歌い手が全員同じ声をしているとは限らないからだ。男性と女性では、明らかに声域が違う。同性であっても、高低に差は出てくる。

「……それで、パート分けをするんですが」

 四階、社会科室にて。
 記念すべき合唱同好会初の活動は、奏による合唱の説明からスタートした。

「例えば女声合唱の場合は、だいたい三つのパートがあります。上から順に、ソプラノ、メゾソプラノ、アルト。 男声合唱の場合は四つになって、第一テノール、第二テノール、バリトン、バス。 女性の二部合唱や男性の二部、三部合唱もないわけじゃないですけど、さっき挙げたパート分けが一番ポピュラーです」
「……睦宮さん」
「何かなカズくん、質問?」
「ぼく達は……男声と女声が、混ざってる」
「ふむ、そうだな。その場合はどうなる?」
「えっと、それは混声合唱って言います。小学校や中学校で合唱コンクールがあったならわかるかもしれません。 二部合唱もあると言えばありますけど、ソプラノ、アルト、テノール、バスの四部合唱が基本。 一般的な合唱のイメージは、たぶん混声四部合唱だと思います」
「うん」
「俺も、そのイメージしかないな」
「ちなみに、全員で主旋律を歌うのは斉唱。一人ずつで一つのパートを歌うのは重唱っていうんですけど…… まあ、今はそんな細かいこと気にしなくてもいっか。で、わたし達は三人、それを踏まえてパート分けするなら……」

 奏は朋和に視線を移す。

「カズくんは、どっちでもいけるんだよね……。三人で四部合唱はできないし、混声二部にするとしたら、 正直歌いたい方を選んじゃっていいかな、って」
「睦宮が女声パート、俺が男声パート、小野はどちらでも構わない、ということか」
「はい。先輩、飲み込み早いですね」
「特別考えることでもないと思うが」
「あはは、かもしれません。でも、今はまだ前段階というか、さあすぐにやろう、ってところじゃないんですよねー……」

 歌というのは、技術の上に成り立つものだ。声が楽器であるならば、その扱いは練習をすればするほど上手くなる。だが、母に技術面で色々と教わっている奏はまだしも、朋和は自己流、涼澄に至っては歌そのものとこれまで縁遠かった。
 幸いなのは、朋和、涼澄、両者共に素質はあるということだろう。
 それに関して、奏は不安に思ってはいない。

「まだ何か曲を選んで、ってのは先です。まずはきちんと歌うための練習」
「どういう内容だ?」
「えっと、ですね……合唱に必要なのは、一にステージの端から端まで響き渡るくらいの声量。 二に自分のパートをしっかり歌える程度の音域。そして最後に、 音を覚えてきちんと歌えるようになるのには必要不可欠な、音感です」
「声量は、声の大きさ、だよね」
「そう。これは腹式呼吸を意識するの。お腹の奥から声を出す感じって言うとわかりやすいかな。 息を吸う時にお腹を膨らませて、吐く時にへこませるんだけど……ちょっと実践してみよっか」

 朋和に微笑みかけてから、奏は黒板の前、一段高い場所に立つ。
 目を薄く閉じ、腹の辺りに手を当てて、ゆっくりと呼気。
 次に、鼻からすうっと空気を吸った。置いた手が少し前に動く。

「っふー……」

 息を出せば、膨らんだ腹が目に見えて引っ込んでいくのがわかった。
 もう一度。今度はより、時間を掛けて。

「すぅ――――、はぁ――――――」

 吸気に十秒、呼気には三十秒を要した。
 大丈夫かと心配してしまうほどの長さだったが、奏に苦しそうな様子は窺えなかった。

「こんな感じ、なんですけど……」
「……よく息が続くな。俺も応援団でやっていたが、そこまで長くはできんぞ」
「…………すごい」
「そ、そんな特別なことじゃないですって。わたし、毎日練習してますし」
「継続は力なり、ということか」
「ああもう、だからそんな持ち上げないでくださいよ……」

 褒め殺し状態が恥ずかしくなり、俯く奏。
 どこか熱の篭もった朋和の視線が、ちょっと痛かった。

「と、とにかく、最初はこれを無意識にできるようにしましょう。 あ、やる前に身体をほぐしておくといいかも。力を抜いてやるのが重要ですし」
「ストレッチみたいなものか?」
「はい。準備体操をしてから、腹式呼吸の練習。他にも結構いっぱいあるんですけど、順を追って教えていきますね。 とりあえず今日はこれを重点的に。……カズくんも、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、始めましょう」

 奏の見立て通り、涼澄は応援団での経験から、朋和も普段人気のないところで歌っていたからか、 ある程度は腹式呼吸が身についていた。知識として詳しくなくとも、身体は覚えている。 全く知らないものを一から学ぶより、遙かに早いのは確かだった。
 距離の問題で朋和が学校を出なければならない、五時半までの、約二時間弱。
 三人の練習は、ただひたすら、会話以外の発声をほとんど行わずに続けられた。






 何事も、最初から上手くできる人間はそういない。
 相応の努力をしなければ、良い結果は得られないものである。
 しかし――頑張ろうとするのは、難しいことだ。
 気持ちが弱いと、飽きてしまう。
 継続させようという意思が、萎れてしまう。

「そうそう、カズくん、いい感じ」
「……本当?」
「嘘なんて言わないって」

 義務感。使命感。惰性。期待。人が何かをする際の動機は、様々だろう。
 だが、最も継続に必要なのは、楽しむこと、楽しもうとすることだ。
 その想いを持っている限り、努力について回る苦労さえも昇華できる。
 大変でも、行き着いた時の喜びの方が大きいのだから。

 ……朋和は、毎日のように行われる同好会の活動が楽しみだった。 開始から二週間を経て、前準備とも言える練習をこなし、次の段階、発声練習に入ったところで、さらに面白く感じるようになった。
 新しい発見が、いっぱいある。
 社会科室内で専ら先生役を務める奏は、あらゆる面で朋和の二歩も三歩も先を行っていた。
 聴けば聴くほどわかる。その上手さは才能から来るものではなく、確かな下積みあっての、完成した形なのだと。
 全音符をいくつも重ねたような長い音でも、奏の声は僅かな揺れすら見せない。 肺活量も高く、息を切らすまでの時間も相当なもの。 歌っている最中に声を途切れさせる、ということはないのではないか、と思わせる。
 響きも良い。声を張り上げなくとも遠くに届かせることはできると知ったのは、奏が実演して見せてくれたからだ。 部屋の対角線上に立って、その状態で出した奏の抑えた高音は、見事に反対側の朋和と涼澄に伝わった。

 それに何より、本当に、楽しそうに歌う。
 初めて――盗み聞きしたお返しだと言って聞かせてくれた時も、同好会の活動中、教授がてら自分の練習に付き合ってくれる時も。 ころころと、笑いながら、顔を綻ばせながら、歌うのだ。
 心持ちが軽いわけではない。真剣であることとは、話は別。
 彼女は歌うことと真摯に向き合って、その上で、楽しんでいる。

 それが奏の原動力。歌いたいという気持ち。
 朋和も、持っているもの。

 また奏は、妙に朋和に優しかった。優しいというか、何かと甘かった。
 とにかく良く触る。べたべたする。頭を撫でる。
 昼になると、自然と集まって(好意で四谷教諭は申し出をすれば社会科室の鍵を開けてくれる)同じ席で弁当、 時折購買のパンなどを食べる習慣がついたが、いつも奏は朋和の向かいに座り、その食事風景をじっと眺めながら箸を進めるのだ。お互い物を飲み込んだタイミングでたまに話しかけ、他愛もない遣り取りをする。九割九分、話題が続かず口篭もってしまうのは朋和だが、それをさり気なくフォローする形で会話の誘導を行う。
 相手の意を汲むのが、奏はとても上手かった。
 彼女との時間は心地良く、可愛いね、と言われるのも、頭を撫でられるのも、悪い気はしない。単純な、嫌味のない好意だとはっきりわかるから。

「……うわ、先輩ほんっと良く声通りますね」
「そうでなければ応援団はやってられなかったからな」
「おっきな声……」
「小野もこれくらいは出せるだろう」
「む、無理です、そんな……恥ずかしくて」
「その言い方だと、俺が恥知らずのように聞こえるが」
「あっ、いえ、そそ、そんなつもりはなくて、」
「冗談だ」
「あう……」

 涼澄は、かなり不思議な性格をしていた。
 見た目だけで言えば、きつく、怖い印象を受けるのだが……実際は正反対に近い。
 固い口調の端にも色々な感情が見え隠れしていて、それは無表情な彼なりの、精一杯の誠意なのだと知った。 質問には正直に答えたり、真顔で冗談を口にしたり、的外れなことを指摘したり。
 意外と、というのは失礼だろうが、朋和はすぐに心を開くことができた。

 先輩らしく、時には助言の類をすることもある。
 かと思えば、ぴょこんと立った髪を奏に指差されて「……寝癖が直らなかった」と恥ずかしそうにそっぽを向いて呟く日もあった。
 どうやら朋和のことが気に入ったらしく、無言で、不意に頭をくしゃっと撫でたりする。
 奏とはまた違った手つきで、くすぐったい。しかし嫌ではなく、されるがまま。 子供扱いをしているわけではない。おそらくそれは、頑張れ、という気持ちの伝え方なのだ。
 そういう不器用さが、朋和には好ましく映った。

 ……歌に関しても、涼澄は真剣であろうとしていた。奏が示す練習の指針に不満一つこぼさず従い、熱心に取り組んでいる。
 中学校時の経験からか、上達は早かった。
 発声練習の時は綺麗で渋い低音を聞かせてくれたし、何より、与えられたものは全部きっちりやってみせよう、 という気概が感じられたから。覚えがいいのも、当然だった。
 奏が所用で社会科室に来られなくなって、涼澄と二人きりで弁当を食べていた昼時、 隣に座っていた涼澄がふっと漏らした言葉を、朋和は記憶している。

「小野は、歌が好きだからここにいるんだったな」
「……え? あ、はい」
「俺はまだ、好きになれるかどうかもわからない」
「………………」
「だが最近……練習が面白く感じるようになった。一見実るか疑問に思える努力が、 次第に目に見える結果として表れてくると、そうだな、心が躍る、というのか?  次はどうか、もっと先に行けるだろうか、自分はまだ上手くなれるのか、そう考える」
「あ、その気持ち、わかります。ぼくも、色々なことができるようになってるって、思ってました」
「応援団をしていた頃は、使命感が先行していた。大役を任されたのだから、やらねばならないと。 しかし、気負わずにいると、楽なものだな。己の気持ちが、見えてくる気がする」

 好きであることが、歌うために必要な絶対条件だとは、朋和は思わない。
 それは、義務ではないのだ。こうでなければいけない、なんてことは一つもない。 心構えも、楽しみ方も、千差万別。人の数だけあるものだ。 ただ、どんなきっかけで始めたにしろ――結果として好きになってくれたなら、どんなに素晴らしいことか。 歌うことで満ち足りるならば、それはどれほど素敵だろうか。

 奏と、涼澄。
 二人と一緒にいる同好会の活動時間は、朋和にとっても、楽しく、待ち遠しいものとなっていた。
 昼休みに会って、今日はどうしようか、こんな感じで行こうか、と話し合い。
 放課後、段々数が増えてきた練習を一つずつこなしていって、部屋に自分の声を響かせて。
 申し訳なく思いながら、陽が沈む前に帰宅の準備をする。
 正門前で別れて、自転車を漕いで道路に出て。
 舗装されたアスファルトから、次第に田畑だけの風景に変わっていく通学路をゆっくりと過ぎる。
 西日を背に口ずさむ歌は、やっぱり誰かに聞かせられるものではないけれど、 これまでより少しだけ誇らしげに。上達具合を確かめるように。
 そんな毎日が、当たり前になり始めていた。






「そろそろ、歌ってみよっか」

 奏のひとことで、社会科室に緊張が走った。
 ひたすらに練習を重ねて三週間、家でも折を見てやっていたからか、朋和の歌唱力ははっきりと自覚できるほどに上がっていた。 涼澄も、騒音になるからと自宅での発声練習こそ控えていたものの、腹式呼吸や肺活量を高めるための腹筋、 背筋などを日々欠かさず行った結果、立派なバスの低音を獲得した。
 勿論、奏だって胡坐を掻いて大人しく二人の頑張りを眺めていたわけではない。 習慣である家でのボイストレーニングは一度も忘れていなかったし、練習にも付き合った。
 上達に必要なのは、弛まぬ努力。それを怠る者に上は目指せない。
 しかし、もう随分と頑張ってきたのだから、次の段階に行くべきだろう、と奏は判断したのだった、が――

「………………」
「どうした、小野」

 未だに朋和の中の何かは、人前で歌うことを良しとしていない。
 そうしようと思うほど、二人の前で歌声を披露する自分を想像するほど、恥ずかしくなってくる。
 きっと声は、震えてしまうだろう。
 顔も林檎みたいに真っ赤になって、俯いたまま上げられなくなって、頭がくらくらして。
 わかっているのだ。奏と涼澄が相手なら、決して非難されることはないと。
 おかしい点を指摘されることはあれど、いたずらに貶すことはしないのだ、と。
 それでも。怖くて、仕方なかった。

「……カズくん」
「睦宮、さん。ぼく……」
「いいよ。大丈夫だから。わたしだって、カズくんに無理をさせたいわけじゃないよ。それはわかるよね」
「……うん」
「だけど、少しずつ慣れていこう? まずはわたしと先輩の前で歌えるようになること。 そこからゆっくり、ゆっくりやっていけばいいと思うの」

 ――何も、焦ることはない。

「だから今日はみんなで歌おう。わたしがきっかけを作るから、カズくんも先輩も一緒に」
「……ふむ。小野、睦宮が言ったように、俺達は小野に無理をさせたいわけではない。 が、そうだな、難しく考えることはないだろう。発声練習と同じだ。 他人に聞かせるのが恥ずかしいと思うなら、今は自分にだけ聞かせるといい」
「自分に、だけ」
「心構えの問題なら、俺はそれで大丈夫だと思うが」
「……わかりました。やって、みます」

 言いながらも、朋和の身体は強張ったままだった。
 余計な力が入り過ぎている。それを自覚して、けれどどうにもならないのが歯痒くて。
緊張を和らげようと、深呼吸。勝手に鼓動を早めた心臓が、少しでも静まるよう。

 ……一緒に。
 その言葉が、そっと、朋和を後押しした。

「じゃあ、まずわたしだけで歌うから、二回目は三人で。……カズくんも、それでいい?」
 奏の問いに首肯を返す。
 わかった、というように奏は小さく微笑み、すぅ、と息を吸い込んだ。
 そして、響く。

「春は名のみの風の寒さや
 谷の鶯 歌は思えど
 時にあらずと 声も立てず
 時にあらずと 声も立てず」


 早春賦。
 大正の時代に発表された、代表的な唱歌の一つ。
 冬が終わったばかりの、まだ春と言うには些か寒い、そんな弥生の頃に、もうすぐ暖かい日が訪れる、 春が来る、と待ち焦がれる人の心情を歌った曲だ。
 祖母に教わったことのある朋和はともかく、涼澄はこれまで一度も耳にした覚えのない歌だが…… 語りかけるような優しい奏の声を聴くと、不思議と鮮明な情景が脳裏に浮かび上がる。
 ……春が、早く来ないかな。
 伴奏もない、歌声のみで、彼女は余すことなく歌詞のイメージを表現している。

「………………」

 朋和は、ドキドキ、した。
 緊張もある。けれど、それだけじゃなくて――

(やっぱり)

 彼女の歌う姿を見て、朋和は思う。

(一緒に歌ったら、すごく、楽しそうなんだ)

 三番までを、奏は一気に歌いきった。
 注目を受けていると気づき、薄く頬を赤く染めてぺこりとお辞儀をしてから、

「えっと、次は一緒にお願いします。二人とも、今の曲は?」
「……俺は初めて聞いたが、いい歌だな」
「はい、CDとかもありますし、機会があれば是非。カズくんはどう?」
「昔おばあちゃんに教えてもらったことあるから、平気。覚えてる」
「そっか。……何か、嬉しそうだね。歌えそう?」
「……うん。睦宮さんと一緒なら、きっと」
「ふふ、よし! もう一度行きます。先輩は……歌詞とか今のでわかりました?」
「ある程度は記憶した」
「一応二人の歌声をチェックする意味合いもありますけど、肩肘張らず、楽しんで歌いましょう。じゃあ……いっせーのっ」

 今度は同時に、息を吸う。一瞬、朋和は横を見た。奏と目が合う。ウインクが返ってきて、また少し、気持ちがふわりと軽くなったように感じた。
 頭の中を、まっさらに。大丈夫、響く声は三人分だ。お互いに聞かせる緊張も、不安も、三分割。 難しく考える必要はどこにもない。そのための、仲間なのだから。
 いつの間にか、無駄な力は抜けていた。

「――――」

 異なる高さの声が合わさり、一つの音色になる。
 それは斉唱というにはあまりにも拙くて、タイミングもバラバラ、つい奏が歌詞を間違えたり、 朋和の声が震えていたり、涼澄が音を外したりと、散々なものだったけれど。
 ……三人の中の誰にとっても初めての、同じ気持ちを共有した、かけがえのない時間。

「何か……」

 歌い終えてから、奏が呟いた。

「改善しなきゃいけないところとかいっぱいあるって、わたしも、 勿論カズくんも先輩もわかってると思うんだけど……うん、とりあえず、すっごい楽しかった」
「……不思議な感じだな。しかし、悪くない」

 二人の言葉に、無言で朋和も同意する。
 今も残っているのは、仄かな熱。心地良い胸の高鳴り。
 その、言葉にし難いような、素敵な気持ちがある限りは。

「カズくん、どうかな。また歌えそう?」
「……一人じゃ、たぶん、無理だけど」
「だけど?」
「睦宮さんと、倉本先輩と一緒なら……」

 ……きっと平気だと、思った。

「ああもう、本当に可愛いなあカズくんはっ!」

 奏、思わず抱きしめる。

「むぎゅ」
「すりすり」
「あう、む、むふみあひゃんっ」
「ううー、いい抱き心地ー」
「離してやれ睦宮。小野が苦しそうだ」
「あ、ごめんね。……また今度抱きしめていい?」

 ぶんぶんと音がしそうなほどの勢いで横に首を振る。
 ……別の意味で、平気じゃないかもしれなかった。






 壁に、背を預ける。ぽふっと服が潰れ、首裏に隙間の空気が当たるのを感じた。
 細くも深い溜め息を一つ。ぼんやり蛍光灯の並ぶ天井を見上げ、

「なんだかなー……」

 誤魔化すように切り上げて、見つからない場所まで逃げてきたのに、暗鬱とした感情からまでは逃げられないらしい。
 ならどこまで行けばいいのかと考え、結局、どこに行っても同じだと気づく。
 どうしたって、否応無しに戻ることになるのだから。

「明日の朝には顔合わせなきゃならないしね……。あー、ズル休みしようかなあ」

 口にしても、それなりに真面目な性根なので、本当にそうしようとは思わない。
 だから結局のところ、逃げるだけ無駄なのだ。自分にとっても相手にとっても、いいことなんて一つもない。
 軽い文句を言われておしまい。勝手にこっちが疲れるだけ。

「……重い」

 要するに、白坂しらさか唱子しょうこは同級生の女子に、 一方的に懐かれてしまったのだった。
 昔から何故か、子供っぽいのに好かれることが多かった。 全然自覚はないのだが、傍目には話しかけやすい人間と見られているらしく、特に同性には気安く、気軽に声を掛けられる。

 それが嫌というわけではない。別に、好意的な評価をされるのが鬱陶しいだなんて思うほど捻くれた性格もしていない。ただ、悩んでるからと相談を持ちかけられ、答えられるので答えてしまい、あとはもうなし崩し的にずるずると、だらだらと引っ張られてしまう。そうやってできる友達というのも、確かにあるのだろうが――唱子からしてみれば、そんなの重荷以外の何物でもなかった。
 だって、一方的に過ぎる。相手にとって自分は、寄りかかって重荷を預けるだけの存在で、 愚痴も他人に対する嫌味も受けるだけ、こっちの都合なんてお構い無しだ。
 ――白坂さん、本当に聞き上手なんだね。
 最近平日の間は朝から放課後まで見ている同級生の顔を思い浮かべ、鞄の取っ手を掴む手にギリギリと力を込める。

(何が聞き上手なんだね、よ。あんたが勝手に話してくんじゃない)

 突っぱねるのは心苦しい、そう思ってしまうのは己の甘さだとわかっているのだが、 それが現状を招いているのだと理解していて、だからこそ、逃げるしかできなかった自分に嫌気が差す。
 いい加減痛くなってきたので手を離すと、どさっと鞄が落ちて乾いた音を立てた。

「何やってんだろ、あたし……」

 こういう時に、欲しくなる。
 自分の背を預けられる、そんな人が。居場所が。
 いくら壁に体重を投げたって、沈んだ心まで浮き上がって軽くなるわけではないのだ。

(友達、か)

 その単語が、都合良くほいほいと荷物を背負わせてくる相手に対して使うものなら、唱子には少なくない数の友達がいた。しかし、そうでないのなら、高校生になった今でも、彼女には一人の友達もいない。
 運がなかったと言えばそれまでだ。良い信頼関係を築けなかったと言えば、確かにその通りなのかもしれない。 けれど決して、唱子にだけ責があるなんてことは有り得ないだろう。

「……帰ろ」

 悩むのすら馬鹿馬鹿しい。
 慣れた自室のベッドに寝転がってうじうじぐだぐだしている方がいくらかマシだった。
 壁から背を離し、間抜けにも自ら落として横倒しにした鞄を取る。埃を払う。
 何も考えず逃げてきたが、とりあえずは階段に向かって歩こうと四階の廊下を歩き始め、

「あれ?」

 どこかから、声が聞こえてきた……気がした。
 入学してすぐに催された部の勧誘会で配られた、冊子の中身を思い出す。 校舎にある全ての運動部、文化部、及び同好会の活動場所が書かれたそれには当然ながら四階の分もあり、 吹奏楽部用の小部屋以外はどこも使われていない旨が記されていた。
 なので、どこかの教室で雑談に興じている誰かの少々大きな声が届いたのかと思い、止めていた足を再び動かす。 が、また同じ方向から聞こえてきて、ふと唱子は興味を抱く。

(これってたぶん……こっちから?)

 声のした方へと行ってみると、社会科室に辿り着いた。
 普段から施錠されている引き戸は、今日も開きそうにない。幻聴だったのだろうか。

「いや……うん、ここから聞こえる」

 自分の耳が遠くないことに安堵を覚えつつ、物音を立てないよう、そっと扉に近づく。
 すぐ側の壁に背から張りついて、目を閉じ、集中。
 聞こえる声は、おそらく三人分だ。明るい少女のものと、低い男子のもの。 そして、微かではあるが、中性的な少年のもの。何を話しているかまではわからない。
 もっと意識すればいけるだろうか、と耳を済ませる。
 ……ふと、扉向こうの会話が途切れた。

「――――――え?」

 歌が、響いてくる。
 笛の音のような鋭く細い、綺麗と形容するしかない二つの高音と、 大気の震えがそのまま伝わってくるかのような、太く重い低音。
 途中で外したのか、中途半端なところで切れてはまた歌い始める。
 繰り返す度に良くなる歌声。時折こぼれる、ささやかな談笑。

 いつの間にか、唱子は座り込んでいた。無意識のうちに、聴き惚れている自分がいた。
 だって、この扉の奥にいるだろう三人は、心から楽しんでいる。
 今の時間を。歌うことを。何より、仲間と共に力を合わせることを。
 そこにあるのは、確かな信頼。間違いを正し、負担は分け合い、幸福を共有する双方向の関係。
 三人ならば、小さな輪だろう。でも、大きさなんて関係ない。小さくたって、構わない。 唱子は『それ』が欲しかったのだ。気持ちを圧迫されるだけでなく、 自らの重荷を預けられる、そんな人のいる場所を、求めていたのだ。

(手を伸ばせば)

 届くかもしれないと、思う。
 受け入れてくれるだろうか、不安はあるけれど。
 そこにいられるかどうか、自信もないけれど。
 ……憧れたから。

「あたしも、そこに入りたい」

 座ったまま、下校時刻まで待ってみようと思った。
 そうしたらきっと、帰ろうとする彼らに会える。
 自分でも変なことをしようとしてる、そういう自覚はあるけど、 我ながら恥ずかしい真似をするつもりだと思っているけど――今を逃したら、もう二度とチャンスはないような気がする。
 実のところ、そんな思考は当然ながら勘違いで的外れ、決して千載一遇の機会というわけではなかったのだが、 気が沈んでいたからか、その時の唱子は冷静になれなかった。
 何だかんだで、彼女も参っていたのである。
 静寂に身を委ねて……床に座り、そのまま眠ってしまったのだった。






 さあ帰ろうと荷物をまとめ扉を開けると、出てすぐ左に女の子が座って寝ていた。正確には熟睡してたらしいのだが、がらがらー、という引き戸の割と大きなスライド音に反応してびくっと頭を上げた。
 きょろきょろ左右を見回してから、奏、朋和、涼澄がじっと自分を見ていることに少女は気づく。

「……! ……っ!」

 可哀想なほどに動揺した。

「あ、ご、ごめん、驚かせちゃった? でも……どうしてこんなところで?」
「睦宮、今は春だ。ふと眠くなって一休みした、という理由でも決しておかしくはないと思うが」
「それは充分おかしいと思います……」
「言うようになったな小野」
「あうあうあう」

 朋和はぐりぐりと、涼澄に荒い手つきで撫で回される。
 撫でるというより鷲掴みに近かったが、頭を揺らされていることに変わりはなかった。

「うぅ……あれ?」
「どうしたの?」
「えっと……白坂さん、ですよね」
「知り合いか?」
「クラスメイト、なんです」

 目の前の人物に見覚えがあったので、正直に言う。
 白坂唱子。特別目立つような部類ではないが、朋和は彼女のことを覚えていた。
 女子の中ではそれなりに背が高いからか、比較的大人びた雰囲気の生徒で、 同性からよく相談やら何やらを持ちかけられている姿が印象に残っている。 しょうがないわね、などと苦笑しながら話に乗ってあげる器量の広さが、慕われる要因らしかった。 ちなみに、朋和とはほとんど言葉を交わしたことはない。お互い、同級生の一人程度の認識しかない間柄である。

「……小野君じゃない」

 驚いたのは唱子も同じだった。
 彼女から見た朋和の印象は、気弱でどこか保護欲を掻き立てられる少年だ。
 いつも俯いていて、人の注目を集めるのが苦手な、恥ずかしがり屋。
 ほとんど必要以上のことは喋らないし、誰かに対して強い物言いをすることもない。
 背の小ささも相まって、全体的に弱々しい感じの子だと思っていた。
 しかし、今は――

「先に謝っておくけど、小野君、こういうのって苦手じゃない?」

 聞き間違いでなければ、彼は唱子が知らない、つまりクラスメイトでもない二人と一緒に歌っていたのだ。
 しかも、その二人の片方、大柄な男子生徒に向かって、突っ込みめいたことまで言っている。
 人見知りの気がある朋和と先の言動がどうにも重ならず、一種不躾な質問をしてみたのだが、
「うん、苦手だけど……苦手なままじゃ、いけないと思って。 それで、白坂さんは……えっと、ぼく達に用があったりとか……した?」

 返ってきたのは、予想外に真っ直ぐな理由だった。
 さらに答えにくい疑問を向けられ、うっ、と言葉に詰まる。
 とりあえず誤魔化すことにした。

「あ、あのね……ああそう、そっちの二人ははじめましてよね。あたし、白坂唱子」
「合唱同好会のリーダーで、睦宮奏です。カズくんと一緒のクラスなら、同い年だね」
「メンバーの倉本涼澄だ。一応、二年で先輩に当たる」
「あ、はい。よろしくお願いします。……ん? カズくんって?」
「ああっ、えと、その……うぅ、睦宮さん」
「もしかして……二人って付き合ってたりとか」
「え? カズくんとは友達だよ?」
「……小野君、片想い?」

 朋和は力いっぱい否定した。そのせいでくらくらする。

「そそ、そういうことじゃなくて……本当に、ただの友達だから……」
「からかい過ぎたわね。ごめんごめん。随分親しげだな、って思って」

 親しげ。
 仲が良い証拠。

「まあ、聞かれたくないこともあるだろうし、詮索はしないわよ」
「わたしは別に話してもいいんだけど」
「あうぅ……」
「恥ずかしがってるし、言わないでおくね」
「……いい関係ね」
「そう?」
「そうよ」

 思わず、少しムキになってしまう。

「……二人に代わり改めて訊くが」

 そこでしばらく無言を突き通してきた涼澄がぬっと前に出た。
 白坂でいいか、と短く言われ、唱子は頷く。
 それを確認してから、

「白坂は何故ここで寝ていた?」
「あ、その、それは……」
「聞かれたくないこともあるだろうから、詮索はしない。白坂が先ほど口にした言葉だ」
「………………」
「だが」

 問い質すような、強い口調ではない。

「言うべきことがあるのなら、ここで言った方がいい」

 背を押すような、諭すような、静かな口調だった。
 唱子はしばし、考える。
 見透かされている気がして、落ち着かなかった。

(……言うべきこと)

 きっと涼澄は唱子が何のために座っていたかを薄々ながらもわかっていて、その上で唱子自身から答えを引き出させようとしている。 後ろの二人、朋和と奏は、いまいち状況が飲み込めていないようだ。
 涼澄が語ったことを受けて、唱子の次の言葉を待っている。じっと、見つめて。
 嘘を吐いて誤魔化して、何でもないと帰ってしまっても、良かった。
 そうしても涼澄は何も言わないだろうし、二人だって納得する、そんな確信がある。

 ……でも、本当は。
 自分はどうしたいのか。どうしてここで待っていたのか。
 目の前の三人が築いた居場所。そこに加わりたいと、憧れたのではなかったか。

(答えなんて、もうとっくに出てるんじゃない)

 なら後は口にするだけ。
 そのために、少しだけ勇気を出そう。

「……三人とも、合唱同好会? 社会科室でやってるのよね」
「うん。ほとんど毎日、放課後は」
「――あの、さ。それって、人数足りないとか、そういうことって、ない?」
「勿論足りないよ。合唱だって、たくさんいた方が色んなことできるしね」
「なら」

 自分も。

「あたしも……入って、いい?」

 同じところに、行きたいから。
 果たして、

「合唱同好会にようこそ、白坂さんっ」

 奏達は揃って唱子を迎え入れた。
 新たなメンバーの参入に喜んだ奏が、おもむろに唱子の手を握る。それを見て、ほんの少しだけ顔を綻ばせる涼澄。 口元を緩めるだけの、ほとんど判別できないようなものだったが、 はしゃぐ奏と困惑気味の唱子を見ていた朋和が、その変化に気づいた。

「……先輩、笑いました?」
「ああ……そうだな。嬉しいのかもしれん、俺は」
「白坂さんが、ぼく達の仲間になってくれたから?」
「それもある。が、それだけではないと思う。……すまんな小野、自分でもよくわかっていない。 どうしてこんな気持ちになっているのかが」

 後押しをしたのは、確かに涼澄だ。
 しかし、最終的な決断を下したのは、迷いを断ち切り答えを選んだのは、唱子自身である。

「……同じなようで、同じではない、か」
「…………?」
「いや、気にしなくていい。独り言だ」

 まだ涼澄には、掴めていなかった。
 胸の中で存在を主張する、その感情が何なのか。
 自分のそれが、唱子のものと一致しているのかどうか。






 五月頭、ゴールデンウィーク。
 休日なので登校をする必要はないのだが、朋和は校舎の正門前に来ていた。
 いくら時間があると言ってもさすがに徒歩で往復する気はなく、いつも通り自転車での五十分だった。
 時刻は昼、正午の三十分ほど前。そろそろお腹が減ってくる頃である。
 到着するとまず、自転車を適当なところに置いてから周囲の様子を確認。 休みだからか、一割増しで人通りが多いように思える。とはいえ雑踏と呼べる数ではなく、比較対象の自宅周辺が過疎過ぎるだけだ。
 あまり大勢の人には慣れない。
 都市部中心の駅なんて、可能な限り近寄るのも避けたい場所だ。 特に会社員やらで込み合うラッシュアワーは、一度経験してからもう二度と電車になんて乗るものかと思ったほどだった。

「……早過ぎた、かな」

 もしもの時のためにと、朋和は親に携帯を持たせてもらっている。
 料金設定は最低限、電話がちょっとできればいい程度のものなので、自分では全くと言っていいほど使わないが、 誰かと待ち合わせたりする際にはとても便利だった。 腕時計は手首の違和感が好きになれなかったし、その点でも時計代わりにもなる携帯は持っていて損はない。
 ちらりとポケットから出して、画面を見る。
 十一時四十分。まだ、早い。

「…………はぁ」

 余った時間を、ちょっとした回想で潰すことにした。
 稲作はこの時期、田植えが主となる。機械化が進み、朋和の家でも効率を求められるようになったが、 基本的には人の手で行われるものである。 今はもう亡くなった祖父が守り、残してきた土地を、父と母は自分達なりのやり方で大事にしようとしてきた。 稼いだお金で田植え機やコンバインと言った農業機械を購入し、人の負担を減らしながらも、 大事なところは全て手ずから愛情を込めて処理していく。
 昔とは随分変わってしまった手順を、祖母はさして文句も言わずに手伝い、見ている。 時に年寄りらしい、先人らしい辛辣な言葉を吐くこともあるが、それも育つ稲を想ってこそだ。 自分が食べるものを、誰かに食べられるものを作る責任を持っているのだから、手を抜くことは許されない。

 誇りを持って育てなさい、という祖母の口癖を、朋和は声色まで思い返せる。
 今時農家なんてやってられないという人もいるけれど、懸命に単調な作業を繰り返し繰り返し進める両親の姿を知っている朋和からしてみれば、とても素敵な仕事だ。

 ……我が子の成長を見守るように。
 朋和には兄弟がいっぱいいるのよ、なんて冗談めいたことを口にしていた母。
 上手い米が作れりゃもうそれに勝る喜びはないさ、と笑っていた父。

 大人になるまで、朋和にはまだ猶予期間が残されている。
 その間に夢が見つかれば、目標を得られれば、それに対しきちんと向き合って頑張っていくことになるだろう。
 ただ、どうしても、本当に何よりも優先して目指したいものがなかったら、家業を継ごうと思っている。 消去法の選択ではなく、自分なりの、誇りを胸に。

「でも……迷惑、掛けてばっかりかも」

 合唱同好会を奏と、涼澄と一緒に作った時。
 朋和は、両親にそれのために帰りが遅くなることを伝えた。

『手伝える時間、減っちゃうけど、平気?』
『お前なあ……家のことは気にすんな、自分のやりたいようにやれ』
『大変な時にはちゃんと言うから、できる時だけ手伝ってくれるだけでも充分よ』

 優しい、返答だった。
 親らしい子への気遣いを、無駄にはしたくないと思う。

(……頑張ろう)

 そう決めたのだから、いつか、両親にも自分達の歌声を聞かせられるように。

「…………あ」

 ふと、自転車の走行音を耳にして、顔を上げた。
 携帯のデジタル時計が示すのは、十一時四十六分。約束時間のおよそ十五分前だ。決して遅くはない。充分早い。段々と近づいてくる人影は間違いなく奏のもので、ゆっくり目の前で速度を落とし、止まり、降りてスタンドを立ててから、

「カズくん早いねー……いつ頃からいた?」
「……十一時半くらいには」
「え? ちょっと前過ぎない?」
「その……つい、待ち遠しくて、早めに家、出ちゃって」
「…………えいっ」
「むぎゅ」

 早速抱きしめる。
 腕の中で暴れる朋和をひとしきりぐりぐりしてから、ぱっと離した。

「自覚ないと思うけど、カズくんのそういうひとことがわたしを狂わせるんだよ」
「うぅ、睦宮さん絶対わざとやってる……」
「だって可愛いんだもん」
「あんまり嬉しくない……」

 朋和としては男らしい父親のようになりたいのだが、奏よりも小さい背と童顔ではその願いも叶いそうにない。 無理である。そうされること自体は、嫌ではないとはいえ。

「いいんだって。自分らしくいるのが一番だよ」
「でも……」
「変わっちゃ駄目っていうわけじゃなくてね。ただ、無理はするものじゃないと思うの」
「……うん」
「わたしは今のカズくんが好きだから」

 通りすがりのおばさんがぎょっとして振り返る。
 勿論、奏は告白めいた発言をしているつもりはない。
 朋和も、告白されているとは欠片も思っていない。

「よしよし」

 丁寧な手つきで、奏が朋和の頭を撫でる。それでほっとしてしまうところが『可愛い』と言われる所以なのだが、 気持ちが安らぐのは確かで、朋和は目を細め満更でもないようだった。

「それじゃ、どっかでお昼食べてから行こうか」
「この辺、よく知らないから……睦宮さんに任せるね」
「おっけー。じゃあその後の道案内はよろしく」

 二人とも自転車に乗る。
 奏の先導で、出発した。






「うわー! すごい、ひろーい!」
「む、睦宮さん、そんな大声出しちゃ……」
「おおトモ君、今日は彼女連れかい?」
「ちっ、違いますーっ!」

 結局駅付近のファーストフードで軽く昼食を済ませ、今度は朋和が前に出て、東に向かって走り始めた。 あまり速度は上げず、車の通りを見ながら十分ほど行けば、次第に建物は姿を消し、景色が開けていく。
 まるで境界線が引かれているかのように、ある一点から様相はがらりと変わった。
 視界に緑が増え、舗装されたアスファルトもでこぼこの土と草の道にシフトする。ところどころにある巨大な座布団めいた四角い田んぼではお年寄りがせっせと働き、知った顔である朋和に声を掛けてくる。
 その何もかもが、都市部に居を構える奏には新鮮なものだ。
 なるほどこれは急ぐのも勿体無い。飛ばせば学校から四十分前後で着くらしいが、 毎朝ゆっくり来るという朋和の気持ちもよくわかった。

 春の陽射しに温められた、清涼な空気。漂う草と泥の匂いも、不快なものではなく、むしろ場に上手く溶け合っている。自分の身長よりも遙かに高い建築物が並ぶ都市部では絶対に味わえない開放感。
 ふと、思ったことを訊いてみる。

「ねえ、カズくん」
「なに?」
「こうやって自転車漕ぎながら、歌ったりとかする?」
「………………」

 朋和は恥ずかしそうに頷いた。

「いや、うん。責めてないよ? 何となくね、わたしも、歌いたくなったから」

 緩やかに風を切りながら。
 声を響かせて歌えたら、どんなに気持ちいいだろう、と。

「いいなあホント。空気は澄んでるし、風は気持ちいいし、景色も最高だし」
「……でも、夜になると、真っ暗になっちゃう」
「あー、そりゃそっか。電柱とか外灯とか少ないもんね。どのくらい真っ暗?」
「山の方は……三歩先が見えないくらい」
「うわ、自転車のライト壊れてたら絶対ここには来れないなあ」
「田んぼに落ちるかもしれないし、夜は、あんまり出歩かない方がいいから」
「この時期なんて特に落ちたら悲惨だよね。泥だらけになっちゃう」
「うん」

 それなりに道が広くなると、二人並んで走る。
 バランスを崩さない程度に横を向いて、会話をしつつも漕ぐ足は止めない。
 流れる風景は単調だが、ビル群を眺めているよりはよっぽど楽しい、と奏は思う。 五月になれば春の花はあらかた散ってしまい、しかし茂った青い草の匂いがそこかしこから届いてくる。
 のどかな雰囲気。
 朋和の純朴な性格も、ここで培われたのなら当然と言えるのかもしれなかった。

「それに、あれがこんな近くで見られるだけでも充分羨ましいよ」
「……ちょっと、否定できない、かも」
「写真に撮りたいくらい……ううん、やっぱり自分の目で見るのが一番いいかも」

 ――合併に伴い市名変更をすることが決まり、住民から大々的に新しい名前を募集したのだが、 その時候補に挙がった中で最も多くの票を獲得したのは『紅咲』というものだった。
 理由なくつけられ、選ばれた名ではない。
 言葉通り、市の東にある山々では、紅が咲く。

「あれって何の花なんだっけ?」
「今は、ヤマツツジだったと思う」
「よく知ってるねー……」
「おばあちゃんに、教わったから」

 躑躅ツツジ。映山紅とも書く。その名が示すように、山に映える紅。
 種の多い、主に低木の植物で、概ね五月前後に開花する。花の色は様々だが、ヤマツツジの場合は鮮麗な紅色だ。 多少まばらとはいえ、山々の六割ほどを埋め尽くすツツジは綺麗と言う他にない。
 また、秋になるとドウダンツツジと呼ばれる種が、紅葉して強い紅色になる。 こちらは花が白く釣り鐘状で、見た目は可愛らしいが側に寄らなければ小さ過ぎて判別できない。 咲いてもヤマツツジの紅に紛れてしまう。
 春と秋。合わせておよそ三ヶ月の間、山の鮮やかな紅色が見られることを知っている住民は、 誰が考えたのか随分と洒落た、見事に市のイメージと合致したその候補を選んだのだった。

「カズくんの家から一番近い山まで、どのくらいある?」
「えっと……だいたい、歩いて二十分くらい」
「近いのか遠いのかわからないなあ」
「割と、近い方かもしれない。ツツジを見に行くなら、そこからさらに登らないといけない、けど」
「そっか。今日は無理かな。時間ないし。朝から来れば平気かもね」
「……たぶん」
「じゃあ今度はみんなで来よう? 疲れるから嫌って言われるかもしれないけど…… もっと近づけば、もっといいものが見られるような気がするんだ」
「ぼくは、うん、一緒に行きたい。でも……倉本先輩や白坂さんはどうだろう」
「先輩なら二つ返事で頷くような……。唱子ちゃんは嫌がるかも」

 朋和のことを『カズくん』と呼ぶように、奏は唱子のことを『唱子ちゃん』と呼ぶようになった。
 あるいはそれが信頼の証なのかもしれなかったが、呼称の親しさが心を開いている度合いと見るならば、 涼澄にはまだ慣れていないということになるだろう。
 涼澄とも良好な関係を築けているので、勿論そんなことはない。
 年上なので遠慮している、と取るのが適切である。
 彼に対する呼び方も、近いうちに変わる可能性は高そうだった。

「まあ、すぐじゃなくてもいいから、行けるといいな」
「……そう、だね」

 休みの日に四人集まって。
 朝、自転車を走らせ町を突っ切り。
 山に登って、咲き乱れるツツジを目に焼きつける。
 それだけのことだけど、きっと楽しいと思うのだ。

「もうすぐ」
「あ、そんな経ってた?」

 唐突な朋和の言葉に、奏は軽く自転車のハンドルから左手を離し、腕時計の画面をちらりと眺める。 前輪の軌道は若干不安定そうに揺れたが、転ぶ様子はない。
 それをじっと眺める朋和。

「……すごい」
「え? そうかな、簡単だよ?」

 腕時計の似合いようもだが、片手だけで走っていられる奏は感心に値した。
 未舗装の道はアスファルトほどに平面でなく、そこら中に小石やら何やらがころころと落ちていたり転がっていたりする。 突っ掛かればタイヤは跳ね、バランスを崩してしまう。
 そんな状況で上手く運転を続ける自信は、朋和にはない。
 だって、片方でも手を離したら怖いだろう。

「ん、しょっと」

 なのに奏は、ぱっと両手をハンドルから浮かせた。
 そのまま足と腰の動きで直進軌道を維持する。

「わ、わっ、あっ、危ないってっ」
「平気平気……おっとと」

 ふらりふらり、不規則に前カゴが左右へと振られるが、ギリギリの姿勢で奏は保ち続ける。
 しかしそこで小石に躓いた。一瞬前輪が宙に浮き、反動で体勢が斜めへ傾く。

「あわわわっ」
「っ!」

 展開されるだろう痛々しい光景から目を背けるように、朋和はぎゅっと目を瞑った。
 併走する自転車も急停止し、手で顔を覆えない代わりに思わず肩を竦める。

「危なかったー……」
「……睦宮、さん?」

 が、聞こえてくるはずの音がいつまで経っても響かなかったので、そろそろと瞼を上げる。

「セーフ。転ぶ寸前で何とか間に合ったよ」

 奏は四十度近く右に倒れかけながらも足を突っ張り、自転車を支えていた。
 ゆっくり姿勢を戻し、ふぅ、と息を吐く。
 ぽろっとカゴからこぼれた手提げ鞄を拾い上げて、

「ごめんね。ちょっと迂闊だった」
「倒れたかと、思った……」
「心配させちゃってすみません」

 頭を下げて素直に謝罪。

「この辺、でこぼこしてて危ないから……気をつけて」
「うん。身を以って知りました」
「……あと少しだから、行こう」
「そだね。ゆっくりゆっくり」

 朋和に珍しく強い口調での注意を受け、奏は苦笑いを浮かべながら再度漕ぎ出す。
 不器用ながらも真っ直ぐな心配が、嬉しかった。






 朋和の家は、転びかけて足を止めた地点から五分程度のところにあった。
 もっと古めかしい、年季の入った家屋だとばかり奏は予想していたのだが、意外とこざっぱりした外装だった。

「お邪魔しまーす……」

 ただいま、と結構大きな声で言った朋和の背を追う。
 木製の床を歩けば、小さく軋む音。自分と両親、祖母との四人暮らしだと前に奏は聞いていたが、 同じ人数構成の我が家と比べて全然広い、と少し驚いた。

(何か、田舎の家って大きい印象あるけど)

 それだけではないような気がするのだ。
 大きいだけなら、都市部にだって冗談じゃないかと思うような一軒家はある。たまに見かける。でも、そう――この家は、雰囲気が柔らかい。いつでも客を歓迎していて、訪れた人のあるがままを受け入れてくれる、そんな感じ。
 優しい木の匂いは気持ちが安らぐし、足元の軋みも耳にすると適度に力が抜ける。不気味な夜の廃屋で聞けばまた別かもしれないけれど、きしきしと音を立てながら歩くのは、とても間抜けなように思えた。

「こっち」

 玄関から伸びる廊下は途中で右に折れ、そこは個室が並ぶ縁側に続いている。
 外、庭が見える場所に出ると、ツツジの咲く山々が一望できた。

「うわ、すごい贅沢だ」
「……そう、かな」
「絶対そうだよ」
「見慣れてると、わからないから」
「それはそれで勿体無いね……」

 ――ゴールデンウィーク、カズくんの家に行っていい?

 平日に四人が揃った昼の席で、奏が朋和に向かってそう提案したのは五日前のことだった。
 瞬間唱子は絶句し、涼澄は見定めるような視線を渦中の二人に対し送ったのだが、 朋和は周囲の一種緊迫した状況には全く気づかず、帰ったら訊いておくと答えた。
 その翌日、奏の小野家訪問が決定した。何故か家族には家を空けておくと言われたらしく、何でだろう、 と可愛らしく首を傾げる朋和と奏を見てどうしてこいつらは無自覚なのかしらと唱子が呆れ返ったのだがそれは余談である。

 奏にそういう意図はない。
 ただ単に、朋和が前に言ったことを覚えていただけだ。

 合唱同好会がなかった頃、練習場所はあるかと二人で話していて、朋和は自分の家の近くならと提案した。 しかし、往復でどんなに急いでも九十分は掛かる距離なのでその時は無理だと却下したのだが―― ちょっと気は早いかもと思いつつも、夏休みとかならいいんじゃないかと考えついた奏は下見を兼ねて、 興味も含めて、朋和に行っていいかどうかを訊いたのだった。
 実際来てみればよくわかる。なるほど、歌の練習にはちょうどいいのかもしれなかった。
 都市部だと防音がしっかりしていない限り、特に夜は騒音問題の関係であまり声を張り上げられない。 その点で、一時間に一度誰かを見かければ多い方である小野家周辺は最適だ。

 また、人がいないというのは朋和にとって有り難いことである。
 いつかは慣れるべきだが、奏はまだ早いと判断していた。
 努力をすることと無理をすることは違う。前者は報われるものだが、後者は祟るものだ。
 限界を弁えず歌い続ければ、喉が嗄れてしまうのと同じように。

「家族の人達は?」
「たぶん、田んぼの方に行ってる、と思う」
「お仕事?」
「うん。家を空けておく、って言ってたから、しばらく戻ってこない、かも」
「そっかあ。ちょっと会ってみたかったんだけど」

 生まれ持った性質とは別に、人を形作るのは環境である。
 自身を取り巻く家族や友人、家や近所、学校に町。育てられ方、過ごし方によって、人格は定まっていく。
 大人になれば周りに左右されることも減るが、幼年期だとそうもいかないだろう。
 朋和がこんな風・・・・になったのは、間違いなく家族の影響だ。 決して悪い意味ではない。年に似合わぬ純朴さ、純粋さ。見る者によっては眩しく映るかもしれない、 どこか真っ直ぐな人格は、親の教えによるところが大きい。
 引っ込み思案で些か気弱な面も、裏返せば気遣いの証とも取れる。
 楽観視に過ぎるのかもしれないが、物事を良い方に、前向きに考える奏は、それでいいと思っている。  だから無理に変わらなくてもいい、と。

 頑張ることを怠らなければ、いずれ強くなれるはず。
 なら自分にできるのは、その背を押して、時に荷物を半分肩代わりすることだ。
 奏にとって、母がそうだった。
 だから朋和にも、家族を大事にしてほしい。家族が大事であってほしい。
 ……なんてことを考えていたのだが、話を聞く限りでは、心配する必要はなさそうだった。
 両親や祖母のことを話す時の朋和は、どこか嬉しく、誇らしそうに見える。

「いい、家だね」
「物心ついた頃から、住んでるけど……ぼくは、ここがすごく好き」
「……どうして?」
「ひとことじゃ、言い表せない……。優しいところだから、かな」
「あとは?」
「え、えっと、あとは……あとは……うぅ」
「あはは、ごめん、ちょっと意地悪な質問だったね」

 二人で縁側に座り、置いてあったサンダルに足を通して、ぼんやりと紅色の山を眺めながら、 何をするでもなく、他愛ない会話を交わす。

「わたしも思ったよ。優しい家だな、って」
「……そうなの?」
「入った時に、雰囲気が柔らかいような気がしたの。 ほら、わたしの家なんか……って言っても来たことないんだしわかるわけないよね」
「あ、ううん……話して」
「じゃあお言葉に甘えて。わたしの家は都市部の方にある一軒家なんだけど、 そんな大きくないし、それに何より温かみがないというか」
「……温かみ」
「無機質なんだよね。家具全部取っ払ったら病室みたいかも。白い壁で、結構長い間いるからところどころ汚れちゃってて。 窓とか開けて外見るとね、二件くらい隣に高いマンションが建っててさ。一時期『日照権の侵害だー!』って周りで騒いでたなあ」

 この家に住んでいるのなら、そんな経験は皆無だろう。
 日光は射し込み放題、洗濯物だってきっと奏の家よりよっぽど早く乾く。
 けれどそれを、羨むことはあっても、妬ましいとは思わない。

「でも、悪いことばっかりじゃないんだ。スーパーは近いし、コンビニも歩いてすぐだし、あの辺夜も明るいしね。 いいことだって、同じくらいあるよ」
「ぼくも……買い物の時は、お父さんとお母さんが車で行く。 冬になると、屋根に上がって雪かきしなきゃ、いけない。夏は、蚊も多い」
「蚊が一杯いるのは嫌だなあ……。迂闊に外出歩きたくないでしょ」
「虫除けはするし、もう慣れた、けど……本当は、ちょっと」

 やっぱり、と奏は笑う。
 つられて朋和も、くすりと笑みをこぼした。

「陽射し、あったかいね」
「うん」

 言葉が途切れる。
 無言の時間も、苦痛には感じず、むしろ心地良い。
 目を閉じれば風の音と、庭に生えている草木のざわめき、障子や窓が揺れる音が聞こえる。 ひゅるひゅる。ざわざわ。かたかた。全ては違うものなのに、重なると一つに思えるから不思議だった。

(あ、そっか……)

 それもまた、歌なのだ。
 耳を澄まさなければわからないほど微かだけれど――自然が作り出す、穏やかな子守歌。

「……おばあちゃんが、言ってた」

 ふと横に視線をやると、朋和も目を薄く閉じていた。
 背の後ろに両手を置いて、体重を掛ける姿勢。そうすると、軽く空を見上げる形になる。
 響く音色を、懐かしむように。慈しむように。

「普段意識していないだけで、世界には歌が満ち溢れているものよ、って」
「………………」
「……睦宮さんは、聞こえる?」
「聞こえるよ。わたしも、たぶん同じこと考えてた」
「そう、なんだ」
「素敵な人なんだね」
「うん。ぼくの、自慢のおばあちゃん」

 少し弾んだ声で朋和は言う。
 その答えに満足して、上半身を支える手から、奏は緩やかに力を抜いた。
 視界が真上に移動する。背が縁側につけば、見えるのは木製の天井と蒼穹だけだ。
 風が、涼しい。春の日和は柔らかな晴れ、雲の流れもゆっくりで、気持ちがすぐに凪いでいく。
 気づいた時にはもう遅く……奏は睡魔に意識を攫われた。






 身体が揺れている。
 一定感覚で訪れる波に似た振動は、あるいは平時なら眠気を誘うものなのかもしれないが、 それによって奏は徐々に覚醒し始めていた。

「…………ん」

 うっすらと目を開ける。
 瞼はまだ重かったが、もう一度ゆさゆさと肩の辺りを揺らされて、身を捩りながら起き上がる。
 残る眠気を落とすように指で目を擦り、んー、と両手を高く突き上げた。

「ふぁ――ぁ」

 はっきりしない頭のまま、だらしないかなと躊躇いつつも欠伸を一つ。
 瞳に涙が浮かんだので、また目を擦ってから頬を軽く両手でぱちんと叩き、

「………………はっ!?」

 今、自分がいったいどこにいるのか、ようやく思い出した。
 右斜め後ろ、先ほどまで仰向けになっていた奏の肩があった位置に、朋和が座っている。
 手を伸ばした姿勢で固まり、驚いた……というよりは戸惑いを多分に含んだ表情で奏を見つめていた。

「……えっと」
「む、睦宮さん」
「カズくん……見た?」

 途端、口を噤む朋和。
 それでほとんど答えているようなものだった。

「……いつから?」
「ぼ、ぼく、睦宮さんを起こそうと思って……だけど、あんまり乱暴にはしたくなかったし、 そっと肩を揺らしてたら、いきなり起き上がって」

 要するに一部始終を目撃されていたらしい。

「いい、カズくん、さっきのことは忘れて。全部忘れて」
「え?」
「わたしが寝惚けてるところなんて知らない。その時カズくんはそっぽを向いてた。……でしょ?」
「う、うん」
「よし」

 妙な剣幕に押され、朋和はつい頷いてしまう。勿論そんな簡単に記憶を飛ばせるはずはないのだが、嘘だとしてもここは従った方がいいということくらいはわかった。
 ちなみに、家族を除けば女性の寝起き姿を見たのは初めてである。
 それがどれだけ相手にとって屈辱的かつ恥ずかしいことか、不幸にも朋和は知らなかった。
 母は全く気にしないし、祖母なら欠伸もお茶目で片づいてしまうので余計に。

「それで……わたし、どのくらい寝てた?」
「だいたい、一時間くらい」
「あ、そんなに? ごめんね、暇させちゃって」
「ううん、平気。ぼくもちょっと、横になってた」
「そっか。……気持ちいいもんね」
「春だから」

 これが夏になると、どうしても暑さや蚊に気を取られてゆったりできない。
 秋冬はそもそも外に出たくなくなるので、微睡む以前の問題だ。
 周囲に時計が見当たらないので、奏は右手首に目をやった。

「四時ちょいだ」

 そろそろ、帰る時間だった。
 一人で戻れるのならもう少しいても問題ないのだが、さすがに一回片道来ただけで覚えられるほど奏の頭は良くない。 何度か角を曲がっていたので、真っ直ぐ進めば都市部に出られる、なんて簡単なものでもないだろう。 それに、こんなところで迷うと割と冗談にならないような気がした。

「申し訳ないんだけど……送ってもらっていい?」
「ぼくは、そのつもりだったけど」
「ありがとう」

 サンダルを脱ぎ、足を引っ込め畳んで反転。廊下の方へと向き、立ち上がる。

「学校のところまででいいから、お願いします。時間は大丈夫?」
「夜になるまでに、戻れれば」

 玄関で靴を履いて、奏はお邪魔しました、朋和は行ってきます、と律儀に言う。
 それから少し離れた車庫の近くに置いた自転車の鍵を開け、サドルに跨る。
 平行して、二人は漕ぎ始めた。
 日没まではまだ余裕があるが、既にかなり傾いた陽射しは西、帰り道の正面から向かってくる。

「うわ、眩しい」

 目を細めるも、自転車に乗りながらなので完全に閉じるわけにもいかず、ほぼ直視に近い。
 うっすらと見える不揃いな、何となく筍辺りを連想させる高層建築物の頭に近づき沈んでいこうとしている太陽は、 山のツツジに負けない紅色を纏っていて、道の左右に敷かれた水田できらきらと黄昏の光を燃やしている。
 半目ながら、奏は少し見惚れた。足を止めてじっくり景色を瞳に焼きつけたいとも思ったが、 朋和に迷惑を掛けるわけにはいかないと結論づけ、ペダルを漕ぐ足に意識を集中する。

「……うー」

 しかしまた顔を上げ、眩しい眩しいと言いつつも感動するのだった。

「いいなあカズくん」
「……?」
「毎日こんなすっごい景色が見られるんだもん」
「そ、そうなのかな」
「やっぱり、見慣れてるからわかんない?」
「……かも」
「あー、今までこの景色を知らなかったのが勿体無い」

 残念そうに呟いて、奏は左手をハンドルから離し、指を真っ直ぐ伸ばして眉間に当てる。
 遠くを眺めるように。もしくは、光を遮るように。

「わ、睦宮さん、あぶ、危ないからっ」
「今度は油断しません。……でもこうなると、朝陽が昇るのも見たいかな。カズくんは見たことある?」
「………………」
「……あるんだね。別にそんなことで気遣わなくてもいいのに」

 手を降ろし、苦笑。

「だって……睦宮さん、残念そうな言い方、してたから」
「本当に勿体無いって思ったんだよ。学校の帰り、家の近くで見るのより、よっぽど綺麗。 何でだろう、あっちは灯りがたくさんあるからかな」
「……わからない」
「うん、わたしも。……で、日の出はどんな感じなの?」
「えっと……五時前くらいに起きると、立ち会える」
「そんな早くないと駄目なんだ……」
「冬なら、もっと遅くても平気、だけど。今の季節なら、それくらい」

 普段は六時頃に起床する朋和だが、稀にふっといつもの時間より前に目が覚める日がある。
 そういう時は縁側に出て、東の山を必ず眺めることにしていた。
 大概祖母がもう起きていたりして、おはよう、と挨拶を交わし合ってから二人で夜が明けるのを待つのだ。
 それは、月に二度もあるかどうか、微妙な機会。

「空が、ゆっくり色を変えていって……山の間から、真っ白な光が、昇ってくる」

 最初は慣れずに目を細める。次第にしっかり見えるようになってくると、 緩やかに稜線の境界を越えて上昇する白光が夜の帳を塗り替えていく様が、仔細に観察できる。

「話聞くだけでも、すっごい魅力的だよそれ」
「頑張れば……高い建物の屋上とかで、同じようなものが見られる、かも」
「その前に起きられないよわたし……。って、カズくんいつも何時頃に寝てるの?」
「……十時には、布団に入る」
「嘘、そんな早いの!?」
「おばあちゃんも、同じくらいの時間に寝る、から」
「わたしなんて、十二時過ぎまで起きてることもしょっちゅうだよ……」
「……眠く、ならないの?」
「うん。あんまり」

 軽く答え、奏は朋和を子供みたいだ、と思った。
 だからこそこうも純粋なのかもしれない、とも。
 知り合ってからおよそ一ヶ月。それを長いと取るか短いと取るかは、人によって違うだろう。
 ただ一つ確かなのは、その程度の期間で相手の全てを知るのは絶対に不可能だということだ。
 まだまだ、朋和には奏の知らない面がいっぱいある。

「……ふふっ」

 何とはなしにこぼした笑み。
 それが、今の奏の気持ちを最もわかりやすく、表しているのかもしれなかった。


 学校の正門前に着いた頃には、五時を回っていた。
 休み明けにまたねー、という別れ際の言葉を思い出しながら、朋和は来た道を戻る。
 今度は、一人。何かを喋っても、返ってくる言葉はない。いつもの状況だ。
 けれどそのことを寂しいと感じるのは、どうしてだろうか。

「……友達」

 依存しているのかもしれない。
 それがいいことか、あるいは悪いことなのか、朋和にはわからなかった。
 ただ、楽しかったな、と名残惜しむ気持ちがある。

(次はみんなで)

 ツツジの花が咲いているうちに……もしくは秋か、来年に。
 合唱同好会の四人で、山にでも登れたら、もっと楽しいだろうと思った。
 ――そしてどうにか夜になる前に、帰宅。
 その日朋和は、少しだけ眠れなかった。






 無事に連休も終わり、休みボケで遅刻者をいつもより多く出しながらも学校が再開してしばらく。 昼の社会科室には、朋和と唱子が来ていた。クラスが同じなので、四時限目が選択授業でない限り二人は大抵一緒に教室を出る。
 クラスメイトには「あれ? いつの間に親しくなったの?」というような目で見られていたのだが、 所詮他人事なので好奇の視線もすぐになくなった。時に奏や涼澄がどちらか、もしくは両方を呼び出すのも当たり前になっていた。

「まだ誰も来てないのね」
「……そう、みたい」

 授業では滅多に使われない社会科室に入るためには、 隣の準備室でコーヒーを淹れていたりする四谷教諭から鍵を借りなければならない。 しかし誰かが先行していればその必要もないので、まず引き戸に手を掛け空いているかどうかを確認する。 また、準備室に四谷教諭がいないと社会科室は使えない。 その場合は全員が揃うのを待って口頭で伝えるか、張り紙をするかでそれを知らせる。 必ずしも、毎日四人でいるわけではないのだ。
 今日は扉が施錠されたままだったので、準備室にノックして入る。
 机に素っ気ないデザインの、湯気を立てるコップを置いて書類とにらめっこしている教師に一声。

「先生」
「ん、小野と白坂か。ほいよ」
「ありがとうございます」
「まあ言わなくても大丈夫だとは思うが、散らかすなよ」

 定型の軽い注意に頷いて、表に出る。
 鍵を開け中へ。スライドさせた引き戸を戻し、まずすることは換気だ。
 冬なら躊躇うところだが、春は外からの風も心地良い。協力して、全ての窓を全開に。
 それから二人は適当な席に座る。といっても、必ず入口に一番近い席を陣取るので、適当ではないのかもしれない。
 弁当箱を開けて箸(朋和はプラスチック製、唱子は割り箸)を取り、揃って手を合わせる。

「いただきます」
「……いただきます」

 一口。むぐむぐと咀嚼し飲み込んでから、

「そういえば、小野君と二人きりってのは珍しいわよね」
「うん。いつも、睦宮さんや、先輩がいる、から」
「あんまりこういう状況で話したことなかったけど……どう?」
「……どうって?」
「楽しくやってる?」

 朋和は僅かに俯き、考える。

「……白坂さんは?」
「え? あ、あたし?」

 質問をそのまま返され、唱子は戸惑った。
 その間に朋和の弁当箱は中身を減らしていく。
 何となく、タイムリミットを突きつけられているようで焦った。

「うーん……何かね、いまいちよくわかんないのよ」
「わからない?」
「嫌じゃない。それは確か。でも、楽しいかどうかって言われるとまだ微妙」

 ひょい、とフライパンで火を通しただけのウインナーを口に放り込む。

「……んぐっ。ほら、あたし入ってからそんな経ってないしさ。 上手くなっていってる、って感覚はあるんだけど、今は個別特訓みたいなものでしょ? 実感ないというか」

 現状、唱子は三人と別の練習をしている。それも当然で、歌唱の経験がなかった朋和や涼澄と比べても、 遅れて参入した分、厳然たる差ができてしまっているのだった。
 さらに言うなら、歌に慣れ親しんでいる朋和、応援団の団長として張っていた涼澄よりも声に関する物事とは縁遠い。 腹式呼吸一つ身につけるにも彼らより多くの時間が要求された。

「あ、だからって不満に思ってるとか、そういうことはないのよ。それに……みんなを見てると、ああいいな、って思うのよね」
「それは、わかる気がする」
「憧れてたのよ」
「……憧れてた?」
「力を合わせて、みんなで一つのことに打ち込むの。身の上話の愚痴みたいで悪いけど、あたしって不思議と頼られてばっかりでさ。 どいつもこいつも自分の荷物だけほいほい預けてくるから、重いのよね。それがすっごく嫌だった」
「………………」
「本当はあたしも、そういう相手が欲しかった。誰かのを背負うのは慣れてるけど、預けるのには慣れてなかった」

 一方通行じゃなくて。
 双方向の、関係。

「だからまあ、どうかなって思いながらもここにいるわけ」
「……ぼく達は」
「ん?」
「白坂さんの荷物を、背負えてる?」
「んー……そうね、小野君は今、あたしの話を黙って聞いてくれてたでしょ?」
「うん」
「それで充分背負えてるんじゃない? 愚痴ったら気持ちも楽になったし」
「……なら、嬉しい、かも」

 そう言ってはにかんだ朋和を見て、唱子はふと奏の言葉を思い出した。
なるほど、すぐ近くで目にした今ならよくわかる。

(こりゃ可愛いわ)

 そっと手が朋和の頭に伸び、

「ごめん、遅くなった!」
「っ!」

 寸でのところで引っ込めた。幸いにも、二人は気づいていない。そのことに安心し内心冷や汗を流しながら、 先に来てたわよ、と誤魔化すように声を掛ける。
 何故か鞄を持参してきた奏が自然に朋和の隣へ腰を下ろし、続いて涼澄が顔を出し、四人が揃う。
 歓談しつつ各々弁当を食べ終えた頃、唐突に奏が発言した。

「――あのね、今日はこんなものを持ってきたんだけど」

 妙に中身の詰まった鞄が、どさっと机の上に乗せられる。
 ファスナーを開け、手を突っ込んで取り出されたのは、様々なサイズの書籍だった。

「睦宮、これは?」
「えへへー。楽譜集です」

 嬉しそうに奏が一つを選び、適当なページまで捲る。
 途端展開されるのは、五線とそこに並んだ無数の音符だ。 曲のタイトルと作詞作曲編曲者名、外国の曲だった場合は訳詞者が記入してあるものもある。
 小学校で使った音楽の教科書とは、また違う形だった。全て五線は上下段で構成されており、 左横にアルファベット三文字で記述がされている。二段の五線、その間に挟まれるような形で、音に沿った歌詞が書かれていた。
 膨大な量の楽譜。それらの共通点は、歌であり、そして合唱曲であること。

「どこかで発表するにしろ、しないにしろ……そろそろ目標というか、 曲を決めた方がいいかな、って。家にあったのを持ってきたんだ」
「随分な数ね……」
「……睦宮さん、この中に、どのくらいの曲があるの?」
「んーと……適当に引っこ抜いてきたからダブってるのもあるはずだし、だいたい三百曲くらいかなあ。 外国曲とか、そういうのも全部含めて」
「合唱用の曲とは、そんなにあるものなのか?」
「混声だけでもこんなに」

 奏の家には、女声合唱や男声合唱の楽譜集もいくつか眠っている。が、 集めた張本人である彼女の母は混声合唱のグループに属していたので、性質上一番多いのはその曲だった。

「みんなも、歌う曲を決めた方がやりやすいと思うんだけど、どうかな?」
「俺は構わんが」
「いいんじゃないの? 確かに目標あった方が張り切れるしね」
「カズくんは?」
「ぼくは……うん、ぼくも、それがいいと思う」
「なら満場一致。今日は曲選びをしよう。わたしは二曲程度でいい……というか、 あんまり難しいのを選んだりすると逆に大変だから、それを踏まえて考えようかなって」
「……そうだな。俺達は初心者だ。無理はしないのが望ましいだろう」
「はい。で、いくつかピックアップしてきました」

 奏は冊子の中から、付箋を挟んだ物を引き寄せ、開く。
 候補に挙がったのは六曲。どれも朋和達の知識にはない歌だ。 奏以外の誰も楽譜は上手く読めず、歌詞とおおまかな音符の流れで雰囲気を推測するしかないが、

「…………あ」
「どうしたの?」
「この曲」

 朋和が指差した、一つの歌。

「……歌って、みたい」
「そっか。……先輩、唱子ちゃん、いいかな」
「異存ない」
「同じく」
「じゃああと一曲は……これなんかどう?」

 あっという間に。
 二つの歌が、決まった。

「……何か、もっと迷うんじゃないかって思ってたんだけどなあ」
「迷うほど俺達は詳しくないからな」
「それはそうなんですが……」
「まあ、とりあえずこれで目指すところができたわけね」

 自分だけ遅れてるんだから頑張らないと、と心中で呟く唱子。
 相変わらず表情の変わらない涼澄は、いいのかなあと首を傾げる奏を尻目に楽譜を手に取り、わからないながらも眺めている。
 そして朋和は、

(……ドキドキ、してる)

 自分が三人と一緒に歌う場面を想像し、胸を高鳴らせていた。

「カズくん、笑ってるの?」
「……うん。楽しみ、だから」

 もう、笑みを悟られるのは恥ずかしくなかった。





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何かあったらどーぞ。