霧ノ埼市。
日本の少しばかり北にある、決して賑やかではない町。
けれど土地だけは大きくて、西と東で人口密度がはっきりと分かれているのが特徴。

西側の都市部は、東側の過疎部と区別するために「薄霧」と呼ばれていて、ある一線を境に建築物の数はがらりと変わる。
田舎という古びた概念を隅に追いやって、代わりに都会の色を纏ったかのように。
北部の大都市とも通じている霧ノ埼駅を中心にして、市の人口の大半は日々を過ごしている。
郷愁の心も、自然の息吹も、畑の実りも、綺麗な空気も、彼らは必要としていなかった。
便利さと引き換えに得たものを、手放すつもりはさらさらなかったのだ。

自然保護のためという言い訳を使い、市の政治家達は東側を発展させようとはしなかった。
一点豪華主義とも呼べる政策は、失敗か成功かで言えば後者だったのかもしれない。
いわゆる田舎暮らしを求める、都会の喧騒に疲れた人間は、霧ノ埼よりももっと不便でない場所を選ぶ。
何もかもが、中途半端だったのだ。スーパーの品揃えやファーストフード店の数を取っても、県の中心には遠く及ばない。
市の西半分だけが、建造物の種でも蒔いたのかと思うほどに高層ビルを生やしていた。
それに対する東半分は、信号機すらほとんど見当たらない。自動車が通ることも稀だ。

草は伸びるままに任せた。道の舗装もしなかった。
土地だけを極端に安く売って、それでも人はほとんど住まなかった。
若者はどんどん都市部に流れ、年老いた者もまた徐々に離れていった。

今では辛うじて、三十にも満たない家がぽつりぽつりと残っているだけ。
新しく住むのは厭世的な人間か、よほどの物好きくらいだろう、というのが薄霧で暮らす人々の評価。


―― それを少女は、悲しく思う。
街行く人は、いつも忙しそうに流れていて、何かに急かされるように余裕なく動き回っている。
勿論悪いことではないけれど……ただ、寂しい、と思うのだ。

だってあの場所には、みんなが忘れてしまったたくさんのものがある。
山の方から流れてくる、無数の小さな川。昔から耕されてきた、大きな畑。
建つ家のほとんどは木造で、優しい木の匂いと、風の心地良さをいつも感じられる。
慌しさが、そこにはない。時間がゆっくり、ゆったり過ぎていく。

霧ノ埼の四季は、とてもはっきりしているから。
春には、柔らかく眠気を誘う風に、少しだけ遅く、ひっそりと咲く桜を。
夏には、南に比べれば低い湿度ながら、肌をじりじりと灼く陽射しと草の緑を。
秋には、ぐっと冷えて吹く木枯らしと、鮮やかに染まる山の紅葉を。
冬には、凍えそうになる大気、そして静かに、大量に降り積もる雪を。
すぐ近くで見て、聴いて、味わうことができる。

自分と、親しい人達以外は知らない、そんな世界の姿が、少女は大好きだった。
だから―― だから、薄霧ではない、東側に新しく住もうとしている人がいる、と聞いた時。
ほんの少しだけ、わくわくした気持ちを抱いたのだ。

それはきっと、不安の入り混じった、期待。
何かが変わっていく、そんな予感。

その日から、着々と建てられていく家がある道を通って学校に行くことが、少女の日課になった。
一度、どんな家になるんですか、と訊ねたことがある。
返ってきた答えに、少女はまた心を躍らせた。

「古本屋、なんだとよ」

大工の腕が良かったのか、間もなく建物は完成した。
主無き空っぽの家は、扉を固く閉ざしたまま。
男か女か、一人か複数人か、年齢も何もわからない。
けれどそんなことは少女には関係なくて、本を読むのはとても好きだから、一番最初の客になろうと決めていた。

そうして、両手で数え切れないくらいの日々が流れ――――

夕方頃、大量の荷物と共にやってきたその家の住人は、引っ越しの準備をどうにか済ませてぐったりと床に就き。
さらに四日を費やし、ようやく開店準備を済ませ、少女の期待など露ほども知らずに眠ったのだった。
……表の鍵を閉めてないことにも、気付かないで。

日常は、動き出した。





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