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 小野おの朋和ともかずの朝は早い。
 六時前後に起床。着替えたらまず顔を洗い、外に出て軽く走り目を覚ます。
 朝食の準備をする母と祖母を手伝いつつ、昨日の夜に用意した鞄の中身を念のためチェック。
 居間に荷物を運び、家族揃って食事の席を囲む。食べ終わったら歯を磨き、そこまでで七時前。
 玄関で靴を履き、自転車の鍵を取る。

「行ってきます!」

 出発の挨拶は、毎日欠かさない。
 前カゴに鞄を入れ、ペダルに力を込める。
 すぐに速度が上がり、得られるのは風を切る感覚だ。
 歩くよりは遙かに速く、景色もすぐに流れ移り変わっていく。

「……気持ちいい」

 自転車を漕ぎながら、すう、と大きく息を吸った。
 春の空気は程良い暖かさで、花の匂いが混じっている。
 何度通っても、この光景を見るのは飽きないと朋和は思った。

「――――」

 不意に唇から零れるのは、法則性を伴った音色。
 調子良く、気分良く、誰もいない道を走りながら、朋和は囁くような声で歌う。
 祖母から教わった、いくつもの童歌。自然を讃え季節を語る、郷愁を誘う歌。
 ……朋和は、歌が好きだった。歌うことが好きだった。
 何故そうなったのかは、よくわからない。祖母の影響かもしれないし、単に気に入っただけかもしれない。
 いつの間にか好きになっていた。旋律を口ずさむのが、楽しく感じるようになった。

「おお、おはようトモ君。今日も学校だね?」
「あ、はい」
「気をつけて行きなさいよー」

 手を振る。
 舗装されていない土の道を進んでいると、畑や田に入りせっせと働いているお年寄りに声を掛けられる。
 その直前、彼はふっと歌うことを止め、にこやかに朝の挨拶を交わす。
 見送られ、人の姿が見えなくなったら、また歌い始める。
 朋和は、自分は歌が上手いとは少しも思っていない。そもそも、他人に聞かせるためのものではないのだ。
 聞かれるのは恥ずかしい。だから、誰かの前では歌わない。

 人気のない場所でだけ……彼は歌声を披露する。
 静かに。世界の調和を壊さないよう、ふとすれば風に吹き消されてしまいそうな声で。

 そういう意味では、長い長い通学路は都合が良かった。
 家からゆっくり自転車で、およそ五十分。他の同級生と比べても、圧倒的に長い通学時間。しかしそれを苦には感じない。冬は寒くて少し嫌になるけれど、過疎な道をひた走るのは、とても心地の良いものだったから。

「……ちょっと、ペース早いかな」

 速度を落とした。軽くブレーキを掛けながら、正面、行く先に視線を送る。
 遠くに小さく見えるのは、立ち並ぶコンクリートのビル群。
 ……二年ほど前、朋和の住んでいる区域と隣り合った地方都市が合併し、紅咲べにさき市となった。 かといって何かが劇的に変わるわけでもなく、元々小学生の時から同じ道を通って学校に行っていた朋和にとって、 さしたる実感はなかった。
 今も昔も、一緒だ。住んでいる場所の呼び名が変わったって、日常までは変わらない。
 少しだけ足を止めて、鞄に入っている携帯を取り出し、見る。
 出発から、二十分。まだ先は長かった。






「…………あ」

 いつの間にか、寝ていたらしい。
 身体を起こす。節々が傷み、ん、と声が漏れた。
 今日の授業が滞りなく終わり、帰宅の準備をしていたところで、 ふっと睡魔がやってきたところまでは覚えているのだが……どうやら、そのまま机に伏せて熟睡してしまったようだった。
 ぼんやりと、眠気を引きずったまま、黒板上、壁掛けの時計に目をやる。六時二十分。
 もうすぐ、下校時刻だ。

「……帰らないと」

 朋和が利用している、というか利用せざるを得ない通学路は、都市部と比べ圧倒的に街灯が少ない。 一応一定感覚で灯りは並べられているが、夜になれば闇も深く、数メートル先になるとほとんど見えなくなってしまう。 田舎暮らしの不便なところである。
 特に、自転車通学の朋和にとっては、前輪横に取りつけられた小さなライトが生命線だ。
 話に上ったことはないが不審者も出ないとは限らない。帰宅は、早いに限る。
 机の上に置いた鞄を片手に持ち、立ち上がりかけ、

「夕焼けだ」

 窓の外、沈みかける陽に目が行った。紅い光。眩しさに視界を細めながらも、しばし見蕩れる。
 それから朋和は、教室内を軽く見回した。他のクラスメイトの荷物がないことを確認。鞄から手を離す。そして、

「――――」

 口をついて出るのは、歌。
 山中の寺から聞こえる鐘の音を合図に、子供達が手を繋いで帰路に就く姿を歌った童謡。
 祖母に教わった童歌の一つだ。単純で、だからこそ歌詞の情景は想像しやすい。

 瞳は閉じて。微かな、自分の声を聞く。
 イメージ。幼い頃、地平線上で輝く夕陽を指差し、こんな童謡があるんだよ、 と言って隣で歌ってくれた穏やかな祖母の声を思い浮かべ、発声する。 音は細く、小さく、高く。地声では出せないので裏声を駆使して。
 歌に全てを委ねる。楽器になる。下手でもいい。上手く歌えなくたって構わない。

 ただ――どうしようもなく、好きだから歌うのだ。

 一曲を終える。少しだけ、紅潮。雰囲気に浸ったような気がして、恥ずかしくなった。
 もし、こんな自分を誰かに見られようものなら、羞恥のあまり倒れてしまうかもしれない。
 今度こそ帰ろうと、鞄の取っ手を掴み、
 ――教室のドアが開いた。

「…………え?」

 唐突な事態に、音のした方へと振り向くことしかできない。
 頭の中を、どうして、という疑問と困惑が埋め尽くしていた。
 教室入口に立っているのは、女の子だ。知らない顔の、見たところ、同級生。
 特別容姿は目につくところもなく、平凡と言って差し支えない、そんな少女だった。

「え、えっと……」

 見れば、少女もしまったというような表情をしている。
 ますます現状がわからない。

 どうして?
 どうして、こうなってるんだろう?

 混乱が最高潮に達した時、見計らったとしか思えないタイミングで、少女は言った。

「あの、額」
「ひ、額?」
「そ、そう! 額に赤い跡がついてるよ! 寝ててどっかに押しつけたみたいな!」

 どうすればいいのかわからないのは少女もだった。
 ……気まずい静寂。
 朋和は首を回して窓と向き合い、映った自分の額を見る。
 そこには丸い、ボタン型の跡がくっきりと。
 どう見ても寝ていた時についたものだった。

「………………っ!」

 恥ずかしさのあまり、朋和は逃げた。
「あっ、待って!」
 後ろから呼び止める声を聞くが、待てない。
 時間的にも、もう帰らなければならないのだ。
 自転車置き場までほぼ全力で走り、切らした息を整えながら、思う。
 あの時……何故彼女は、ドアを開けたんだろう、と。

「……聞かれた、のかな」

 否定できる要素はなかった。
 でも、だとしたら――

「ど、どど、どうしよう……」

 もし明日以降に出会ったら、声を掛けられるかも、そして歌っていたことを追求されるかもしれない。
 そうなれば、もう平静でいられるとは全く思えなかった。

 結局。
 悩んでも仕方ないと気づき、急いで帰ることにした。
 自転車に跨り、ライトを点ける。
 いつもよりも気持ち、漕ぐ足に力を込めて。
 羞恥に火照った頬も、帰るまでには冷めるだろうかと、そんなことを考えた。






 睦宮奏は悩んでいた。
 勿論、昨日の夕方出会った少年についてのことでだ。

「あの時はわたしもちょっと、焦っちゃったからなあ……」

 本当は、別のことを言おうと思っていたのに。
 ぽろっと出た言葉は、ほとんど誤魔化しに近いものだった。
 額に跡がついてる、はいくら何でもないだろう。誤魔化しにしたって酷過ぎる。
 それ自体は確かだったのだが、たぶん寝ていて袖か何かに押しつけていたのだろうが、わざわざ指摘することではない。 例えば、自分がそう言われたら、間違いなく恥ずかしい思いをする。その場から逃げ出したくなる。彼が走り去ったのも当然だ。

「でも……」

 いい、歌声だった。
 もう一回聞きたくなるような、そういう声だった。

「うん。話がしてみたい、かな」

 真っ先に。
 打ち解けることができたなら、質問してみたいことがある。

(……だからまずは、見つけないと)

 どこのクラスかはわかっている。二つ隣の教室。同級生だ。
 とりあえず確認を兼ねて、二時限目終わりの休み時間にちらりと顔を出す。
 覗き込むように室内を見回すと、間違いない、高校生にしては些か幼い、童顔の少年を発見した。
 気のせいか、どことなく顔色が悪い。時折、きょろきょろと心配げに周囲へ意識を配っている。
 一瞬視線がこっちへと向かい、思わず奏は首を引っ込めた。……正直、まだ気まずい。
 全面的に自分が悪いのだけれど、逃げられた側としてはどうやって接触すればいいのかわからないし、 また避けられたら、と思うと余計に気が引ける。
 チャイムが鳴ったので、慌てて戻った。
 それから授業中はずっと、昼休みに入るまでほとんどノートも取らずに、 警戒させず会話ができるようにするにはどうしたらいいのかと頭を抱えた。
 散々考えて出した答えが、

『とにかく会ってちょっと強引にでも行ってみる』

 というものなのだから、どうしようもない。それ以外思いつかなかったのだ。

 ――兎にも角にも、昼休み。
 弁当を持って、奏は出動した。
 目指すはまだ名前も知らない彼のクラス。中学校時の友人はそこにもいる、別に自分が行ったって不自然なところは何もない。 引き戸が閉まっていたら開けた時に気づかれるかな、と懸念していたのだがそんなことはなく、 人の出入りが適度にあるため開けっぱなしだった。そっと身体を滑り込ませる。
 位置を覚えているため、視線はすぐに彼の席を捉えた。
 廊下側から二列目の先頭。奏が入ってきたのは後ろの扉なので、自然、背中を見つめる形になる。 目が合った友人と無言の挨拶を交わし、そろりそろりと近づいて、

「ねえ、君」

 机の上に、自分の弁当箱をぽんと置く。
 振り返る。その顔が次第に赤く、赤く染まっていき、最終的には真っ赤になって、俯いてしまった。

「一緒にお弁当、食べよう?」
「……あの、ぼく」
「無理強いはしたくないけど……お話できたらいいなあ、って」
「………………」
「だめ?」
「……はい」
「じゃあ、ついてきてほしいな。外で食べた方がおいしいと思うから」

 意外にも、抵抗はなかった。素直に後ろを歩いてくれている。
 まだ紅潮したまま、俯いたままだが、拒絶されるかもしれないと考えていたのだから、それに比べれば全然いい。
 階段を下り、玄関口から校庭へ。
 四月になれば風も程良い心地良さで、陽射しは優しく、ひなたぼっこには持って来いだ。
 奏が先に日向に腰を降ろし、彼がそれに続く。
 少し距離を置いて、二人分ほどの隙間を取って。

「……む」

 詰めてみた。

「………………」

 逃げられて、諦める。
 弁当箱を開け、箸を取って卵焼きを一口。毎日入っているおかずだが、母の作ったそれは仄かに甘く、いつ食べてもおいしい。 良く噛み、飲み込み、途中自販機で買ってきたパックの牛乳にストローを挿し軽く吸ってから、奏は言った。

「あの、ね。昨日はごめん。変なこと言っちゃって」
「あ……いえ、気にしてないです」
「そっか。なら嬉しいな」

 冷凍物のソース過剰な串カツを一口。

「それで、ひとついいかな」
「はい」
「歌うの、好き?」
「……え?」

 唐突な、問いだったとは思う。
 でも――どうしても、教えてほしかった。

「君の……えっと、名前、いいかな。わたしは睦宮奏って言うんだけど」
「小野、朋和です」
「じゃあ朋和くん。朋和くんが、教室で歌ってるの、聞いちゃったんだ」
「やっぱり……」
「盗み聞きみたいで……あ、いや、そのまんまなんだけど、申し訳ないとは思うんだけど」
「………………」
「わたしね、朋和くんの歌声が、素敵だなあって思ったんだ」
「そ、そんなこと……」
「お世辞とかじゃないよ。そういうんじゃないの、本当に」
「でもぼく、そんな歌うの上手くもない、ですし……それに、」
「上手い下手は関係ないの」

 言い切る。
 重要なのは、技巧だとか技術だとか、努力すればどうにでもなる部分ではない。

「聴き入って、あ、この人は本当に歌うのが好きなんだな、って思った。 だって、気持ちが篭もってたから。音の一つ一つに、想いが感じられたから」
「想い……ですか?」
「うん、そう。歌詞の内容を考えて、情景を想像して、音の強弱に気を遣って、その上で自分の気持ちを乗せてる」
「自分の、気持ち」
「もう一回訊くね。……歌うの、好き?」

 しばらく、朋和は口を塞いでいた。
 まだ頭の中には色々なものが渦巻いている。どうしてここにいるのか、ほとんど初対面の彼女とお昼を一緒にしているのか。 何もかもがわからない。流れだけで、来てしまった。そもそも彼女には、自分の歌声を聞かれたのだ。 恥ずかしいから人前では絶対に歌わないようにしていたのに、それを知られて、さらにはこうして追求までされた。

 顔を見た時は逃げようと思って。
 でも悪意はないみたいだったから頷いてしまって。
 突然の質問には面食らって。
 名前を教わり、教えて、呼ばれて。
 家族以外に初めて、自分の歌を褒められた。

 ……勿論、聞かれたことは恥ずかしい。正直に言って、ちょっと泣きかけた。
 なのに今、自分は質問に対し答えを返そうとしている。
 不思議だった。
 彼女の……睦宮さんの前でなら、自分は、歌えそうな気がした。

「……はい。好きです」
「そっか。じゃあ、わたしとおんなじだ」

 奏は笑う。嬉しそうに口元を緩める。
 その言葉を待っていた、というように。

「わたしのお母さんがね、昔、合唱団に入ってて」
「合唱団、ですか」
「うん。中心メンバーだったんだけど、結構大規模で、たくさんの人が集まって、その人達みんなで一つの歌を歌うの。 まだわたしが小学校にも入ってなかった頃だけど……よく覚えてるよ。すごい迫力だった。憧れた」

 時に力強く。
 時に穏やかで。
 時に悲しく。
 時に楽しげに。

「そんな風に、わたしも歌ってみたいって思った。お母さんみたいに、人を集めて」
「………………」
「だけど合唱っていうのは、信頼できる仲間と一緒に、力を合わせてやるものだから……難しいかな、って。 どこかのサークルに入ればいいのかもしれないけど、わたしは、自分で一からやりたかったから。 大人になるまでは無理かなあ……とか」

 でも。

「朋和くんの歌を聞いた時、今、今やってみたいっていう気持ちが出てきたんだ。この人と一緒に歌ってみたい。 そうしたらきっと、すごく、すっごく楽しいんじゃないかって思ったの」
「ぼく、と?」
「いきなりでこんなこと言って、迷惑だろうけど……わたしは、朋和くんと合唱がしたい」

 そこまで話し、奏は喋り過ぎたことが急に恥ずかしくなって、少し俯いた。
 本当、まだ会って二回目の相手にこれは、見方によっては告白みたいだ。
 勿論そういうものではなく、もっと簡単な、単純な動機だけれど。
 俯いたまま、ちらりと朋和の顔を窺う。
 彼は膝に両手を置き、長らく考える姿勢を見せていたが、ふっと大きく息を吐き、

「……ぼく、人前に出るのが苦手で、知ってる人なら平気だけど、知らない人とは上手く話せなくて…… それに、歌も上手くないって思ってたから、あ、ううん、思ってるから…… ずっと、お母さんやおばあちゃん以外の人の前で歌ったこと、なかった」
「うん」
「だから、えっと……む、睦宮さんが教室に入ってきた時、頭の中が真っ白になって、恥ずかしくなって逃げちゃって」
「ああ、あれはホントごめんね……」
「ううん、もう気にしてない。気にしてたけど……睦宮さんの話を聞いてて、大丈夫かな、って」

 逃げ出したのは、上手くもない自分の歌が聞かれていたと知ったから。
 そしてそれ以上に、あの場に長くいれば、もう一度歌って、だなんて言われるかもしれないと思ったから。 そこに悪意があるにしろないにしろ、朋和は必ず口篭もってしまう。
 歌っていたこと自体を、責められているように感じて。

「ぼく……まだ、答えは返せません」
「合唱、したくないから?」
「そうじゃなくて、あの、何て言えばいいのかな……合唱って、人前で歌いますよね」
「最終的には、そうだね。舞台に立つことを目指すものだよ」
「今のぼくにそれはできないから……」
「そっか……」
「で、でも」
「え?」
「睦宮さんが、楽しそうに言うから」

 僅かに、顔を上げる。
 拙いながらも言葉を選んで、目を見て。

「ちょっと……ぼくも、やってみたいって思った」
「本当!?」
「わ、あ、あっ」

 おもむろに奏は朋和の手を取った。
 当然ながら驚かれる。

「あ、ごめんね、はしゃいじゃって」

 見た目通りと言うべきか、小さくてあまりごつごつもしていない手を離した。

「そう言ってくれるだけでも充分だよ」
「………………」
「申し訳なく感じてるんなら、それは違うかな。盗み聞きしたのも、引っ張ってきたのも、頼み事をしてるのもわたしだしね」

 立ち上がる。
 弁当箱の中身は、既に空。

「付き合ってくれて、ありがとう。……あ、あと、最後に一つだけ」
「何、ですか?」
「友達になろう?」

 朋和は絶句した。聞き間違いではないかと疑う。
 どうして、そこでそんな単語が出てくるのか、と。

「えっと……冗談、でしょうか」
「本気も本気、すっごい本気」
「……ど、どうしてぼくなんかと?」
「自分のことを『なんか』だなんて言わない。簡単だよ、今日話して、いい子だなって思ったから」
「………………」
「それとも、わたしと友達になるのは嫌?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……」
「じゃあ敬語も止めにして。友達なんだから」

 見事に流されていた。

「あ、う……」
「ね?」
「う……うん」
「あ、それと」
「……?」
「私にとって君は、入学して、初めての友達だよ」
「………………」
「じゃ、また一緒にお話できると嬉しいかな、カズくん」

 その返事に満足し、奏はひらひらと手を振って校舎へと戻っていく。
 いつの間にか、呼び方が変わっていた。
 残された朋和はしばし呆然と彼女を見送り、それから自分の弁当箱に再び手をつけ始める。

 ――自分は押しに弱い、ということを改めて実感した。
 明るい、良く言えば人懐っこく、悪く言えば少々馴れ馴れしい性格であった彼女。
 気づけば会話のペースを握られて、引き込まれて。

「……友達になろう、って」

 初対面なのに。
 口下手で、面白い話の一つもできないのに。
 そんな自分と、友達になろうとしてくれた。

「どうしよう」

 あの日、奏と初めて会った後にも呟いた言葉。
 けれど今回は、含まれている意味が違う。

(……嬉しかった)

 人前では恥ずかしくて歌えない、それは本当だ。
 聴かせる、ということを意識すれば、きっと喉は震えて、酷い声になってしまうだろう。
 対話さえも上手くできないのに、もっと難しいことができるはずもない。
 だから自分にとって合唱は、本来縁遠いものであるはずだ。

「……でも」

 怖いけど、恥ずかしいけど、やってみたいと思うのは、どうしてだろう。
 彼女と一緒に歌えたら、どれだけ楽しいかと思うのは、どうしてだろう。

 今はまだ、その答えを朋和は知らない。
 ただ……一つだけ、確かなのは。

「……友達」

 朋和にとっても、睦宮奏は、入学してから初めての友達だった。






 中学校の頃はとりあえず一度全生徒が何らかの部に入ることを義務づけられていたのだが、高校生ともなれば、帰宅部であっても一向に構わないらしい。
 同好会を含めれば、大小合わせ三十は下らない数の部活動。
 規模も様々で、大会出場、果ては優勝を目指す結果本位のものもあれば、集まってそれっぽいことをするだけの、遊びの延長程度なものもある。
 部と同好会の差を決めるのは、部員数と発足してからの年月だ。
 創立当初からある部を除き、同好会は三名以上の生徒と、それを請け負う顧問がいて成立する。さらに、部員を最低十名以上集め、三年間保ち続ければ、部として承認され部費も支給される。そうして正式な部になった元同好会はいくつもあり、広い校舎の各所で賑やかに、あるいは密やかに活動しているものだ。
 校庭には複数の運動部が。一年生の教室が並ぶ四階には、吹奏楽部などの文化部が。
 声を上げ、楽器を鳴らし、足音を立て、物音を響かせ、放課後の時間を使っている。
 特定の部や同好会に入らない者は、普通授業の終わりと共に帰ってしまう。
 昨日と同じ、教室はほぼ無人。
 残っているのは朋和だけだった。

「……はぁ」

 家に帰れば、やることはたくさんある。
 今日も出された諸々の宿題。それに、この時期からは両親が忙しい。
 学業に支障が出ない程度に朋和は家業を手伝っている。

 稲作。専業ではないが、農家の仕事だ。
 今は苗を育て始め、田起こしの最中。機械の導入により、随分必要とされる労力は減ったが、 一つ一つの作業が大変であることには違いない。
 手入れを欠かさなければその分出来上がりも良くなる。
 誠意を込めることが一番大事なのだと、朋和の父は事ある毎に言っていた。
 朋和は汗を流しながら働く両親と祖母を、その仕事を誇らしく思っているし、できる限り手助けしたいとも思っている。夜、暗くなってしまうと作業は続けられないのだから、手伝いに帰るならなるべく早くが望ましい。
 しかし……どうにも、考え事に気を取られ、腰は持ち上がりそうになかった。
 沈んでいる、わけではない。
 朋和は、揺れていた。

「失礼しまーす……」

 ふと、囁くような声が聞こえる。
 伏せていた顔を上げ、視線は後ろの教室入口へ。

「あ、いた。カズくん」

 奏だ。鞄片手に、座る朋和に向かって小走りで駆け寄り、

「何となく、まだいるかなー……って思って見に来たんだけど」
「………………」
「どうしたの? 元気ないよ?」
「わかるんですか?」
「敬語」
「……わかるの?」
「よろしい。……そりゃわかるよ。顔に皺寄ってるもの」

 そんな酷い表情をしてただろうか。

「何か悩み事?」
「えっと……その」
「良ければ相談に乗りたい、かな」
「でも……」
「あ、もしかして恥ずかしくて人に言えないこと? なら深入りはしないけど」

 無言で首を横に振る。
 別に、そういうことではないのだ。ただ――

「睦宮さんの言ったこと、考えてて」
「あー……なるほど。そっか、確かにわたしには言いにくいよね、それ」

 申し訳ない、と苦笑しながら、奏は朋和の隣席に腰を下ろした。
 僅かに開いた窓から、春の風と階下の喧騒が届く。
 離れている分、どちらも遠く……けれどそれが奏には心地良かった。

「ねえ、カズくん。ちょっと時間、いい?」
「え? えと……う、うん」
「じゃあ――」

 おもむろに、奏は立ち上がった。
 何故か教室の引き戸を閉め、外からは中が見えないようにする。
 これでよし、と呟き、それから窓際に移動。
 校庭を背にすうっと息を吸い、

 ――声が、響いた。

 決して、音量としては大きくない。先日の朋和のものと同程度の、小さな音だ。
 だが良く響く。水のように透き通った、恐ろしく綺麗なソプラノ。
 朋和は一瞬、背筋を震わせる。勿論寒いからではない。
 繊細なのに力強く、安定した揺らぎのない歌声。
 上手い下手で言えば、とんでもなく上手かった。
 けれどそれ以上に……心に、染みてくる。奇跡的な、才能と呼べるような力ではない、 ただ、目を閉じて歌う彼女の表情から、仕草から、声から、伝わってくるのだ。
 ……わたしは歌が大好きなんだ、と。

「――――」

 自然、最初だけは無意識に。
 唇からこぼれる、同じ旋律。
 控えめに……次第にはっきりと、二つの音は重なっていく。
 斉唱ユニゾン調和ハーモニー。合唱の、一形態。

 緩やかに高音がフェードアウトし、奏は歌を止める。
 それに追随する形で、朋和も。
 しばらく、二人とも口を開かなかった。
 静寂に負けるように、朋和の顔は次第に赤くなり、俯き、身が縮こまる。
 それを見て奏は、笑った。馬鹿にするようなものでなく、ただ、可笑しそうに。

「盗み聞きしちゃったから、そのお返しのつもりだったんだけど……ふふ」
「うぅ……」
「我慢できなかった?」
「………………」

 図星、だった。

「わかるよ、その気持ち。わたしだって、カズくんの歌を聴いてた時、本当は一緒に歌いたかったんだもの。 バレちゃうから駄目だって抑えてたけどね」

 しょうもないよね、と苦笑。

「歌が好きだから歌いたいって思うのは自然だよ。だから、一緒に歌いたいって思うのは、全然おかしなことじゃないでしょ?  ね? ……もう一度言うよ。カズくん、合唱しよう。さっきみたいに、楽しく、面白く。 カズくんとなら上手くやれる、そんな気がするの。きっと、素敵なことができると思う。まだ二人じゃ何にもできないけど……」

 近づく。
 前と、友達になろう、と言った時と同じように、手を取る。

「一緒に、やってみよう?」

 強制ではない。
 無理強いではない。
 けれど、ひたすらに前向きなその言葉に――

「………………うん」

 小さく、朋和は頷いた。





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何かあったらどーぞ。